屍の権能 その5
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
僕、伊勢 健之助は、動物たちが這い出てきた畑から、東に60mほどの場所にいた。
ベルゼブブの気配をまだ近くに感じる。
……そろそろだろうか。
携帯の時計を見ると、鬼怒川がコインランドリーでエリーを見つけるように仕向けた時間まで、あと6分ある。もっとも、僕の権能が狙い通りに作用すれば、だが。
今も確実に近くにいるベルゼブブは、僕を追跡するのに嗅覚を用いている。
それでも僕に追いつけていないのは、ベルゼブブの脚がアスファルトの上を走ることに向いていないためだろう。
そして、僕は腐臭が染みついたデッキブラシを、電柱の陰にそっと立てかけた。
ベルゼブブはデッキブラシを握っていない僕自身の臭いを知らない。つまり、もう僕を追跡できないはずだ。
あとは時間通りにコインランドリーに到着するだけだった。早歩きで向かう。
さっきの畑を避けて進むと、やがてあの美容室の近くを通った。
「すみません!あの怪物と戦ってた方ですか……?」
声をかけてきたのは、多分萌々奈と同い年くらいの女の子だった。
「私のパパも言ってたんですが、あの怪物、私の飼ってた犬と同じなんじゃないかって。」
「ええ。そうなんですか。」
……それがどうしたって言うんだ。いまはそれどころじゃない。
「うちの犬……ラッセルはアイツに取り込まれたんです!」
……そんなのは確証のない話だ。同情はするし、事実なんだろうが、今取り合うのは時間の無駄だし、危険だ。
「すみません、急ぎなので。くれぐれも、敵討ちなんて考えないでくださいね。」
その人は涙を浮かべて、「でも、ラッセルが……」と呟いた。
「僕は今から走って12時30分に、コインランドリーに向かいます。そこで怪物の元凶を倒します。」
立ち話をしている暇もない。
「私、ついていきます!あ、宮島と申します!」
「宮島さん、急いでください!」
僕たちは、駆け足で向かった。
コインランドリーに着いた。
僕たちは、鬼怒川 真悟がしゃがんで、エリーに向かって何かを語り掛けているのを見た。
ヤツはエリーに向かって両手を伸ばしたが、エリーはスルリと抜けて、鬼怒川から2メートルほど離れた。
「あれが、あの怪物を作り出した男……」
震える声でそう言った彼女は、拳を硬く握りしめた。
男が僕の方に気付いて言った。
「お前……伊勢 健之助!!そうか……お前……!!一体私に何をするつもりだ!ベルゼブブは!おい!私のベルゼブブはどこに行った!!」
男は瞳孔が開き、手足は震え、だらだらと汗を流していた。
「なあエリー、私と帰ろう?永遠に、幸せに暮らすんだ。何が不満なんだい?」
エリーは再び、そっぽを向いた。僕は勝利を確信して言った。
「ベルゼブブなら、もう僕を追ってくることはない。簡単な理由だ。さあ、鬼怒川 真悟。その権能を解いてもらおうか。」
僕はじりじりと距離を詰めた。そして今、僕の中に不思議な感覚が流れた。神秘的、とでもいうような感覚が。
僕は両手を前に掲げた。
「伊勢 健之助!お前は、なぜ私を止めようとする?お前には関係のないことだろう?」
……確かに関係ないかもしれない。
「そのエゴで多くの命が!尊厳を踏みにじられたんだぞ!」
「神にでもなったつもりか、お前。『屍』の権能は、人間が推し量れる領域じゃない。お前なんかに!どうすることもできないだろ!」
「僕の権能は『奇跡』だ!必ず、止めてみせる。」
「まさか、お前も……!?いや、それなら納得がいく。」
鬼怒川は僕の手をパシン、と勢いよく振り払った。
「貴様ーーーー!!」
僕の後ろから宮島さんが出てきて、鬼怒川に殴りかかろうとした。
「ラッセルを……どこにやったんだ……!」
その拳を、鬼怒川は片手でやすやすと受け止めた。彼女は拳を納め、その場で泣き崩れる。
「宮島さん……」
その時、エリーが僕の方へとすり寄ってきた。
「……なぜだ!エリー!なぜ私じゃなくて!!その男なんだ!!なぜ……」
そう言うと鬼怒川はは顔を手で覆って、うつむいていた。
エリーは僕のそばで、ただじっと、その男を見つめた。
「お前……伊勢 健之助!どこまで私を愚弄するつもりだ!」
鬼怒川は僕を睨みつける。
「命を愚弄するだけのその権能に、正しさなんかない。あるのは……」
「……絶望だけ。」
私、宮島 瑠美と、伊勢 健之助という人からは、同じ言葉が口をついて出た。
そう、この街には絶望が蔓延している。
夏場なのに路面が凍結したり、不審者が頻発したり。友達の日下 萌々奈だって、この前殺人犯に襲われたと言っていた。遠くにある奇妙な白いドームも何かの予兆だ。
そしてこの鬼怒川という男が作り出した化け物たち。……ラッセルも、この中に取り込まれたに違いない。
私の愛犬ラッセルは、16歳オスのラブラドール・レトリーバーだ。
私が物心つく前に、我が家にやってきたらしい。大型犬の寿命としてはかなり長生きで、もう目が白くなってきて、体も自由に効かない。トイレができなくなってからは、おむつを履かせていた。
もう長くないんだって、誰もがわかっていた。
だから2日前、ラッセルがいなくなったって聞いたときには……
家族全員、気が気でなかった。
ちょうど今日、美容室の店主をしているパパから連絡があった。
「イノシシの化け物から、ラッセルの声がする」と言っていた。
パパもついに気が狂ったのかと思った。
でも私、その話を聞いて、「その化け物を倒せばラッセルとまた会える」なんて、希望を持った。そんな希望に本気で縋ってしまうくらいには、私はどうかしていたんだ。
もう一度、ラッセルに会いたい。どうしてラッセルから目を離してしまったんだろう。会って謝りたい。
あの日散歩に出かけた夕方も、日中の暑さが残って暑かった。
散歩とは言っても、ラッセルはもう上手に歩けない。毎日、美容室の裏手にある玄関からゆっくりと道路に面した入口まで回り、店の入り口付近で休んでから、また玄関に戻る。
でもその日は、ラッセルは家に戻りたがらなかった。ラッセルはあまり目が見えないが、美容室の前で休んでいる時に、ある一点を見つめて動かなかった。その先には一瞬、猫のような奇妙な生き物が見えた。
思い出した。それが私の目の前にいる、エリーと呼ばれる猫だ。
その後、私たちは玄関に戻った。ラッセルが玄関に入るのを拒んだため、玄関を開けたまま、私はラッセルの足を拭くタオルと、替えのおむつを取りに行った。
そして、私が玄関に戻ったころにはラッセルの姿はなかった。
私は日付が変わるまで、ラッセルを捜し続けた。足も衰えているから、まさか、そう遠くには行けるはずがない。それなのに、見つからなかった。
犬や猫は、死に際を飼い主に見られたがらないという。それにしても、奇妙だった。
パパやママにこの話をすると、私を責めるでもなく、静かに泣いていた。そして、警察に連絡した。
私たち家族はしばらく泣いていた。
ラッセルは、もう……
きっと、この男が、ラッセルを……!絶対に許せない。私は……人を殺すかもしれない。
ラッセルは私といつも一緒に遊んでくれた。いつも、よく食べてよく寝る子だった。私たちは、たくさん会話をした。会話とは言っても、私が話すだけだったけど。
いつも嬉しそうに話を聞いてくれた。
体が動かなくなってからもそうだった。いつものように愚痴を言ったり、いろいろな話をした。最近だと、町役場前のチンチンみたいな像の話とか、萌々奈ちゃんから聞いた、ちょっとウソみたいな話とか。ラッセルは力なく尻尾を揺らして、嬉しそうに話を聞いてくれた。
ラッセルのこと思い出すと、私、涙が止まらない。今はそんな場合じゃないのに。
ラッセルの仇……鬼怒川 真悟は声を上げた。
「ベルゼブブ……来てくれたのか!!」
私と伊勢さんは振り返って、遠方にその三つの頭を持つイノシシの化け物を見た。
「あ、ああ、あ、アイツは……!!」
伊勢さんはこれまでとはうって変わって、引きつった表情になった。
ベルゼブブ。
ラッセルを取り込んだ悪魔。
ベルゼブブの追跡を躱した健之助は、愛犬ラッセルを失った少女、宮島 瑠美と出会う。彼女は、ベルゼブブの中に老いたラッセルが取り込まれたという。
屍の権能者、鬼怒川 真悟を追いつめる健之助と瑠美だったが、そこに振り切ったはずのベルゼブブが現れる。
次回、屍の権能編、最終話。




