屍の権能 その4
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
畑の土からは、ざっと見ただけで10以上の動物たちが這い出てきた。このデッキブラシに染みこんだ腐臭に引き寄せられたのだろうか。
群れには一匹のチワワがいた。
僕の方を見て尻尾を振り、舌を出して呼吸をする振りをしていた。
そのチワワの前足を見ると、片方は骨組みの入ったテディベアの脚に置き換えられていた。
尻尾を振って僕に駆け寄ろうとした。脚が馴染まないせいか、バランスがうまく取れずに転んでしまう。人懐っこいチワワ……だったのだろう。
じたばたと藻掻いてはまた起き上がり、何もなかったような顔で、またパタパタと歩く。
その犬は、おぼつかない足取りで少し歩いては、何かを訴えかけるように、僕を見つめていた。
確かに、目が合った。
……でも、その目は、死んでいた。
こんなにも、何かを欲しているのに。
こんなにも……
僕、伊勢 健之助には既に戦うという選択肢がなかった。
かといって、ただ逃げることもできなかった。ここにいるだけで気が遠くなるような腐臭に、動物たちの、命だったものに……ただ、包まれていたから。
道端で遭遇した、エリーのあの、真っ黒な瞳から感じていた、不思議な引力。僕を引き付ける力。それが今になってようやく、実感としてわかったからだ。
全ての動物に、命があったこと。
動物たちの確かに死んでいる、死んだような目。それはまったく生気がないのに、何かを望んで彷徨っている思いのようだった。
ホラーだとか、ゾンビだとか、そんな風に言えたらどんなに楽だっただろう。
……命があったんだ。エリーだって、ベルゼブブだって。
そのチワワは、声にならない声で、吠えるような動きをした。
言葉に言い表せない胸の痛みと、腹の底から沸き起こるような吐き気を感じていた。
これは腐った臭いによるものだけではなかった。食いしばった歯が軋み、デッキブラシを握りしめた拳からは血が滲むようだった。
許せない。
彼らの尊厳をこれほどまでに辱めた屍の権能も、そんな簡単なことに目を向けられなかった自分自身も。
遠方からは、ベルゼブブと思しき大きな犬の鳴き声が聞こえた。僕は一気に現実に引き戻した。
僕は医者じゃない。
殺すことも活かすこともできない。だが……終わらせる!
僕が、鬼怒川 真悟を、屍の権能を終わらせるしかない。
その大きな鳴き声から反対側へ進み、動物たちをあとにした。
あと8分で、コインランドリーに鬼怒川が来る。僕はデッキブラシを握って、少しでも遠く、東側を目指して駆け出した。
2000年7月30日。
うだるような日差し。一目につかない、薄暗い木陰にたどり着いた。
私は医者だ。
多くの命を活かしてきたし、それよりも多くの命を殺してきた。
獣医として、動物愛護センター「かんながわんにゃんライフセンター」にいることも多かった。特に1999年頃は、特に捨てられた犬や猫が多い時でもあった。愛護センターは捨てられた動物たちでひしめいていた。
この子たちにとって、とても快適とは言い難いところだったが、クソみたいな人間に虐げられて生きるよりは、幾分か良いのだろう。
そこに集められる動物たちは、譲渡がすんなりと進む子もいたが、ほとんどの子は譲渡されることがない。このご時世では、引き取り手もそれほど多くないのだ。
譲渡されなければ、ここで育て続けることもできない。つまり法律に則って……
獣医である私、鬼怒川 真悟が背負った、重すぎる十字架だった。
それでも、この力……「屍」の権能があれば。私はまた、命を与える獣医になれるんだ。
……思えば、いつの間にか私は壊れてしまったのかもしれない。しかし、もう戻れない。
視界に入った自動販売機で、水を購入した。
私の権能を気味悪がって、敵対してくる者は多かった。私は、正しいことをしているのに。
零れ落ちた命が、再び命であれるように。
弱みを克服して、また歩き出すように。
儚い命を強い命へと昇華させる……これほどまでに素晴らしい力を、なぜ奴らは頑なに拒む?
奴らは聞く耳を持たない。
誰も彼も、口をそろえて「命の冒涜」だと言う。
……奴らが愚弄した新たな命が、いかに力強いものなのか。
真の強さを得た命の前に、奴らの思考停止した倫理とやらがいかに脆弱なものなのか。
私は知らしめねばならないと悟った。
そのために私は猟友会が討伐した猪と鹿と、ある男の亡骸と、ある犬の命を繋ぎ留め、この権能で強化した。廃材置き場にあったエンジンを取り付けて更なる動力源にした。
あり合わせだが最強の個であるその命には、ベルゼブブと名付けた。
豚が象徴する大罪、「暴食」を冠した悪魔の名。多くの腐肉を継ぎ接ぎしたそれは、「蠅の王」に相応しいほどの蠅の大群と、禍々しい邪気を纏っていた。
死ぬことも、朽ちることもない、圧倒的な命であり暴力。これを愚弄すること、それこそが冒涜だ。
……中でも、ベルゼブブと対峙していた、伊勢 健之助という奇妙な若者。奴はその力を目の当たりにしながら、「下劣なオモチャ」であると言い放った。取るに足らない戯言。
だが、これほどまでに、この強大な命を愚弄したヤツを、野放しにはできない。次こそは必ず、ベルゼブブの力で屈服させる。
私はまた歩き出した。美容室から見て西の方向へ。
ベルゼブブの追跡能力は本物だ。ベルゼブブにはその嗅覚で、伊勢 健之助を探して殺すように指示してある。
私は迷子のエリーを捜索をしたいのだが、どうにもベルゼブブとエリーはウマが合わないらしい。何かの間違いで壊してしまわないか心配だから、エリーは私が自分で捜す。
そして奴の目的は、間違いなく私だろう。私が意図的に権能を解けば、権能によって形づくられた命は崩壊する。それは私の死でも同様だ。言葉通り、奴は私を殺しに来るのだろう。奴の言葉には、ハッタリじゃない何かがあった。
私は今死ぬわけにはいかない。この権能が限りなく続き、新たな自然の摂理となるまでは。
それなら、ベルゼブブに私を護衛させた方がいいのではないか?そうも考えたが、それではエリーの捜索という最大の目的が疎かになるだろう。
それに、再び奴と会えば、私は目の前にいる人間を殺すことになる。この使命のために、私はこれからも人を殺さねばならない。だが、この目で見届けるのはまた違う。
私は、私だけは、命を救う存在であり続けたいのだ。殺す役割はベルゼブブでないといけない。この期に及んで、これは我儘なのだろうか。
伊勢 健之助をベルゼブブが殺すまで、私は遠くへ逃げ続けること……それこそが私の戦いだ。そのためには、神流町の3か所に眠らせている動物たちを呼び起こすことも、やむを得ない。
エリーの捜索はその後でゆっくりやればいい。
エリーは……私が最初によみがえらせた、特別な子なのだ。あとからでも必ず巡り会える、そう信じている。
……そのとき、不思議な感覚に包まれるのを感じた。神秘的、とでもいうような感覚。
いや、早くエリーを見つけて、そのまま伊勢 健之助に見つからず、ここを去ることだってできるはずだ。ベルゼブブには、その嗅覚で引き続き奴を追跡してもらえばいい。
エリーがいそうなところ……「猫のゾンビが出る」という噂があった、あの子のお気に入りの場所……
ヤツに見つからないように願いながら、私は来た道を引き返した。
土の中から這い出た哀しき動物たちに遭遇し、鬼怒川 真悟への憎しみをますます募らせる健之助と、自らの十字架を背負い孤独な闘いに身を投じる鬼怒川。
二人の思惑が交錯する昼間の住宅街で、ついに決戦の時を迎えようとしていた。




