屍の権能 その1
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
2000年7月30日。
僕、伊勢 健之助がボロい学生寮の1階で一人暮らしを始めてから、1年と4カ月が経つ。
起きたのはほぼ昼だが、今日も暑い。今日はたまに入っている塾講師のバイトがある日なので、それまでに色々と準備をしておきたい。
トースターでパンを焼き、僅かバターを塗って頬張った。冷蔵庫から麦茶をとってグラスにダバダバと注ぎ、口に含んだ味気ないトーストを、麦茶でふやかしてぐっと流し込む。
10時半を過ぎた頃、ふと洗濯をしようと思った。ため込んだ洗濯物をビニール袋にぎゅうぎゅうと詰め、僕は居室を出た。共用の古臭い洗濯機に電源を入れた。1週間ぶんの衣類と洗剤をぶち込んでボタンを押す。
その途端、「ピー」と断末魔のような音が聞こえて、洗濯機はそのまま動かなくなった。
寿命が来たのだろうか。たまに気を利かせて掃除してやったりはしていたが、あまりに突然。
とりあえず不動産会社の人に電話してみることにした。電話番号は、確か……あ、あった。
……電話は済ませた。明後日には様子を見に来ると言われたが、それまでは辛抱だ。コインランドリーにでも行くとしよう。
確か、神流駅から反対方面だったと思う。僕は粉洗剤の着いた洗濯物をビニール袋に入れて、財布も持って外に出た。
外は蒸し暑い。じめじめとした狭い路地を進んで行く。
やがて大通りに出ると、反対側の歩道に「コインランドリー うさぎウォッシュ コチラ右」の看板が見えた。
信号待ちをしていると、自転車に乗った小学生たちが「おれ、イノシシの群れ見たよ!!ほんとだよ!」などと騒いでいた。
それと同時に、2キロメートルほど前方に大きな、白いドームのようなものを見た。
あの方向は……以前、萌々奈を車で迎えに行った場所の近くだろうか。かなり離れているにも関わらず、権能が纏う邪悪なオーラをひしひしと感じる。
……きっと、彼女なら大丈夫だとは思うが、なんとなく気が気でなかった。
電話で尋ねたほうがいいだろうか……
信号が青に変わった。横断歩道を渡り、看板の通りに車2台がギリギリ通れるほどの狭い路地に入ると、3階建てのボロいアパートを見つけた。
1階がコインランドリーになっていて、人影は見えない。
……やっぱり彼女のことが気になってしまう。電話するべきなんじゃないか?…躊躇う理由が一体どこにあるんだ、伊勢 健之助よ。
くだらない自問自答をしている間に、何かが目の前を通り過ぎた。
……ん?
ふとコインランドリー前の苔生した植木鉢を見ると、その陰には見たことない生物が佇んでいた。
三毛猫。いや、それとはすこし違う。
頭と胴体は三毛猫のそれであるが、ハクビシン?のような四肢を持ち、頭には鶏のトサカ。
背中には、なぜか大きな背ビレがついていた。
様々な動物の、まるで継ぎ接ぎのような、ただただ歪な生物。
背筋が凍るような思いで、僕はただ呆然と立ち尽くしていた。
するとその猫?は僕を一瞥し、
「ニャー……」
とどこか悲しげな、しわがれたような声で鳴くと、建物の裏手へ、のっそのっそと歩き出した。
足下の打放しコンクリートに目をやると、それが通った後にはどす黒い血液のような跡が、約1メートル置きに、ポタポタと垂れている。
夏の暑さも相まって、その跡からはまるで魚の肝が腐ったような酷い悪臭がする。
なにか、ものすごく危険なものを見たように思った。寒気がする。
僕は急いで携帯を取り、矢印の下を連打した。アドレス帳から「日下 萌々奈」の名前を探して、電話をかける。
「はい〜、日下です〜!」
上機嫌そうな声。僕は胸を撫でおろした。
「萌々奈さん!いま化け物が!」
「『さん』はやめてくだ……ええ?」
彼女はいつも通りだが、こっちはそうもいかない。
「おそらく、キメラとか、ゾンビとか、そういうのを作り出す権能者がいる!萌々奈さんは、いまどこにいるの?」
あの白いドームの中に居るのだろう。この声色だと特に心配はなさそうだが、彼女の力になれないのが、すこし歯痒かった。
「綿の中です。多分出れません……」
そうか、それは「綿」なのか。まあ、彼女の「熱」なら大丈夫だろう。
「やっぱりその中にいたんだ。了解!こっちは何とかするから、この件が終わったらまた会おう!」
それよりもまず、僕はこの生物を確かめないといけない。捕まえてどうするわけでもないが、この権能の主には必ず会わないといけない。
洗濯物が入った袋のことなど、とうに忘れていた。
僕はその三毛猫を追って、コインランドリーがある建物の裏手に回った。裏の民家の塀とは、僕の肩幅より狭いくらいの幅しか空いていなかった。足元には打放しコンクリートを磨くための古びたデッキブラシが落ちていて、そこには小さな血だまりがあった。
すでにその猫の姿は見えないが、確かに生臭い血痕がまだ残っている。血痕があるのはこの敷地の中だ。あのよろけた脚では、きっと塀を飛び越えて隣の家には行けないはずだからだ。
壁に取り付けられたホコリまみれの室外機の下をくぐろうとしたとき、
「きゃああああ!!!」
遠くから誰か、女性の悲鳴が聞こえた。さっき通った大通りの方向だ。しかし、今はあの猫の方が重要だ。室外機に頭をぶつけた。
「腐った化け物だあ!!」
男性の声が聞こえた。化け物……?やはりこれは放ってはおけない。
そのとき、不思議な感覚が僕を包んだ。神秘的、とでもいうような感覚。
どす黒い血が死臭を放つ足元のデッキブラシを握り、僕は急いで大通りの方に戻った。
逃げ惑う人々の流れに逆らって、綿のドームが見える方向へ進むと、あの三毛猫と同じような、いや、それよりももっと不吉で大きい死臭に襲われた。
僕は流れる汗を手の甲でぬぐいながらも、先ほどの寒気がより一層強まっていくのを感じていた。
さっと、電柱の陰に隠れる。その横を、また人が走り、逃げ去っていった。
「ぐう、ぐぐう……」
かなり近くから声が聞こえた。近い。悪臭がより一層、濃くなった。僕は電柱の陰から恐る恐る覗く。
美容室「ガーベラかんなが」の駐車場前には、一頭の獣、いや、そう形容するにはあまりにもおぞましい、化け物が立っていた。
異常なほど筋肉質に膨らんだ鹿の後ろ脚と、猪のような胴体。腕は人間のもののようだが、その掌は熊の手のように増大し、変形していた。背中にはなぜか、オートバイ用のエンジンを搭載しており、頭部には猪の頭が3つついていた。
すると、美容室の裏手から、中年の男性が枝切り鋏を構えて化け物に向かっていった。「お、おお、お、お前!俺の店から出ていけ!!ここ、こ、このケダモノが!」
獣は店主らしき男性には目もくれず、腕の掌の一振りで、植え込みから突き出た「ガーベラかんなが」の看板を粉々に叩き割った。店主の足はぶるぶると震えていた。
……まずい!彼が殺されてしまう!!僕は咄嗟に、その獣をおびき出すように、血生臭いデッキブラシを大きく振り回した。
2,3振りすると、その獣はゆっくりと方向を変えた。足の震えが収まらなかった店主は、その時枝切り鋏を地面に落としてへたり込んだ。
「くそ……くそ!!やめてくれ!うちの店員には手を出させない……」
獣の3つの頭が、いま僕にもはっきりと見えた。
「グルルルル……ワン!ワンワン!!」
僕に気が付いたソレは、その体躯に見合わない、中型犬のような声で大きく吠える。
「お、おい、その声……」
店主は顔面蒼白で獣を見上げ、振り絞った声でそう言った。
獣は、僕を中央の頭の正面に捉えた。いま目が合ってしまった。
この世の理を超越した存在。「屍」の権能。僕には捕獲なんてまずできないし、殺せるわけもない。そもそも、こいつを殺しても死ぬのか……?
勝算はない。権能者が誰なのかもわからない。
でも、どうか、僕の権能よ!|
……奇跡よ!
得体の知れない恐怖で静まり返った神流町の一角には、いま、大きなエンジン音が響き渡った。
萌々奈の身を案じながらも、健之助は三毛猫のキメラと、エンジンを搭載した3つ頭イノシシのキメラに遭遇する。
健之助は自らの権能を信じ、凶暴で凶悪な禁忌の力、「屍」の権能に挑む。
まあまあグロテスクなお話になりそうですね。混川はそういうの得意じゃないので、マイルドに進めるつもりです。




