鏡越しに
さくらの家の可動式本棚は、上から五段目までの本の表紙がすべて裏返されている。出版社は違っていても、表紙を裏返せばほとんどが光沢を含んだ純白になる。純白になった本は、さくらが読み終わった本である。そこに深いメッセージ性はないと思う。ただ、目印になればよかっただけだ。この本棚が大きな一冊の本だとするのならば、純白な本はそこまで読了したことがわかる栞のような役割をしている。
僕は脚立を使って一番上の棚から順番に本を読み進める。そして逆に、読み終わったものから表紙を元に戻す。
さくらのマンションを僕の寝床にしてからもう二週間が経っていた。自分の家から必要なものをすべて運び出したつもりで来たが、リュック一つと靴を二足だけ抱えた僕に、さくらは「あんたの荷物たったそれだけなの?」と驚いた声を上げた。僕自身、自分の荷物の少なさには家を出るときに驚いている。成人前男性のこれまで人生は、詰め込んでしまえばリュック一つで事足りるのである。それは寂しいことじゃない。簡略化できるということはむしろいいことであると思う。
さくらは基本的にはリビングのソファーで本を読むか、喫茶店に行くか、カウンターキッチンの椅子に腰かけてパソコンで何か調べ物をしている。彼女の移動する軌跡を色つきのマーカーでたどっても、この部屋は全く塗り潰せない。きっと太い一本線ができるだけだ。
リビングにあったはずの六〇インチのテレビは、既に撤去されていて、ますますこの部屋は殺風景になっていた。今の方が僕にははるかに心地いい。寝室はもっと殺風景である。ベッドが部屋の中央に小島のように置かれているだけで、時計もなければカーテンもない。ここには時間という概念が見当たらない。日が昇れば眩しくて目を覚まし、夜になれば寝るだけの部屋になる。それ以外のものはこの部屋においてさほど重要ではない。
僕は寝室ではなくリビングのソファーで寝ている。ごくたまに、さくらの寝るベッドに悪戯で潜り込むようなしぐさを見せるけれども、さくらが僕の体を求めることは決してない。僕が本気じゃないことを見抜いて、いつもそっけない態度をとる。彼女は一度閉じた目を開けようとはせず、一度締めたパジャマのボタンを外すこともしない。暖簾に腕押しする自分が恥ずかしくなれば、僕の行き先は愛すべきソファーだけとなり、寝転がって、天井のシミを眺める静かな置物となる。
「どうせ、本気じゃないんでしょ」と彼女は薄ら笑いを浮かべる。
確かに本気じゃない。さくらが無防備であればあるほど、僕と僕の一部は萎えてしまう。それを、さくらはわかっているんじゃないかと思う。でもさくらの匂いは好きだ。ひとたびその匂いを嗅ぐと、心細く落ち着かない不安な夜の海から、誰かの手で引っ張り上げられて、そのまま空まで緩やかに浮上する心地よさを感じることができる。
さくらの部屋にいる間、僕は無防備な状態になってしまうのだ。
ある時、僕は湯舟で寝てしまって、中のお湯がすっかり水に変わるまでそこに居た。ノーチラスから帰ってきたさくらが裸で風呂場に入ってきて、湯舟の中の僕を横目にそのままシャワーで体を流し始めた。
床や壁にお湯が飛び散る音。そして、ぴちぴちと頬に当たる細かな飛沫を感じて、僕はようやく目を覚ます。すると、そこには裸の女性がいる。当然僕は心底驚いて足を滑らせ、冷たい湯船で数秒おぼれた。
「ずいぶん気持ちよさそうに寝ているから、起こしたら悪いと思って。よくそんなところで寝て沈まなかったね」鏡越しにさくらがそう言う。
「今っ、沈んだよ!」
鼻に入った水を口から吐き出して、僕は喉が取れるほど激しくむせこんだ。
さくらが手を伸ばした拍子に取りこぼした石鹸が、くるくると回転しながら湯舟の方に滑ってくる。「あ、ごめん取って」そう言いながらさくらが振り返る。白イルカのように艶々とした肌が、ぬらりと動くのを僕は立ち上る湯気に隠れて見ないようにした。転がっている石鹸をつかみ取って、さくらに渡そうとするけれど、相手をちゃんと見れないものだから、うまく手渡せず滑り落ちる。ちぐはぐな時間が流れる。
「もう、何やってんの」
「お前が何やってんだよ!」
一度落ちた石鹸は無邪気な生き物のように床の上を縦横無尽に滑る。それを取ろうと、今度はさくらが膝をつけて四つん這いになろうとするので、僕は慌てて浴室を出た。
「勘弁してよ。……無防備にもほどがあるよ」
壁に掛けてあった小さな手拭いを乱暴に抜き取って、体と髪を強くこする。髪の毛が抜けてしまうんじゃないかってくらい強くこする。
そうして洗面台で顔を荒々しく洗う。口の中をゆすいで何度かに分けて吐き出す。そうすることで、徐々に頭の中が冷静になる。体がものすごく冷えていることに今更気が付いた。
冷静になった頭でよく考えた。あえて僕がこのまま体を拭いてリビングに戻らず、裸のまま浴室に戻るというのはどうなのだろうか。もともと僕が先に湯舟に入っていたのだから、こうして無残に大敗して、身も心も生乾きのままソファーの上で膝を抱えるのはあまりにも情けない。情けなくて自分が嫌いになるかもしれない。
脱衣所の窓から西日が差し込み、鏡に映る自分の体がやけにきれいに見える。夕日に照らされた自分の体が赤々と光っていた。
どこかで鳴いているヒグラシの声が聞こえる。浴室から香る石鹸の匂いで、僕は自分でも意図せずに身体も精神も興奮していた。そのまま浴室のドアに手をかけて、いざ再び入り込もうとした時、大きな鏡に、興奮した自分の一部始終を捉えた。さっきまできれいに見えていた体の流線型が、鏡を介してみることによって、自分ではない赤の他人の身体のような、生物的生々しさを纏った気持ち悪いものに見えた。すると、急に気持ちも体も萎えてしまう。
さっき脱いだばかりであろうさくらの服が、洗濯籠の中で息をひそめている。僕はその衣類をなんのネットも使わず、色も分けなければ素材も確かめずに、無理やり洗濯機の中に乱暴に投げ入れた。体を雑に拭いたタオルを丸めて、それも洗濯機の中に入れた。よくわからない洗剤と、柔軟剤とを振りながら洗濯槽の中に流し入れ、スタートボタンを押した。眠っていた生き物が突然目を覚ましたように唸り、衣類が中で複雑に絡み合っている様子を、僕は蓋越しにしばらく眺めていた。
リビングに戻った僕は、冷蔵庫の中の羊羹を棒状のまま貪り食った。もちろんソファーの上で膝を抱えて、情けない自分を見つめなおして食べた。惜しくも大敗を喫した後の羊羹は格別に美味い。きっとヤマカガシよりも美味い。風呂上がりのさくらに「勝手に冷蔵庫を漁らないでよ!」と怒られるのを想像して、自然と笑みがこぼれる自分のことを、実は内心気に入っているのかもしれない。結局情けない自分のことも、ここでの生活のすべても、子供をからかう大人の余裕を装うさくらのことも、一切合切嫌いになることなどできない。