目隠し越しに
目が見えなくなるというのは怖いことである。
突然、外界から反射される光の一切が遮断されて、一本の赤い線がうっすらと見える。じりじりと焦がすような紫外線の熱は感じるのに、僕の網膜がそれを認識していない。少しだけ瞼がひんやりとする。そして桃に似た石鹸の香りがする。
カンカンと甲高い音が響いている。空気が振動しているというよりも、まず僕が振動している。僕が振動しているから周りの空気もつられて振動している。
しばらくすると、圧縮された空気の塊が、僕の鼻の数メートル先を、猛スピードで右から左に流れる。レールの継ぎ目でカタンカタンと列車が足踏みをする。数歩前に出れば僕の体はきっとスーパーボールのように激しく吹き飛ぶだろう。生死の境目が今僕の眼前数メートル先にある。その境目もまた、ぴりぴりと振動している。
音がやむと、あたり一帯が空っぽになってしまったみたいに静かになった。それから少しずつ、セミや水田に潜むコオロギが一斉に鳴き始める。稲穂が風に揺れる音がする。水が流れる音がする。
「なんも反応しないんだね」
さくらは僕の目を覆っていた手をどかして、陽炎が立ち上る線路の砂利を蹴り飛ばしながら渡っていった。仕事がなくなった社会人は、日ごろの緊張感から解放されたからか、急に子供じみたことをするようになるのである。
乗っていた自転車を僕は押して小走りに歩いた。さくらの横に追いつくと、彼女は立ち止まって、おろしたてのスニーカーにカメラのレンズを向けていた。カメラから顔を上げて、小首をかしげると、次は僕の方にカメラを向けて、再び同じように小首をかしげた。
「なんだよ」
「いや、何か違うなって。被写体としてイマイチだなって」
「なんだよ。イマイチって」
いつの間にか伸びている背筋とひきつった口角に気が付いて、僕は自分の顔をもみほぐす。林の方から聞こえる油蝉の鳴き声が、僕の一部始終を見て笑っているように聞こえた。
「あっ」と言ってさくらがカメラを構える。そのレンズは、僕ではなく林の方を向いている。今、まさに一羽のトンビが飛び立ったところだった。
「どう? あの鳥は被写体としては良い感じ」
「うーん。まあハルタよりはねえ」そうは言うもののやっぱりシャッターを切らずに顔をカメラから離す。
「あっ」と言ってさくらが再びカメラを構える。そのレンズは、僕ではなく田んぼの畦道の方を向いている。
畦道には天井に大きな穴の開いた小屋が一軒建っていて、小屋の横に一本の銀杏の樹が空に伸びている。そこには青いキャップをかぶった老人が腰を低くした態勢で固まっていた。くわえ煙草で小屋の日陰を睨む老人はちりちりと短くなる煙草のことも、キャップからはみ出る髪から滴る汗も、まるで意に介さない。
「何をしてるんだろう」という僕の呟きは誰にも拾われることがないまま、畦道脇の水路に放物線を描いて落ちていった。
カメラを構えるさくらの髪が風になびいている。彼女の赤らんだ頬にも、滑らかな首筋にも一筋の汗の雫もないから、いつも涼し気な彼女が僕には不思議でたまらない。ファインダーを覗いたまま、彼女もまた老人と同じように微動だにしない。老人の姿をそのまま投影したような体制で固まっている。
「なんか体調が悪いなら声かけたほうがいいんじゃ……」
老人が動き出したのは、その時だった。固まった姿勢のままドミノみたいに前に倒れこんだ。硬直した体が地面を打つ嫌な音がした。
気づけば自転車を手放して、僕は畦道へと一直線に走っていた。
「大丈夫ですか!」気が付けば大声まで出している。
思いのほかついてこない自分の足に、畦道のエノコログサが纏わりつく。
僕が小屋に到着する直前に、むくりと老人が体を起こした。白い長そでのシャツは黒っぽい土でまんべんなく汚れている。その手には黒い木の枝のような形のものが握られていた。皺だらけの顔を僕の方に向けると、くわえていた煙草を足で踏み消してこう言った。
「悪さ、……、悪さばかりしとるにゃあ、……殺さなければならんで」
手の中に握られているのは、長さ一メートル以上もある大きなヤマカガシだった。鍵状にした中指で鰻の首でも引っかけているかの如く蛇の首を絞めている。僕は一歩退く。皺だらけの老人は僕の方に一歩近づく。僕はまた一歩退く。
「ほしいか?」
「要らないです」僕は即答する。
日本で一番強力な毒をもっているのがヤマカガシだと、小さなころに叔父に教わったことがある。
「悪さばかりしとるからなあ……」
老人が手近な石をつかむと、蛇の頭に思い切り何度も叩きつけて潰した。何度も何度も、叩いて頭を潰して、頭が擦り切れるほど石を当てる。腕に激しく巻き付いた胴体も、力尽きてだらんと垂れてしまうと、老人は再び僕にそれを見せびらかした。満面の笑みだ。宝物を自慢する少年の時代の表情がそのまま残っている。
「こうなればもう悪さもできんからなあ……。怖くないぞ? 怖いもんではない、ただの美味い肉になっただけ」
「美味い肉……」
「美味いぞ。ほしいか?」
「要らないです」僕は即答する。
ポケットからぐしゃぐしゃに潰れたわかばを取り出すと、一本取り出して、口にくわえて火も付けずにその場から立ち去ってしまった。
我に返って振り返ると、僕の自転車を脇に抱えたさくらが、跳ねながら大きく手を振っているのが見えた。青々とした晴天の奥で、入道雲が山の向こうから覗き込んでいる。空に向かって吹きあがる煙のように、体積が膨れ上がりそのまま空を割ってしまいそうだ。