綿の権能 その5
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
私、エーデルワイスが目を覚ましたのは昼の12時だった。
今日はまだ、2000年7月18日。
そうだ、私はこの晩、ここに現れて……
思い出すだけでもドキドキする星空の中で、不思議な……邪神を名乗る人から、「エーデルワイス」という名前を貰った。
変な名前だ、と思った。でも、大好きな私の名前。
私は目を覚ますと、そこは和室だということを思い出した。
ぐつぐつと、何かが煮える音と、トントントンと、何かが切られる音が聞こえる。
寝ぼけた目で、和室の襖を開ける。
台所では、邪神のお供みたいな人が、ネギを切っていた。すぐ横には、切られたチャーシューと煮卵、希釈前のスープが入ったどんぶりが置いてあった。
「エーデルワイス、そろそろお前が起きる頃だと思っていたぞ。」
「お、おはようございます。」
「そういえば、まだお前には名乗っていなかったな。俺は呉 建炫だ。訳あって邪神様とともに暮らしている。」
「 建炫さん……そういえば、邪神さんのお名前ってなんていうんですか?」
彼はため息をついて、小馬鹿にしたように答えた。
「……はあ。邪神様は邪神様だ。」
「本当に?」
「本当だ。そろそろ麺が茹で上がる。ただのインスタント麺だが、お前も食え。」
「ありがとうございます。いただきます。」
建炫さんはどんぶりにゆで汁を入れてから、麺を湯切りして具材とともにどんぶりに入れた。
「さあ運べ、箸も忘れるんじゃないぞ。お前は先に食べていろ。」
やけどしそうになりながら、往復して2つのどんぶりを運んだ。
そのアパートの一室は広くなかった。玄関を開けるとすぐ横に台所があり、台所のすぐ後ろにはダイニングといった間取り。
ダイニングには、少し背の高いテーブルと、2脚の椅子があった。私は、
「いただきます。」
と言ってラーメンを食べ始めた。建炫さんは何も言わなかった。
熱々の豚骨ラーメンを箸で取って口に運ぶ。しょっぱい味付けが体に染みて、どこか満たされていくのを感じた。
「ラーメン、おいしいです!」
「……もうじき邪神様がお帰りになるだろう。お前の体調が良ければ出かけるかもしれないな。」
彼は向かい側に座った。
「出かけるって、どこに行くんですか?」
「わからん。邪神様は何でもかんでも話されるお方ではないからな。」
「ふぅん。」
ラーメンを食べ終わった。私はどんぶりを持ち上げて口に運んだ。
「おい、スープまで飲むのはやめておけ。」
「だって、おいしいんですもの。」
「馬鹿なのかお前は。インスタント麺のスープにどれだけの塩分が……」
「私若いんですし、大丈夫ですよ。建炫さんだって、そんなこと気にする年齢じゃないですよね?」
「いや、俺は今年で28になる。お前だって、あと数年……20歳を超えればわかるはずだ。そもそもエーデルワイス、お前いくつなんだ。」
「わからないんです……多分、15歳とか?20歳かも。」
「お前、自分の年がわからないのか?」
建炫さんは手を止めて私を見つめたが、すぐ納得したように再びラーメンを啜った。
「ええ。まあ……ところで、邪神様って、おいくつなんですか?」
「俺も詳しくは知らないが……おそらく、2400歳くらいにはなるんじゃないだろうか。」
「ええ!?不老不死ってことですか?」
「そうだ。しかし、ラーメンのスープまで飲むのは体に障ると、邪神様が仰ったのだ。
先週、邪神様はラーメン屋でチャーシュー麺を注文なさったが、スープまで全てお飲みになった。その後、顔のむくみや腹痛に頭痛など、散々な目に遭われていたのだ。
それ以来、俺はラーメンのスープは飲まないと決めた。」
「そうだったんですか。」
「そう言いながらスープを飲もうとするな、この馬鹿者。」
「わかりました、やめますよー。」
うるさそうなので、飲まないことにした。ああ、勿体ないなあ。
ピンポーン、と音が聞こえて、2秒後に玄関のドアが開いた。
「我が帰宅した。」
邪神さまは相変わらず、黒いロングコートを纏っている。真夏の昼だというのに、不思議な人。
2つ、大きい袋を持って帰ってきた。
「おかえりなさいませ、邪神様。」
「おかえりなさーい。」
「おお、エーデルワイスよ、目を覚ましたか。体調はどうだ。」
その視線は鋭いが、とても柔らかくて優しかった。
「はい、建炫さんには良くしていただいて、お陰様で元気です!」
「そうか。それは良かった。」
邪神さまは笑顔を見せた。私の前にあるどんぶりに目をやって、
「ラーメンを食べたのか。美味いよな、しかし、スープまで飲むのはやめておくのだぞ。我はお前に枯れてほしくない。」
すぐ、洗面所に行って何かをしまっていた。
「そうだ、今日はいろいろと買って来たのだ。」
邪神さまは、袋からいろいろなものを取り出した。
「下着を買って来た。呉 建炫からサイズは聞いていたから、まずは5対ほど買って来たぞ。」
何だかゾワッとして、建炫さんを睨みつけてみた。いや、買ってきてもらえて嬉しいんだけど。
邪神さまって多分男性だよね……?白のおしゃれな刺繍の入ったのが3種類、無地の楽に使えそうなのが2つ。
「あ、ありがとうございます……」
「いや、すぐに用意できず済まなかった。昨晩から我慢していたのだろう。着替えてくるといい。」
「その……大丈夫だったんですか?社会の見る目とか……」
「我は邪神ぞ。それしきのこと、気にするまでもない。」
コスプレみたいな恰好の中性的な人が、女性物下着のお店でまとめ買い……想像しただけでだいぶ面白い絵面だった。
着替えてきた。洗面所には見慣れないポーチがあり、使い切りのコットンショーツや低刺激のウェットティッシュ、鎮痛薬が入っていた。
くすぐったいほどの気遣いが、なんだか嬉しくて、でもやっぱり恥ずかしかった。
それからも、邪神さまは続々と袋から品物を取り出した。
歯ブラシ、ヘアブラシとヘアゴム、オーガニックのシャンプーとリンス、化粧水、乳液、化粧下地、ファンデーション、チーク、リップ、マスカラ、アイシャドウなど一通りの化粧用品が入ったポーチ……
「美しさとは花のようなものだ。風に吹かれれば朽ちるが、確かにそこにある。
エーデルワイス、お前もやがて変わる……我にとっては、明日にはもう違う顔だ。せめてその花を、少しでも長く保ってみせよ。その風に抗うのだ。」
と、邪神さまは言った。わかったような、わからないような。
私にとっては、ここまでしてくれるのが、不思議で仕方なかった。
「邪神さま。これは……?」
邪神さまは幽かな笑みを浮かべて、「……人の叡智だ。」とだけ、小さく呟いた。
その笑顔は、とても寂しそうだった。
白を基調とした、小ぶりで繊細なおしゃれなマグカップにお皿、フォークやスプーンなども一式入っていた。
「思いつく限りの物を買って来た。また必要なものがあれば言うがよい。」
邪神さまはもう一つの袋から、自然な風合いの綿でできた、パフスリーブの白いブラウスとハイウエストのスカートに、黒いアウター、白い靴下、を取り出した。
可愛い刺繍があしらわれた、どこか西洋風の素朴な雰囲気。
そして袋の底からはキャメルの革靴を取り出した。
「今日から和室はお前の部屋だ。外出しないなら、しまってくるといい。」
「邪神様、お言葉ですが、幾らほど使われたのでしょうか。」
「家族が増えたのだ、もてなしをするほかあるまい。それに、金なら私が稼いでみせよう。」
「無職であられますよね、邪神様。」
邪神さまは、バツの悪そうな顔でそっぽを向いて答えた。
「……アルバイト代、いつも頼りにしておるぞ。呉 建炫よ。」
「……今日のレシート、全て渡していただけますか。」
邪神さまは、渋々と財布からレシートを取り出す。
建炫さんの目から、一瞬のうちに光が消えていくのを見た。
私は、塩っぱいスープをすすった。
邪神は、新たな家族として張り切ってエーデルワイスを迎える。
次回、綿の権能編終幕。少女の成長を描く。
混川はインスタント麺のスープを飲むと塩分過多になってしまいそうな気がして飲めません。お店では全然完飲するんですけどね(敗北宣言)




