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ガラス越しに

 平日の朝はスケートパークに行く。

まだ開いていないパークのフェンスをよじ登り、一、二時間程度滑った後、駐車場に車が一台でも入ってくれば、すぐに河岸を変える。そうやって街中を転々とする。早朝のスケートパークは朝露の匂いと、コンクリートの冷気に包まれている。まだ眠っているのだ。ウィールが転がる音によって、僕の体温が上がるのと同じスピードで眠りから覚める。


 他人の気配には敏感でなければならない。すぐにでもその場を離れられるようなフットワークの軽さと俊敏性が必要だ。こんな僕を「人見知り」とか「コミュ障」などと軽々しく一括りにしてしまうようではまだ浅い。事実は残念ながら、そんな単純なものではないのだから。


僕の地元は海が近くて、サーファーもいて、スケートボードには比較的寛容な雰囲気である。海岸沿いの路面は嫌な凹凸があるため、スケートで走る分にはあまり気分はよくないけれど、それでも少し開けた道路に出ると、タイル地の舗装なんかはカタカタと気持ちのいい音を響かせながら潮風を頬に受けることができる。


 僕が小さい頃は、叔父が車で駅に向かう通りの中華料理屋によく連れて行ってくれた。立地が悪かったのか、味は美味しかった記憶があるけれどもほどなくして潰れてしまった。その土地には新しい店舗がひっきりなしに入れ替わり、スープカレーの店や蕎麦屋なんかが入ったかと思えば、今ではコンビニに変わっている。



 僕はそのコンビニで、ペットボトルの水を買うことにしている。水を買うついでにキャラメル入りのチョコバーをポケットにくすねることも忘れない。それをかじりながら海岸沿いをスケートボードで走る。海の近くにある高架橋はどれもこれも錆びている。塗装が剥げて、赤い地肌が露になっている。潮風が容赦なく吹き付ける沿岸地域に鉄は明らかに不向きである。だから余計に、僕の街は寂しく感じるのだと思う。


 やがて赤いレンガ造りの建物が見える。

 遠目から感じ取られる雰囲気は、海岸沿いの丘に建つ灯台のような寂しさで、緑の蔦が外壁にまとわりついていて、誰かが長年放置した空き家に見えなくもない。けれども、近づくにつれてレンガの色味が増し、よく見ればガラス窓も綺麗に手入れされていて、二階のステンドグラスがプリズムになってきらきらと光っている。風見鶏が尖った屋根の上でのんびりと回っている。正面にブラックボードが立っていて黄色のチョークで「喫茶店ノーチラス」と書かれている。


 黒くて大きな樫材の扉を開ける。

 中に入ると、外から見るよりも存外広く感じる。二階まで吹き抜けになっていて開放的だ。黒いイスとテーブルが並んで、白い漆喰の壁には高い本棚が並んでいる。右手にはカウンターがあって、キッチンと食器棚がその奥にある。基本、店長の細木さん一人しかいない。一人で掃除するには広すぎるから、僕はたまに掃除を手伝う。掃除を手伝うと、その日の食事と寝床を与えてもらえる。細木さんの機嫌がいいと酒も出て来る。酒はそこまで好きじゃないけれども、彼の機嫌がいいのは良いことだと思う。


「いらっしゃい」と細木さんがカウンターの奥で雑誌をめくりながら声をかける。

 雑誌からは顔を上げずに右手を僕に向かって突き出す。僕はポケットから百円玉を取り出して、その手のひらに乗せる。細木さんは百円をちらりと確認すると、カウンターの上のマグカップとドリップボトルを指さす。


「ここってセルフサービスなんでしたっけ?」

 冗談交じりに笑いながら問いかけた僕の言葉は、空を切ってシンクの三角コーナーに落ちた。細木さんは相変わらず雑誌から顔を上げない。


 細木さんの読む雑誌は決まっている。「週刊とれんでぃ」か「月刊だんでぃ」だ。数ページめくっては時折大きく頷いたりしている。几帳面に付箋が貼られているページもある。その様子を見て僕も頷く。この先きっと細木さんはもっと不愛想になって、もっとダンディなジェントルマンになるだろう。楽しみである。


 喫茶店ノーチラスはコーヒーが一杯百十円で飲むことができて、しかもお代わりは無料である。もう二百円追加すればラスクとシナモンクッキーが付いてくる。コーヒーは酸っぱくてまずいけれど、量が飲めるし、細木さんは声をかけなければカウンターの奥でずっとラジオを聴きながら雑誌を読んでいるから、何時間居座っていても、これまで一度も咎められたことがない。


 けれどもこれらは、僕の特別価格になっている。僕の叔父さんと細木さんは同級生で、僕は小さい頃から頻繁に店に顔を出していた。だから僕の生活スタイルがどういう状況なのか、細木さんは僕の両親よりも詳しい。

 通常価格四百円の酸っぱくてまずい珈琲が、破格の百円飲み放題なのは僕に対する慈悲なのかもしれない。ありがたく思うと、酸っぱい珈琲もかすかに甘くマイルドに感じる。


「それでもやっぱり酸っぱいですよね」と言うと「感謝が足りん」と細木さんに頭を叩かれる。甘みというのは感謝を集めた固形物であるらしい。


 僕はいつも二階の窓際のソファーに座って微睡んだり、備え付けの本棚から、漫画か時には文庫本を手に取って読んだりしている。その座り心地のよさがすっかりと体に染みついてしまっている。ソファーも僕のことを迎える準備はいつでもできていると思う。ソファーに体を横たえて、体をうずめれば、僕はもうその場所から離れることができなくなる。少し大げさな表現なるかもしれないけれども、例えばいつか海がこの街を飲み込んでしまう日が来ても、僕はこのソファーにしがみついて離れないのだろうと思う。どこまでもどこまでも、ともに漂流してしまいたい存在だ。


 けれどもその日、僕の定位置はそこには既に僕の物ではなくなっていた。


 いつものソファーは海側で、天井には海面に反射した日の光が映っていた。そのせいなのか、その場所はいつにも増して明るく色鮮やかに見えた。紺色のソファーに染みこんだコーヒーの香りと、ほんのりと桃のような甘酸っぱい香りがあたりを燻らしている。


「どうかした?」

 長い黒髪を耳にかけながら、その女性は読んでいた本から視線を外して、僕の方を見た。呆然と立つ僕のことを訝し気に見る瞳は薄い茶色をしている。人形のように透明感のある女性だった。


「いや、別に何でもないけれど。その席、いつも僕が座っているものだから」


「ああ、そう」


 その女性は座っているソファーを軽く見まわしたけれど、動き出す気配はなかった。机には十冊くらいの文庫本が縦積みされていて、どう見積もっても閉店までは確実にソファーを独占するだろう。


「でも、別にいいでしょ。私がどこに座っていても。私たち以外お客さんはいないのだから、あなたもその辺に座ればいいじゃない」


 その言い草に、僕は顔をしかめながら彼女の隣の席に座った。

真正面から真っ当なことを諭されると、正しいとわかっていることでもなぜか腑に落ちない。子供のような曖昧な頑固さと、薄っぺらい自尊心がどんどん自分を未熟にしている。後々、あの時の自分って、結局何がしたかったんだろうと自問自答し、赤べこの様に間抜けな顔で赤面する羽目になるのならば、いっそのこと自尊心を丸めて即刻海に投げ捨てるべきなのはわかっている。理解はしているけれど癪に障る。


 彼女のため息が聞こえる。呆れに似た感情を凝縮したコーヒーの香りのするため息だ。店内には絶妙な音量でジャズが流れている。その奥には波の音がかすかに混じっている。


 僕が漫画を読んでいる間。彼女もまた本を読んでいた。

彼女は本に目を落としたまま、何度かコーヒーカップに手を伸ばしてはカップを倒しそうになった。珈琲を平然と飲んでいるけれど、飲むたびにミルクや砂糖を足しているところを見ると、内心口をすぼめたくて仕方がないと見える。整った見た目にそぐわずガサツな一面があるのか、カップの周りは溢したミルクで濡れていた。


「ねえ。君」

 彼女は読んでいた文庫本を閉じて、唐突に僕に話しかけた。


「そのスケートボードを足でいじるの辞めてもらえないかな。ガチャガチャと響くんだよね」

 知らず知らずのうちに、僕は足の下でスケートボードを左右に移動させたり、横に倒したりしていじっていたらしく、そのたびにウィールが床を走る音やデッキが床を叩く音がして、彼女の読書を妨げていたらしい。人形の顔に、あからさまに不快な表情が浮かぶ。「不快です」というシールを顔にぺたりと張り付けたような表情である。


「あんたこそ、さっきからミルクをこぼしたり、カップを倒しそうになったり、見ていてイライラする」

 僕も反論する。きわめて冷静な装いで、想像上のシールを僕の顔に張り付ける。「イライラしています」というシールを貼り付ける。


「見なければいいじゃない。わざわざこっちを気にしている方がおかしいよ」


「見えちゃうよ。隣の席なんだから。視界の隅に入っちゃうんだよ。不可抗力だよ」


「私は目が悪いの。だから手元が狂うのはしょうがないことでしょ。君は少し周りに気を配れば解決する問題なんだから。そのスケートボードから足を下ろせば済む話だよ。それができない?」


「スケートボードってのは音が出るもんなんだよ。しょうがないんだ」


「スケートボードに文句を言っているわけじゃないよ。君の足癖に文句を言っているの。わかる?」

 彼女は滔々と話す。彼女の口から出た言葉は、明らかな単語の塊となって説得力を伴って僕の耳に入る。ひとつひとつの言葉の意味がしっかりと脳まで届く。きっと彼女は説教をすることに慣れているのだと思う。


 しばらく考えた挙句、何も言い返せない僕は早々に諦めた。


「……やめてよ。どう考えたって分が悪い」


「なんで」


「どう考えたって僕が悪いもん」

 ようやく僕は本を閉じる。改めて彼女の顔を見る。


「……でも、苦手なんだよ。僕。そういう風に正論で詰められるの。納得できればできるほど、僕は言われた通りに行動したくなくなる天邪鬼なんだよ」


 彼女は観察するかのようにじろじろと僕の顔を眺める。決して口喧嘩で、理路整然と相手を打ち負かしたいわけではないらしい。僕の顔を見る目が笑っている。見たことのない動物を見た少女のように笑っている。


「それと、目が悪いのに知らなくて、馬鹿にしたようなことを言ってごめん」僕は彼女のまっすぐな視線に戸惑いながら言う。薄い茶色の瞳はガラスのように透けて見える。


「悪いと思っているならばいいの」そう彼女は言った。「素直なことはいいことだね」とも付け加えた。


 彼女はコーヒーを口に含んで、またミルクを足す。銀のカップには、もうほとんどミルクが残っていない。酸味の強い珈琲を何とかマイルドにしようとすれば、珈琲にミルクを足したのか、ミルクにコーヒーを足したのかわからないようなものが出来上がる。


「顔に『本当は悪いと思っています』って札が付いているみたいだよ」


「違うよ。『イライラしています』ってシールを貼ってるんだ」


「ちゃんと貼れていないよ。そのシール」


 彼女は笑った。笑うと海のようにきらきらと表情が輝く。正直、魅力的な人だと思う。


「なんか、馬鹿にしてる?」


「馬鹿にしてないよ。なんか、可愛いなと思ってさ」

 黒い髪を耳にかける。彼女の指はとても細い。触ってないけれど多分指先は冷たいのだろう。可愛いと言われるのが嫌にこそばゆい。少しうれしくなっている自分が恥ずかしい。そんな隠しているつもりの深層心理すら、彼女の薄い茶色の瞳に見透かされていそうで余計に恥ずかしい。


「目が悪いっていうのも気にしないでね。そういう病気になって結構経つの。でも全く気にしていないから」


「病気なんだ」


「網膜色素変性って知っている?」


「知らない」


「そうよね。私もよくは知らないの。多分、君の天邪鬼と同じくらい難しい病気なんだと思うんだけどね」


「……やっぱり、馬鹿にしているよね?」


「してないって」

 手を振ってごまかす彼女につられて、無表情を決めていた僕も笑ってしまいそうで、僕はカップと荷物をもって下の階のカウンターに逃げた。


 待ち構えていたように、細木さんが新しい珈琲を準備していた。砂糖とミルクは準備されていない。細木さんが何か会話を切り出すのを待ってみたけれど、彼が口を開くことはなかった。妙な沈黙が喫茶店内を包む。僕は首の後ろを掻いたり、汗ばんだシャツの襟を気づかれないように嗅いだりする。


 細木さんが言うには、その女性の名前はさくらというらしい。

 新しく注がれたコーヒーを口に含んだら、いつもよりもほのかにマイルドになっている気がした。


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