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グラスごしに


 店の中は琥珀色の液体で満たされているみたいだった。

 天井からつるされた照明は、無数の蝋燭の形をしていて、各々が放つ弱弱しい光が層になって本物の炎と同じ揺らめきを持っていた。


 僕は篠田という男に促されて、カウンターの一番奥の席に座った。カウンターの奥にはウィスキーのボトルが並んでいる。その奥のガラス越しで、白い服を着た料理人が鉄板の上で大きなエビを焼いている。


「腹は減っているか?」と篠田という男は僕に聞いた。


 僕は黙ってうなずいた。何度唾を飲み込んでも少し鉄の味がする。口の脇にできた痣をのぞき込んで、篠田は痛々しそうに顔をしかめた。


「おい、大分執念深くやられたんだな」


 タオルで口の脇を拭うと薄いピンク色の跡が付いた。うんざりした気持ちになって、僕はタオルを乱暴にカウンターの上に放り投げた。背負っていたリュックを椅子の脇に下ろして、深く椅子にもたれかかった。


 誰かもわからない男に殴られて、蹴られて、追いかけまわされて、明かりのついていないラブホテルの駐車場に身を隠して足音と怒鳴り声が聞こえなくなるまで身を隠していた。

 駐車場で膝を抱えている間は動悸がとまらなかった。頭も痛かった。痛みの塊が皮膚の下でズクズクと痙攣しているのを手のひらで優しく撫でた。何十分その場に蹲っていたかはわからない。けれども、少しでも冷静になろうと僕は努めていた。リュックの中身を出して、雨水溜まる駐車場の隅に放り投げたりしていた。


 そこに篠田という男は通りかかった。

「死体じゃないよな」篠田は僕に近寄って肩を手でたたいた。

「ちょっと待ってろ」と言い残し、少ししてから白いタオルを近くのコンビニで買ってきた。


 普通、声をかけるだろうか。歓楽街の隅っこでぼろ雑巾と化している男に。ましてや介抱などしてやる人間がいるのだろうか。僕は生まれてからその時ほど、ただのタオルを頬に当てて心地よいと感じたことはない。


「ここにいても暗いし、汚いし、俺は腹も減っているし。よし、ついてきな」


 大股歩きで闊歩する篠田の後を、用心深い鼠のように背中を丸めて歩きたどり着いたのがこの琥珀色のレストランだった。入ったと途端、逆立った神経を優しく撫でつけるような柔らかいアルコールの香りと、誰かが燻らした葉巻の香りが全身を包む。


 店中のどこを見回しても奇麗な背広に身を包んだ男女か、あるいはやたらきらびやかなブランドに身を包んだ若い女性しかいない。間違ってもぼろ雑巾が来るような場所ではないことは明らかだった。


「ここは深夜までやっているわりに飯がうまいし、酒もたくさんある。飲め。飲んで食え。俺も腹ペコだから食おう」


 いつの間にかオーダーしていたスコッチのダブルを飲んでいる篠田が、半ば乱暴にメニュー表を僕に押し当ててくる。

 それから、食べ物が乗った皿は次から次へと運ばれてきた。無言で僕はそれらを平らげ続けて、篠田は小動物を眺めるのと同じ目つきをして横に座っている。アンチョビの効きすぎたパスタを食べ終えたところで、僕はようやく水を飲む。ひどく喉が渇いていた。喉と口の粘膜は、どろどろとした油まみれの固形物が絡みついて、長い間潤いを求めていた。ようやく流れ込んだ透き通った雫は、腹に落ちる前にすべて体の中に吸収されていった。


「今更、こんなこと聞くのもなんですけど」


 僕は恐る恐る篠田の方を向いた。とろけるような目つきで篠田は煙草を吸っていた。


「いや、やっぱ何でもないです」


 我に返ると実に奇妙な状況下にあることに気が付く。見ず知らずの中年の男に、見るからに敷居の高い店に連れてこられ、いつの間にか飯を暴食している。腹に食い物が蓄積されればされるほど、この状況に対する疑問もわいてくる。

 煙草を持つ手で金色のロレックスが光っている。細身ではあるけれどどことなく筋肉質なのがジャケットの上からでも見てわかる。「なんか、お前の声を今初めて聞いた気がするなあ」という煙草で掠れた声が渋い。


 この男色家なのかもしれない。僕はそう思った。そういった輩が近寄ってきた経験が僕には何度かある。そうであれば、僕は申し訳なく思う。一色の恩があるとはいえ、僕の純潔をささげるにはあまりにも拙速に過ぎるし、僕はまだまだ幼いと思うからだ。そういった経験は身も心も、太陽ほどに真っ赤に熟した果実の様な大人が、自らの意思で嗜むべき行為だと僕は考える。

「お前、何か変なこと考えてるだろ。顔に出てんだよ。安心しろよ。お前のことを丸々太らせてから食べようなんてことは考えていないから」

 

思考の奥まで見透かされた僕は恥ずかしくて頭を掻いた。


「僕もお酒を飲んでもいいですか」


 弱弱しい笑顔を貼り付けてそう聞くことしかできなかった。

 琥珀色の液体の中に赤いチェリーが沈んでいる。海に落ちる夕日の様に液体の中で揺れている。種類もよくわからずに注文した酒は、小さな円錐型のグラスに入れられている。


 カウンターには一枚のガラスのように薄いチョコレートのかけらと、食べかけのピスタチオが置かれている。王冠のロゴが付いた四角い白い小皿の上だ。どこかで見覚えのあるロゴだ。けれども、それをどこで見たのか、思い出せそうでどうにも思い出せない。


「切ない恋心」


「なんですかそれ」


「マンハッタンのカクテル言葉だよ。そういうの調べてみると結構面白いんだ。キャバ嬢なんかに披露すると、わざとらしくちやほやされて気分がよくなる。おっさんになるとさ余計なことでも知識を蓄えようとすんのよ。衰えたくないから、若い奴らに負けたくないから」


 少し悲しそうな顔をしている篠田の背中が少し丸まっている。意外と愛嬌のあるしぐさをする男だ。僕の飲んでいるカクテルの名前はマンハッタンというらしかった。改めて眺めると、確かにこの円錐形のグラスの中にマンハッタンを感じるような気もするし、そうでもない気もする。


「自分の知っている知識をひけらかすのは、ダンディーを志す紳士にとってご法度らしいですよ」


「そうなのか」


「信頼できる地元の友達が言ってました」

 そうかそうか気を付けよう、と篠田は何度も頷く。


「お前の地元は海が近い?」

 僕は少し悩んで、かぶりを振って答えた。


「じゃあ、山が近い?」

 僕は再び少し悩んで、またかぶりを振った。


「……まあ、あんま自分のことをしゃべりたくないか。見ず知らずのおっさんだしな。他人に明かしたくないことには嘘を交えたほうがいい」


 僕は細かく何度も頷く。


「ただ、俺がお前のことを助けてやったおっさんだってことは忘れんなよ。おい」

 篠田は自分の手の甲を摩る。彼の癖らしい。そしてそのまま話を続ける。


「……じゃあ、本当かどうかは置いといて、お前の実家は海の近くでも山の近くでもないわけだ。そういうことにしておこう」


 カウンターでバーテンダーが凍った果物を砕いている。白い桃の肌が照明に当てられててきらきらと光っている。


「俺の実家は宮城の石巻っていう港町なんだよ。駅から一歩でれば、ガツンと強い磯の香りがする町でさ。毎日毎日魚ばっかで、ほんっとにうんざりだったよ。ホヤって食ったことある? あれがどうも苦手でさ。意地悪な伯母がわざわざ食卓に並べるんだよ、あのパンチパーマのクソババア」


 ホヤという言葉を聞いた瞬間、海水の腐った嫌なにおいが鼻腔を通り抜けた気がした。吐き気のする匂いだ。夏の畳の上で寝転がっている時に風に乗ってくる匂いだ。穴だらけの網戸から虫が出たり入ったりしている。これは僕の記憶の一部であり、記憶のほとんどのような気がする。


「昼間見る海ってのは光っているし、釣りしているおっさんとか、沖の方には貨物船なんかがあって、割とにぎやかに見えるだろ。でもよ、夜の海ってのは、昼とはまた違って怖いんだよ。大きくうねっているし、波の音もやたらでかい。今にも水平線の向こうからギラギラに光った歯をむき出しにした怪物が、波と一緒に押し寄せて来て、俺たちを海の中に引きずり込んでしまう。そんな凄みがあるんだよ」


 篠田はがぽっと音を立ててスコッチを飲み干した。そして、バーテンダーに向けて「答えは1です」という感じで人差し指を立てる。バーテンダーは恭しく頷いて同じものをもう一杯作って差し出す。


「お前んとこの親父は厳しかった?」


 唐突に篠田が僕に尋ねた。僕は間髪入れずに「いや、別に。普通ですね」と答える。


「そうかあ。普通か。普通が一番いいよな。俺んとこは変わってる親父だったんだよ。暴力的で自分勝手で、俺と母はいつも殴られてた。親父の姉も嫌な奴でさ。今考えるとあれは苛めだったな。母はよく耐えてたよ」


 こんな傷はしょっちゅうだったな。と言いながら篠田は僕の口の端にある切り傷を指さした。一瞬傷口を触られるんじゃないかと勘違いした僕は、びくっと小さくのけ反った。その反応を見て篠田は笑った。


「海の近くだからさ、野良猫とか沢山いてな。尻尾なんか喧嘩で食いちぎられて目ヤニだらけのヤツ。そんなでも俺ってほっとけなくてな。餌なんかあげたりして、家の近くまで付いて来ちゃって。それがばれると親父に殴られるんだ。親父は猫が嫌いだからさ」


 僕は目の前に並んだ空いた皿を見回して納得した。どうやらボロボロの生き物に餌を与えるのは、昔からの篠田の性分であるらしい。さしずめ、ラブホテルの駐車場で転がっていたのが僕であったか猫であったかの違いで、今この椅子に座っているのが猫であった可能性もあるわけだ。


「バイオレンスな父親だったんですね」


「そうなんだよ。でも外面だけは良いんだ。あんなでも県議会議員もやっていたし、町のおばさま方の中にはファンクラブっぽいものまであったんだよ。顔立ちも悪くなかったしな」


 篠田のスタイルと顔立ちの良さが遺伝だとすれば、ファンクラブという話も真実味を帯びている。


「親父の帰りが遅いある日。母がお茶の間で裁縫をして、俺は玄関で親父の靴を磨いていた。まあ、日課だな。その時、納屋の方から空気を裂くような金切り声が聞こえたんだ。嫌な予感がしたんだよ。納屋にはその日、俺が野良猫を隠していたからさ。……まあ、嫌な予感というかほぼ確信していた通りだったよ。納屋には明かりがついていて、そこに親父が立っているのを見た。一瞬だったから、あまりよくは見えなかったけれど、野良猫を、親父が鉈で殺していたんだ。親父の手にはそんな形のものがぶら下がっていたし、納屋の床は黒い液体が滴っていたから」


 篠田はロレックスを外して、何かを思い出すようにしげしげと見つめながら話した。その声はできるだけ淡々と、物事をただの事象に過ぎないと強調するかのような話し方だった。そのおかげで僕も冷静に聞くことができた。冷静に、物事をただの他人事として受け止めていた。


「それは、……また嫌な思い出ですね」


「でも猫も猫で、親父に最後の悪あがきをしていた。親父はその日から左手の薬指がない生活を強いられていたからな。まあ、噛みちぎってやったんだろうなあ。最後の力で」


 そういって篠田はグラスを回して氷の解けたウィスキーを一口で飲む。口の中で味わって、恍惚とした表情と満足感を含んだため息を漏らす。その所作は、大人の酒の嗜み方の見本だった。僕が思わず見とれるほどに。


 店の中は琥珀色の液体に満たされて、その琥珀色の液体が店の中にいる全員の鼻から、口から、毛穴から、体の隅々を這うように巡って、ついには互いの吸って吐いた呼気すら共有しているかのような感覚に陥った。酩酊は伝染し、三々五々肩やら腕を組んで帰り支度をちらほらと始めた頃に、壁掛けの大きな時計が低い音で二回コーンコーンと鳴った。


「そろそろお開きにしよう」の一言さえあれば、僕はいつでも店を出ることができた。でも篠田からその言葉が出ることはなかった。篠田は今にも眠ってしまいそうに眼をつむって上半身をゆらゆらと揺らしていた。口直しに用意されたピクルスが皿の上で静かに乾いていった。


 睡眠の淵から身を乗り出していた篠田がやがて目を覚ました。眠気の尾を引きずる様子はなく、仮眠から覚めた顔はやけにすっきりとしている。「なんだか急に喉が渇いたな」そう言って、乾いたピクルスを何事もなかったかのようにごく自然にポリポリと齧り始めた。


「お前みたいなやつに飯や酒を奢るのは、俺の唯一の趣味みたいなもんだ」


「何が楽しいんですかそんなこと。……奢ってもらって置いて、自分で言うのもなんですけど」


「必死に食ってる感じが、何か可愛らしいんだよなあ。猫とか犬じゃダメなんだよ」


 猫ではだめだったらしい。


「犬とか猫だと、責任感じるじゃんか。餌をあげた以上、最後まで面倒見てあげなきゃいけないだろ。その点、お前みたいなボロボロのガキなんて一食恵んでやっても別にその後の責任も何も感じん。どっかで野垂れ死んでもかまわないし、万が一偉くなってでもくれれば、『あの時の御恩をお返しします』みたいな感じで、いつか思わぬ恩返しがあるかもしれない」


「そんな昔話みたいなことあります?」


「今んところはないなあ」

 赤マルの箱から煙草を一本取り出して火をつけた後、大きなため息と煙を同時に吐き出す。


「まあ、僕はそれなりに感謝していますよ」


「それなりに感謝してもらえれば俺は満足。とはいえ、見ず知らずの、全くの他人を誘って飯を奢ったのはこれが初めてだな。趣味の中でもこの関係は逸脱している。おもしろいよな。やっぱ夜の街ってのはおもしろい!」


「僕も誰かに面倒を見てもらったり、誰かの物を頂戴するのは趣味みたいなもんですから。お互いにうまく引き合ったのかも知れないですね」


 壁掛けの時計が再び鳴った。次はコーンコーンコーンと三回鳴った。

篠田は小さく鼻歌を歌ったりしながら頬杖をついて、やがて寝息を立てて眠ってしまった。カウンターの隅で、背筋を伸ばしたまま、今にもそのまま次の話を始めるのではないかというほど整った姿勢で眠っていた。


 寝息を立て始める直前に「お前とはまたどこかで会いそうな気がするな。その時は知らんぷりだけはやめてくれよ」とつぶやいた。篠田が火をつけたマルボロの紙煙草は、灰皿の上でフィルターだけ残して灰になってしまった。


 僕はしばらく机の下で空をけりながら、残ったお酒をちびちびと口に運んだ。僕はそんなにお酒が得意じゃなかったから、少し舐めてはコースターに戻して、を何回か繰り返した後、やっぱり最後まで飲まずに残すことにした。篠田のロレックスの長針が六十度傾いても篠田は目覚めなかった。


 僕は篠田のカバンから長財布を抜き取って自分のポケットにしまった。


 そのあと僕は、ここまで背負ってきた誰のものかわからないリュックからも財布だけを取り出し、残りはそのまま席に置いて、電話をするふりをしながら店の外に出た。


 そのまま何食わぬ顔で郊外に向かって歩き始める。外は生暖かい雨が降っていた。


 道中、二つの財布から札束だけ抜き取ってポケットに突っ込む。札束はポケットの中でくしゃくしゃに丸まった。そして中身が小銭とカードだけになった二つの財布を、コンビニのごみ箱の中に乱暴に投げ捨てた。


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