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本越しに

「ちょっとこっち向きなさいよ。そんでそのスケートボードでなんかやってよ。雑誌の表紙みたいにかっこよく撮ってあげるからさ」


 さくらは二階の窓から身を乗り出してテラス席を覗き込んでいた。

 彼女が高らかに掲げるのは、ペンタックスのデジタル一眼レフカメラで、やけにごつい本体が、白くて華奢なさくらの手の中に大人しく収まっているのが不格好に見えた。僕はテラス席で潮風を浴びながら微睡んでいたから、苦手なジュースを差し出された子供みたいに口を結んでさくらを見上げた。椅子の脇に立てかけていたはずのスケートボードも、いつの間にかテラスの端に転がって、波に打ち上げられた漂流物になっている。


 潮風鬱陶しげに目を擦る。


「カメラなんていう趣味があったんだ」


 声を出して初めて気が付いたけれども、僕は喉がカラカラに乾いていた。喉の内側が引っ付いてうまく声が通らず、細かく何度も唾を飲み込んだ。


「別にないよ。新しく買ったの。ついさっきね。私の目が見えなくなったら、こういう何気ない、普段の景色も見られなくなるんだから、今のうちに沢山撮っておこうと思って」


「これまた、ずいぶん立派そうなものを買ったね」


 さくらは自分の首から下がるカメラをしげしげと眺めて、少し小首をかしげた。そんな仕草が、時折さくらに純粋無垢の少女の様な幼さを纏わせる。


「見た目は立派だけど、でもまあ、ほんの十万程度よ」

 さくらはたまに、僕に対してそんな意地悪な態度をとることがある。そうやって、純粋な振舞をひけらかして、隠そうにも隠し通せない大人の余裕を醸し出そうとするのである。この場合、まるで本心から言っているかのような装いで、十万というものの価値が少しでもちっぽけに聞こえるような声の調子で。だから僕はあえて核心を突くような意地悪で言い返す羽目になる。


「そもそも、目が見えなくなったら、撮った写真も見えないじゃないか」


 僕の言葉は聞こえていたはずだけれど、さくらはそれを無視してカメラを構える。口元が笑っている。身を乗り出しすぎてそのまま窓から落ちて来るのではないかと僕は不安になる。けれども、素直に写真に撮られるのも癪だから、僕は興味のない素振りをする。再びリュックを枕にして、タオルを日よけに顔にかけて長椅子に寝そべる。シャッター音が聞こえなかったから、ふてくされてさくらも店の中に引っ込んだのかもしれない。タオルの袖から窓の方を覗くと、既にそこにさくらの姿はなかった。



 僕はそこから再び三十分ほど眠ったと思う。

 僕が起きた頃には、日が傾き始めていて、潮だまりの水面にすら、ほのかな橙色が滲んでいた。潮風にあてられたシャツは肌にぴしゃりと張り付いて、運動して汗をかいた後のように体中がべたべたとしていた。口の周りを舐めれば塩辛い。


 砂浜の奥にある岩場に、小さな釣り人の影が座り込んでいるのが見えた。

 僕は涼しさと潤いを求めて店内に転がるように避難した。間怠そうに顔をタオルで拭う僕を見た細木さんが、ひんやり水に浸したタオルと、シロップ漬けしたサクランボの入ったメロンソーダを僕に奢ってくれた。ノーチラスの店内は外の暑さとは打って変わって、その名の通り深海中の潜水艦の様に涼しかった。


「ハルタ。お前、ちょっと日に焼けすぎじゃないか」

 細木さんが僕にそう言った。


「そうっすかね。自分だとあんまり……」


 彼女は二階のいつもの席で、同じくメロンソーダをストローで吸いながら文庫本を読んでいた。カメラは机の上に無造作に置いてある。眉間にしわを寄せて、不機嫌そうにも見える表情は、手中の物語の深みにはまっているせいだろうか、それとも目が悪くなっていて集中できなくなりつつあることへの苛立ちだろうか。


 僕は本棚から星屑ニーナを手に取って、彼女の横に腰を下ろした。こうやって、自然に彼女の横に座れる日が来るなんて、初めて会った日には想像もできなかった。


 彼女の指は僕と違って細くて滑らかである。文庫本のページの一枚一枚をめくるためだけに創造されたような精密さを持っている。こう見えて、彼女は本社異動になるほんの数か月前まで、橋梁製作会社の現場代理人として、九州の現場事務所で働いていたらしい。本職は設計担当だったらしいけれど、現場事務所に席を設けられて、気の荒い鳶職人と一緒に汗をかきながら現場で足場を組む指示をしていたという。時には自らジャッキを動かしたり、クレーンの作業者に無線で荷上げをさせたりなど、今の彼女の姿からは到底想像できない。

 その白くてきめ細かなさくらの肌が、土埃に染まる姿を想像すると、僕は妙な色気を感じてしまう。僕の知らないところで、彼女の肌が日にさらされ、風にさらされ、土埃を浴びる。下品に口元を歪めた職人たちの目には反射して、彼らの無秩序な興奮を誘う。嫉妬心のような感情が、ひそかに萌していたことを彼女に悟られまいと、僕はメロンソーダを無心で啜った。


「その本、そんなにオモチロイ?」

 さくらはテーブルの上に積み上げられた星屑ニーナの漫画を指さして僕に聞いた。他人から本を薦められるのが苦手だと言っていたさくらが珍しく興味を示している。


「だってハルタ、いつもその本読んでいるし。ていうかそれしか読んでないし」


「あー、気になっちゃったんだ」少しうれしくなって、僕はメロンソーダをテーブルに戻した。さくらの興味が少しでも自分に向けられていると思うと、危うく気づいてしまいそうになっていた内なる嫉妬心から目を背けることができる。


「他人とかに興味なさそうだけど、気になっちゃうかあ」


「君に興味があるわけじゃないの。その漫画にね、少し興味がわいただけだよ。ほんの少し」


「そうかあ」

気づけば僕の口元が下品に曲がっている。


 たしかに僕がこの店に来ると、必ずその漫画本を手に取って読み返している。四巻まで通しで読み終えたら、また一巻から読み直す。それで僕はついに三周目を迎えている。それに対してさくらは次々に本を読み替える。読むことを楽しむよりも、読み終えることが目的で、それが義務であるかの如く淡々と読んでいく。


「これはね、面白いよ」


「何が、どう面白いの?」


「何が……、って言われるとわからないけどさあ。面白いことに理由とか、根拠ってないでしょ」


「そうかなあ」と首をかしげる納得のいかない彼女に「そうだよ」と半ばムキになって答える。そう答えている自分に、内心首をかしげている。心に残る台詞とか、そういうシーンはいくつか頭に思い浮かぶけれど、それを口に出すことでとても陳腐になってしまうことが容易に想像できた。実際の漫画のワンシーンを読む。それを僕なりに理解する。そして僕なりの言葉で説明するといった過程の中で、もともと濃縮されていたはずの内容物が、どんどんどんどん希釈されて、他人の頭で理解される頃には出汁の出尽くした味気ないものになってしまう陳腐さである。


「まあ、そんなに興味はないからいいけどさ。ちょっと気になっただけ」


 さくらは読んでいた文庫本を閉じて、表紙を外して裏返す。そしてそれをカバンに戻す。表紙を裏返された本は、タイトルも作者も無くなって、ただの無味無臭の白い冊子になる。なんのためにそうしているのかは不明だ。不明だけれど、白くて何にも染まらない鉄壁さはさくらの性格が表れているようにも見える。


 まあ、そんなに興味があるわけではないけれど、少し気になる。


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