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車窓ごしに

 ウィールが地面を走る音が好きである。


 カラコロコロと軽い音の中に、コンクリートの固い響きが入り混じる。テールが地面を跳ねると爽快で、トラックが鉄を擦ると色気を感じる。スケートボードに乗っている間は、そういった快感を集めて、その中に身を浸している。


 叔父が近所の商店街で購入してきたスケートボードに乗ったのは、僕が十二歳になる年だった。叔父は近所のサーファーと遊ぶから買ったと言っていたけれど、玄関に置いているうちに、気が付けばどこかへ消えてしまう。僕が叔父よりも早く起きて、さっさとスケートボードをもって海岸や公園に行ってしまうからである。けれども、きっとそうなることを、叔父は想定していたのだと思う。足の悪い叔父がスケートボードに乗るはずがないのだから。


 ここに来る途中の、個人商店から盗ってきたおはぎは格別に甘い。店外に設置されたテーブルに、綺麗に積み上げられたプラスチックのパックに入ったおはぎ。おそらく店の人が前日から手作りで準備しているもので、特に僕はあんこよりもゴマが好きである。


 夏の日差しが真上から差し込むスケートパークで、無造作に置かれたボックスの上に座って、その白く変色したボックスの塗料を手でぺりぺりと剥がしながら、僕はおはぎを続けざまに二つ頬張った。サクサクと歯切れのいいもち米を二リットルペットボトルの水で押し流す。


 来てから二時間が経ち、真水のようにさらさらとした汗が、体中の穴という穴から噴き出しはじめた頃、駐車場にカーキ色の一台の軽自動車がブレーキ強めに停まった。


「ああ、撤退の時間か」とスケートボードとリュックを抱えて裏口の格子戸をよじ登ろうとした時、「待ちなあ」と聞き覚えのある声が聞こえた。


 髪を一つに束ねた眼鏡姿のさくらだった。


「でかくて高い肉! 食べに行こうよ!」

 チノパンに青いシャツ姿で、肩には赤いカバンを下げている。まさしくキャリア街道を一直線に進むOLが如き姿で、心なしかいつもよりも背筋が伸びて見える。僕は呆けた顔で格子戸の上に跨っていた。


「ていうか、なんで逃げようとしたの?」さくらがシートベルトを脇に差しながら聞く。


「誰か来たと思って」


「誰か来るとまずいんだ」


「この公園は市営だから、市の管理人が開けに来る前に勝手に忍び込んで遊んでると、ちょっとだけまずい。ちょっとだけね」


「なるほどねえ。ハルタって結構不良なんだ」


「そう。僕はこう見えても結構不良なんだ」


 ただでさえ白いさくらの肌は、化粧を纏うことによってむしろ血色を増す。人形に生命が宿るように頬が桃色になる。さくら本人から薫る香水もほのかに桃の香りがする。瞼が薄青色にきらきらと光って、ツンと尖った唇は艶々と輝いている。目だけが少し赤い。「あんた汗臭いわよ。食事はシャワーを浴びてからね」というさくらの表情は、青晴れの日に干した無地のタオルのように清々しかった。そんな清々しい表情の左頬に、一線伸びる薄い切り傷が見えたが、その理由を僕は聞かないでおくことにした。


 右に左に振り回すように走る軽自動車は、近年の住宅地化が目覚ましい隣街の駅前マンションの地下駐車場で停まった。荒げていたエンジンの唸りが止まると、冷たいコンクリートに囲まれて、あたりがやけに静かに感じた。


「え、ここ?」てっきり店に直行すると思っていた僕は、拍子抜けと緊張の矛盾した感情に襲われる。もしかしてここがさくらの住処なのではないだろうか。いや、そうに違いない。さくらが毎日食事をして、風呂に入って、眠る住処に、これから足を踏み入れるということで、どうやら間違いなさそうだ。車から降りてエントランスへと向かうさくらは僕の方を振り向かない。


「だってシャワー浴びるって言ったでしょ?」


「あ、そっか」


「じゃあ、上がりなさいよ」


「ここってさくらの家なの?」

 さくらは不思議そうに首を傾げて「当たり前じゃん」というようにほほ笑む。「ほかにどこでシャワーが浴びられるの? まさか公園の蛇口なんてわけないでしょ」


 確かにその通りだ。汗を流すだけの場所というのも世の中には限られている。少し考えればわかることだ。


 真っ白な部屋に入った。右を見ても、左を見ても、上を見上げても、どこもかしこも真っ白だ。キッチンには食器やコップがなく、シンクには洗い物の残りもない。冷蔵庫も昨日買ってきたのかというほどきれいで、メモ用紙や旅行先で買ったマグネットが無造作に張り付けられているわけもない。家具は必要最低限の物しかなく、装飾品もない。ネイビーのカーテンだけが部屋の中で唯一の彩りと言ってもいい。


 リビングには六〇インチのテレビと、Ⅼ字型に曲がったソファーくらいで、あとは本棚が二つ壁際にあるだけだった。「空間」に「物」が置いてあるだけである。その二つが部屋の中で、水と油の様に完全に分離している。生活の痕跡はこの部屋には存在していない。


「悪いけど、私が先に軽く浴びちゃうね」


 そう言ってさくらはズボンのホックを外して、おもむろに脱ぎ始めた。下着。太もも。ベージュと白。それらが突如として現れる。当然、明らかに狼狽するのは僕の方で、気が付けば、突然現れた白い海獣のように艶めく太ももを凝視していた。


「あ、ごめん」さくらが脱いだチノパンを太ももにかぶせる。


「いや、ありがとう」困惑した僕は訳も分からずにそう返した。


 僕はしばらくソファーの上でおとなしく膝を抱えて座っていた。六〇インチの大画面でテレビを見ていたけれど、浴室から聞こえるシャワーの音がやけに生々しく感じてちっとも内容が入ってこない。

 動く画像をただただ眺めているような心地がする。四角い画面の中で、何かが起きて、何かが終わっていく。その繰り返しだ。身の置き所もない気持ちになって、ソファーから腰を上げて、冷蔵庫を漁るけれど、そこにはミネラルウォーターとミックスナッツの缶詰しかなかった。僕はミックスナッツの缶詰のふたを開けて、ソファーの元居た場所に律儀に戻り、律儀に膝を抱えて座った。テレビの音量を執拗に上げてナッツを貪り食った。自分の咀嚼音と芸人上がりのコメンテーターのダミ声で、それ以外の音が一切聞こえなくなるほどに。


 画面が突然暗転した時に、後ろにシャワー上がりのさくらが立っていることに気が付いた。


「馬鹿じゃないの。こんな大音量で垂れ流してたら、近所から苦情が来るでしょうが。ろくに聞いてもないくせに。それに勝手に人んちの冷蔵庫を漁んないでよ」

 長い髪を柔らかそうなタオルで挟むようにして拭いている。


「てゆうか、これからご飯食べに行くって言ってるのに、一人で食べないでよね」と、ぶつぶつとこぼす。


 化粧さえ落とせばいつもの人形のような淡い肌色と、薄い茶色の瞳の幼い子供のさくらに戻る。


「もう、行くなら行こうよ。シャワーなんか浴びなくてもいいだろ。飯食いに行くだけなら」


 口の中で粉々になったナッツを水道水で流し込んだ。ソファーには戻らない。そのまま部屋に背を向けて、僕は廊下に出ようとする。


「何言ってんの。あんた相当汗臭いよ。さっさと浴びてきちゃってよ。その間に店を予約しておくからさ。ステーキハウスに行こうよ。六本木にあるやつ」


 六本木なんて僕はこれまで足を踏み入れたこともない。今後も二度と足を踏み入れることもないだろうと思っていた。さくらは調子よく髪をタオルで拭いている。今にも鼻歌が聞こえてきそうだ。足取りも見るからに軽く、水面を渡る水鳥のように滑らかである。


 シャワールームで頭から冷たい水をかぶっている時、僕はなんとなく目をつぶっていた。室内に漂う生暖かい空気に、石鹸の良い香りがしたから。鏡の前に置いてある剃刀が、なんとなく生々しく見えたから。少し泡のついたシャンプーの容器が肌色に火照って見えたから。だから僕は冷たい水で頭を冷やしたのだ。


 最後に体を流す時にはお湯を使った。冷えて緊張した筋肉が、だんだんほぐれてくるのが心地よかった。緊張と緩和で体を刺激したことによって、僕は少し冷静になれた気がした。戸惑っていた時の自分を、俯瞰的に見られる程度には精神が安定している。


 シャワールームを出るときに鏡が曇っているのが見えた。そこには大きく「くそ馬鹿野郎」という文字が浮かんでいた。


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