表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

夕日越しに

 少年は真っ赤に腫れた腕を海水に付けて冷やす。夕日の赤に染まる岩場の水たまり。そこを住処としているヤドカリが集まって、指先をチクチクと突っつく様子を水面越しに興味津々に眺めていた。


 その横で叔父は釣り糸を垂らす。糸の先はねじれる波の中に吸い込まれている。竹トンボがカラフルな帽子の上でくるくると回る。帽子からはみ出る艶々の長髪を一つに束ねて、水平線の奥に浮かぶ漁船を眺めて棒付きキャンディーを舌で転がす。叔父曰く、岩場に捨てた煙草の吸殻は、後々災いを引き連れて町を襲うこととなるから、釣り人は皆即刻禁煙をして、今日からは棒付きキャンディーを咥えるべきなのだという。


「だからハルタもキャンディーを舐めなさい」叔父は少年の頃の僕にもキャンディーをくれる。僕はお礼を言ってそれをカラコロ舐める。


「お礼なんていらないよ。どうせその辺の店から盗ってきたものだから」


「それって、大丈夫なの?」


「大丈夫、大丈夫。釣りと一緒。母なる海から魚をいただくのと、コンビニからキャンディーをもらうのは同じこと」


「そうか同じことか」少年の僕は納得する。


 日が沈んで東に薄い紺色の夜が訪れると、叔父はさっさと帰宅の準備をする。釣った魚は全部海に雑多に放り投げる。放り出された魚のうちの何匹かは腹を上に向けて水面で揺れている。叔父は釣り竿を担いで、右足を引きずりながら岩場を離れる。手ぶらでふらっと釣り糸を垂らして、手ぶらでそのまま帰路に着く。いったい何を釣りたくてこんなことをしているのかと聞けば、叔父はそっけなく「夕日」と答える。


「夕日を釣りたいんだね」


「そう。だけど、なんでか魚しか釣れねえんだよなあ」首をひねってキャンディーを噛み砕く叔父の頭では、やっぱり竹トンボが回っている。


 叔父は少しだけほかの大人とは違っていた。



 昔は足場工事の職人として働いていたこともあった。日に焼けた肌と、筋骨隆々とした広い背中。油や土埃がしみこんで真っ黒になった爪や、豆だらけの手に職人的男らしさを纏い、物静かだけれど面倒見の良い人柄の良さに惹かれていたのは、僕だけではなく同僚や後輩の職人も同じだった。それが、現場での鉄板落下の事故によって、腰椎と膝に怪我を負ってしまうと、後ろ髪惹かれている様子も全く無く、あっさりと仕事を辞めてしまった。


 それから叔父は髪の毛を伸ばし始めた。手をきれいにして、マニキュアを塗った。爪にこびりついていた汚れとともに、盛り上がった筋肉や職人的男らしさも見事なまでに脱ぎ捨ててしまった。慕っていたはずの職人仲間とはぱったりと連絡を取り合わなくなった。


 叔父は少しだけほかの大人とは違っていた。


 それでも僕にとっては憧れの存在だった。彼がいなければ、僕は家の中でも外でも孤独のままだったに違いない。

 母はよく父の靴ベラで、僕の頬をぶった。口の中が切れて血の味がしても僕は泣かなかった。多分、それらの行為が原因では一度も泣いたことが無いと思う。父は僕にも母にも無関心だった。靴ベラでぶたれている僕を見ないふりしていた。母が癇癪を起した時は、父は車で遠くまで出かけて、何日も、何か月も家に帰らなかった。僕は静かに母の癇癪が収まるのをじっと待っていた。待てば収まる。待たねば永遠に収まらないのである。


 何かで殴られると、最初は肌のすぐ直下に痛みの塊みたいなのが出来る。それは、殴られれば殴られるほど痛みが蓄積されて膨らみ、やがてパチンとはじける。鈍い感覚が溶岩のようにじわっと皮膚の下に広がり、そこからはほとんど痛みを感じなくなる。それが、ずっと続くと意識が朦朧とし始める。そうなってしまうとあまりよろしくない。一週間は頭痛と吐き気が収まらなくなる。


 母も父も家を出て行って、しばらく箱みたいな狭い家で、僕は一人きりになることがしばしばあった。シンクの中で魚介の何かが腐っている匂いがする。テーブルの上で放置されたホヤから黄色い液体が垂れて床に溜まっている。その匂いを嗅ぐと僕の思考も腐る。呼吸も浅くなってくる。何日もそんな日が続いて、僕もホヤと同様にどろどろに溶けてしまう寸前までなる。


 そうなる一歩手前。必ず叔父はいつの間にかやってきて助けてくれる。何かを怒鳴りながら、家に飛び込んできて、僕を抱きかかえてそのまま家を飛び出す。大概は細木さんのアパートに居候させてもらうことになる。叔父は僕の母の弟である。でも母にはあまり似ていない気がする。僕を抱く叔父の顔を斜め下から見上げると、脱ぎ捨てきれなかった職人的または父親的男らしさの剃り残しがやけに目立って見えるのである。


「なんで、竹トンボの帽子をかぶっているの」

 一度だけ聞いたことがある。


「空を飛びたいからだよ」

 叔父はそう答えたけど、本当は違う理由がある気がする。


 叔父は、気味が悪いほど物静かな少年の腕を引っ張って、暇があれば海やスケートパーク、中華料理屋に一日かけて連れまわし、海岸沿いの潮だまりで、口からぶくぶくと泡を吐き出す二枚貝を指さして「ハルタは静かな子だけど、もっと口に出さないと。考えてる事がわからん。貝だってこんなに喋るぞ」と笑いながら長髪を櫛でといた。


 叔父が教える遊びの中には、パチンコや盗みなど、決して善い行いの嗜みばかりではなかったけれど、叔父と一緒にいると不思議な感覚になる。僕のへそのすぐ下に、これまでに足りなかった何かが徐々に満たされていくような心地良さを感じる。


 夜の海のように真っ暗な不幸の中に沈んでいく僕を釣り上げてくれるのが叔父ならば、どこか遠くの景色を見せるため、僕を抱きかかえて空を飛んでくれるのもまた叔父なのだろう。


 僕はいろんなことを学んだ。人目につかないスケートスポットとか、人に嫌悪感を与えないものの話し方、店から物を盗むときのカメラの死角なんかは今でも僕の中に深く根付いている。そして何より、あまり憧れの存在なんてものに深く頼ってはいけないという教訓も学んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ