鏡の悪魔~アンヌの父の体験談~
私の父が子供の頃の話だそうです。
父の両親もこのウィンチェスター領に住み、マーティン家に仕えておりました。伝え聞く話では先祖はウィンチェスター領の農民である村に住んでいましたが、当時のウィンチェスター卿がある日鷹狩りに来られた際に急な雨に降られたのを助けたことがご縁で屋敷に召し上げられたのだそうです。
私も屋敷の仕事だけでなく、読み書きなどを教わりましたが、幼い父も同様でした。父の家族が屋敷の中で働いている間、ウィンチェスター卿の御令息スティーブン様──先代のウィンチェスター卿、つまりお嬢様がたのお父様です──の話し相手になったりしながら読み書きを教わっていたそうです。
御令息とは歳が近く、よく部屋で一緒に遊んでいたと言っていました。
そうです。このお部屋です。
「アレク、お願いがあるんだ」
スティーブン様が言うには夜な夜な子供部屋で変な音がする。乳母やメイド、両親に訴えても気のせいだと言われてしまう。だから一緒にその正体を突き止めて欲しいとのことでした。
本当は恐ろしかったのでしょう。スティーブン様もまだ8歳だったのです。
父は両親に頼み、夜にスティーブン様の部屋に滞在する許可を得ました。スティーブン様もお父様とお母様に許可を頂きました。
その夜は怖いだけでなく、胸が踊ったそうです。大人に邪魔されない、子供達だけで過ごす夜ですから当然です。父はスティーブン様とお話をされるうち、変な音がすることなどすっかり忘れてしまいました。スティーブン様も共に過ごす者がいて安心されたのでしょう。夜半をすぎる頃にはふたりともすっかり眠ってしまいました。
しかし、真夜中、父は突然を目を覚ましました。スティーブン様と寝台で横になっていました。父は眠りが深く、1度寝ると朝の定刻になるまで眠ることができます。尿意もなく、父は不思議に思い、辺りを見回しました。
自身が家族と住んでいる小屋よりも広い部屋です。月明かりがあるものの、部屋全体を照らしてはくれません。
ふと、微かに物音がします。初めはスティーブン様の寝返りの為に発せられる音かとも思いましたが、隣で寝ているスティーブン様は身動ぎせずに眠っておられました。穏やかな寝息が聞こえます。
夜の静寂の中でその音はだんだんとはっきりとしてきました。
ひたり、ひたり、ひたり。
何者かが裸足で歩いている音に思えました。賊かと考え、父はスティーブン様に寄り添いました。子供の力では賊に適うはずもない。起きていることがバレたら。スティーブン様もろとも殺されてしまう。賊を無闇に刺激しないよう気づかずに寝ているふりをし、いざという時にスティーブン様を守れるようにしたのです。
ひたり、ひたり、ひたり。
音は近づいてきました。足音はふたりが眠る寝台の周囲を歩きました。物を物色している気配はありません。目的はスティーブン様自身かと思い、父は身を固くさせました。
薄目を開けて暗がりに目を凝らすと、黒々とした影がありました。影が歩いていたのです。
父は悲鳴をあげぬよう必死で堪えました。
気づいていることに、気づかれてはいけない。
そう直感的に思ったそうです。
影はしばらく子供部屋の中を彷徨い、そして寝台の近くで立ち止まり、眠るふたりの子供を見下ろしたかと思うとまた足音を立てて遠ざかりました。
黒々とした影です。前も後ろもわかりません。
それは壁に掛けられた大きな姿見の前まで来ると、鏡面に手をかざしました。影は姿見に身を乗り出し、ゆっくりとその中に入っていきました。
部屋は静かでした。スティーブン様の寝息だけが聞こえます。
先程までの緊張が嘘のようで、怖い夢を見たのではないかと思いました。
翌朝、スティーブン様にそのことを話しましたが、首を傾げました。
「そんなことが起きるはずがないよ」
スティーブン様はご自身が聞いた音のことも、正体を突き止めようとしたことも忘れておられました。
父はこれ以上そのもののことを考えてはいけないと思ったそうです。きっとそれは悪魔で、そのことに気がついた者に災いをもたらすのだ。だからみんな知っていて、知らんぷりをしているのだと考えました。
「子供部屋の姿見には、近づくんじゃないよ。悪魔が住んでいるからね」
父はそう言いました。
実話怪談が好きなんだなぁ。