屍の権能 その3
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
視界の端、塀の上にあの三毛猫を見た。鶏のトサカとハクビシンのような足、魚の背びれが付いたあの三毛猫だ。
到着した警察官が僕に声をかける。
「どうなさいました?大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。話なら後でしますから、それを取ってください……」
「怪我してるじゃないですか。」
一人の警察官と不毛なやり取りをしていると、奥の方では「傷病者あり、救護を要請します」との通信をしているのが聞こえた。
今警察が来るのは、結構マズいぞ……
僕、伊勢 健之助は再び、地面に落ちたデッキブラシに手を伸ばした。
だが、体が硬直して起き上がれない……
真夏の日差しを吸った黒いコンクリートは、じりじりと熱い。自分が鉄板の上にいるように錯覚した。
三毛猫は、そんな灼熱の地面をものともせず、弊の上から軽やかに飛び降り、デッキブラシの方へと寄ってきた。
「う、うわあああ!」
その奇妙な猫を見た若い警察官はうろたえていた。うろたえながらも、パトカーに戻り何かを捜していた。……動物捕獲用のネットか何かだろうか。
三毛猫と目が合う。近くで見たのは初めてだ。その動きはどこかぎこちなく、さっきと同じように、どす黒い血をぽたぽたを垂れ流していた。
顔立ちは普通の猫だが、その瞳にはまるでこの世を超越したような、深い闇。ただの黒い瞳とは違う。その目に奇妙な引力を感じていると、猫はさらに近づいてきた。その腐乱臭に眩暈がした。
……「屍」の権能者、鬼怒川 真悟。あの男が探していた、「エリー」という猫はきっとこいつだ。
鬼怒川と戦うためにはこの猫しか手がかりがない。
いや待てよ、そもそも、戦うって、どうやって……?
ああ、熱いし、なんか臭い。もう、何も考えられないな。臭い……
猫は近くに来ていた。ああ、意識が……
……その時、まるで僕の体内の何か、予備電源のようなものが発動するように、不思議な感覚が僕を包んだ。「奇跡」の権能だ。
「大丈夫かー?……おい!救急車まだか!」
中年の方の警察官の声をよそに、僕の体からは痛みがみるみるうちに消えていった。切れそうだった意識が、はっきりと戻ってくるのを感じた。
僕はスッと立ち上がった。怪物・ベルゼブブに受けた傷はまだ残っていたし、体を動かすと、まだ少し痛い。やはり、日差しが熱い。
「おい君……!!一体何があったんだ……」
狼狽える中年の警察官をよそに、僕はエリーの方へ歩き出した。
デッキブラシの毛に、嬉しそうに体を擦りつけていたエリーは、僕の方を見ていた。かなり臭い。
「……解放してあげたい。ただのエゴであっても。」
周りには聞こえないであろう言葉を発した僕を、エリーは見上げていた。
若い警察官が、動物捕獲用ネットを構えてこちらに近づいてきた。
さて。
ヤツ……鬼怒川 真悟の取る行動は2つ考えられる。
1つはエリーを捜すこと。おそらくエリーは、鬼怒川から距離を取っている。その理由はわからないが、エリーがここにいる状況は、ヤツを捕まえたい僕にとってチャンスだ。
もう1つは、僕を殺すこと。ヤツの目的がなんであれ、僕の存在が邪魔になる……というのは自意識過剰だろうか。本気で殺すつもりなら、僕に対して再びベルゼブブを差し向けるだろう。事実、ベルゼブブとかち合えば僕に勝ち目はない。
故に、僕が鬼怒川を追いつめるタイミングで、ベルゼブブと遭遇する状況だけは避けねばならない。
そのためにも、ベルゼブブにはエリーと鉢合わせず、かつ鬼怒川とも離れて僕を追ってもらう必要があるし、鬼怒川には立ち止まらず、動き回ってもらう必要がある。
幸い、鬼怒川は僕の体が動くことを知らないし、警察が来ている以上、大胆な行動はとれない。
だが、敵は「屍」の権能。他にもキメラの伏兵が潜んでいないとは、到底思えない。
「エリー、このブラシ、僕に貸してくれないか。……戦いが終わったら返すからさ。」
嘘を吐いているようで、胸がどうしようもなく苦しかった。この戦いが終われば、エリーは……。
「さあ、行くんだ。おまわりさんにも捕まるんじゃないぞ。」
エリーは、鬼怒川が探しているであろう方向へと、風のように颯爽と走り出した。
僕ももう出よう。
「おい待て!どこに行くんだ!」
「すみませんが、僕はもう行きます。三つ頭のイノシシには、気を付けてくださいね!」
僕はコインランドリーがある通りとは反対側の路地に入り、塀の陰に潜んだ。鬼怒川や、ベルゼブブ、ついでに警察官に見つからないように、エリーの通り過ぎたであろう道を進む。
誰かに見られてる気がする……?いや、気のせいか。
僕がエリーの臭いが染みこんだデッキブラシを持っている限り、ベルゼブブは追ってくる。
そう、今の僕とエリーは同じ臭いだ。
それに、ベルゼブブはこのデッキブラシに対して、なぜか異常なまでの敵意を示していた。
もしかして、エリーに対しての敵意なのか?でも一体なぜ?
もし鬼怒川がエリーを本当に大事に思っているとすれば、そんな状態のベルゼブブに、エリーを捜索させるとは到底思えない。いや、寧ろ躾が行き届いていて……いや、どうだろう。
考え出せばキリがないし、まだ判断材料が足りない。
鬼怒川 真悟の動向を追跡する手がかりだって、エリー以外には何もない。
……僕がエリーを目撃した場所は、あのコインランドリーだった。
エリーのお気に入りのデッキブラシを拾ったのもそこだ。鬼怒川はそのことを知っているのか?もし知っているなら、間違いなく一度はそこを訪れるだろう。
その時、僕の体から、不思議な感覚が発せられた。
今から15分後、12時30分に、鬼怒川は例のコインランドリーで、エリーを目撃する。
……ヤツの行動が追跡できないのなら、そう仕向けてしまえばいい。
それまでは、このデッキブラシのせいで僕は怪物ベルゼブブに追われ続ける。……捕まれば最後。
ベルゼブブが何らかの方法で僕とエリーの臭いを区別している以上、エリーを追跡してしまわないよう、僕がこのブラシを持ち続けないといけない。
「ワン!ワン!ワンワン!」
ベルゼブブの吠える声が、そう遠くない場所から聞こえた。
いま見つかるのはまずい。早くここを離れよう。
僕は身を屈めて走った。デッキブラシが地面に引っかかるし、臭くて邪魔だ。が、今は手放すわけにはいかない。鬼怒川を捉えるためには、今じゃない。
そして、住宅街の中に小さな畑を見つけた。真夏なのに作物が全く育っていない。それでいて、無数の大きな蠅が飛び交っているのがはっきり見える。異質な空間だった。どこか、生き物の跡を感じる。
その瞬間だった。土の中から、異様な存在感を感じる。なんとなく予想はしていたが。
そこには、畑の土から這い出てきた多くの犬と、猫と、カラスに猪にハクビシン。そのほとんどは、体の一部が他の動物に置き換わった、継ぎはぎのような動物たちだった。
どうしよう……逃げるか?
いっそ全員まとめて……いや、僕にはそんなことできない。
三毛猫のキメラ・エリーの存在に、健之助は鬼怒川 真悟を捉えるための好機を見出す。しかし、強力無比な猪のキメラ・ベルゼブブを遠ざける必要があった。そんな中、健之助は土に葬られたキメラたちを発見する。
エリーを追う鬼怒川、鬼怒川を追う健之助、健之助を追うベルゼブブ。腐臭と灼熱に包まれた15分間の追走劇。




