目覚め
一生懸命生きてきたつもりだが三十を過ぎての転職活動はなかなか困難で、あの時はやけっぱちだったかもしれない。そうでもなければ最終面接直前、履き慣れぬパンプスで駆け出して商店街で日本刀を振り回すヤバそうな男にタックルなどかまさない。
生きている中で何かと迷惑をかけた家族や友人達に、ちょっとはまともな奴だったよ言われたかったからなのかもしれない。それからほんの少し残った正義感。
警察は多分きっと誰かが呼んでいる。あれだけ胴間声で叫んでいるのだ。その時点で誰か交番に駆け込んでいただろう。だから私にできるのは、逃げ遅れた妊婦さんから男の注意を逸らすことだった。
だからってタックルはなかった。しかし身長160センチに満たないその時の私が180センチはありそうなガタイの良い男に迫力で勝てる訳がない。
それでも妊婦さんに男の日本刀の切っ先が向けられた瞬間、私は一生で1番一生懸命走ったのだった。
現代日本で日本刀で切られるだなんてな。
痛いと言うよりは熱い。
安物のスーツの背はボロボロになった。うまい人が切れば痛いとも感じずに済んだのだろうが、人心不詳に陥った者の手では大根だって切れない。まあおかげで妊婦さんまで切られることはなかったのが幸いだ。
熱い。熱い。熱い───。
全身に滲む灼熱が、その記憶を呼び覚ました。
◇◇◇◇
……ゼ。
……ロゼ。
「ロゼ……!」
冷たい空気が肺いっぱいに流れ込む。鼻腔を掠める冷たさが、ちりりと痛い。
「ああ、ロゼッタ……! 目が覚めたのね……。このまま一生目覚めないのではないかと……」
燃えるような赤い髪の女性が、ルビーのような大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼす。普段は青白い頬に、興奮からか赤みが差していた。
「リリアン……お姉様……」
そうだ。彼女は年が離れた姉のリリアン。
「はい、リリアンですわ。貴方のお姉様のリリアンです」
ぎゅうと手を強く握られる。お姉様の手は白く、冷たい。
「ああ、神様……。有難うございます。幼く無垢なロゼッタまで奪われてしまっては、貴方を呪うところでした……」
構うことができなかったのだろう。お姉様の髪は乱れている。ドレスも地味で簡素なものである。
その細い首には銀色のペンダントトップが通されたネックレスがかかっている。お姉様は一度私から手を離し、ペンダントトップにキスをした。
「ロゼ、お医者様をお呼びしてきます。まだ身を起こしては駄目ですよ。もう一週間も眠っていたのですから」
リリアンお姉様は私の頭を優しく撫でてひたいに口づけた。そうして身を起こすと、ドレスのすそを翻して部屋を後にした。
ひとり残され、見回すと、広い部屋だった。天蓋のレースは繊細で、薄く枕元に陽射しを透かしている。サイドテーブルに置かれたクリーム色の陶磁器の水差しには薔薇の絵が描かれていた。臙脂色の壁面には大きな姿見が掛けられている。華美過ぎず、しかし細部にこだわりが見られた。ひとつひとつが職人の手による作品なのだろう。
窓の外は快晴だ。晴天にうっすらと雲がたなびいている。しかし、子供部屋にしては広すぎる部屋の四隅には暗がりがあった。
薄暗い。
ずっと寝込んでいたせいか、シーツが湿っているように感じられた。
視線を落とすと、握りしめられた小さな両手。3歳位だろうか。ゆっくりと手を開くと、小さな爪が伸びていた。
私、ロゼッタ・マーティンは日本人女性だった。
前世で流行っていたネット小説やライトノベルにありがちな序盤のように、高熱を出した時に思い出してしまったのである。