99.生きている限り望みはある
部屋に残されたのは、ルーシャスとナイジャー、そしてまだ忘却魔法を施されていない二名――シーファとカリガのみとなった。
ふたりとも、商工会長や村長と同じように拘束されていた。白髪のシーファのほうはこれからなされることを悟り、怯えと虚勢を張った目でこちらを見つめている。
ルーシャスはそのそばに膝をつき、大仰に肩を震わせたシーファを見下ろした。
「エディが落ち着いたらおまえたちと話がしたいと言っていた。あいにくとこんな現場を見せるわけにはいかんからな。今日は連れてきてはいないが」
「おれにはあの女と話すことはない。やるならとっととやれ」
シーファが果敢にもルーシャスを睨みつける。
ルーシャスは片眉をひょいと上げた。
「威勢が良いな。忘却罪を知らないわけではあるまい?」
「知っているさ。その残虐性から忘却罪を刑罰から排除した国もあるくらいだ。それを私刑でやろうとは、おまえ、ろくな死に方をしないな」
「まともな生き方はとっくに捨てたし、まともな死に方にも期待していないさ。そんなものは一部の人間だけに与えられた特権だ。――なるほどな。エディの想像はだいたい合ってるようだ」
「なんだと?」
「おまえは知識は豊富だが、すべて知識でしかないということだ。現実に起こっている出来事として物事を捉えていない。だから忘却魔法を施されそうな今この場になっても、早くやれ、などと言う。忘却魔法のなんたるか、忘却罪のなんたるかは知っていても、実際に忘却魔法を施された人間は見たことがない。違うか?」
「それがどうした」
「いや、なに。もったいないと思ってな。うちは白々層から黒層までさまざまな階層からの出身者が集まっているが、誰も彼もがなにかしら苦労して生きてきたやつらばかりだ。おまえのようにそれなりの学府に入れてもらって、きちんと体系立った知識を学んだ人間はほとんどいない」
シーファの整った顔立ちが目に見えて歪む。やはりこの青年は、出自は良くてもその環境に問題があったようだ。
「――こちらの素性もバレてるというわけか。今更そんなことを確かめてどうする?」
ルーシャスは一旦シーファを無視して、カリガへと目を向けた。
こちらは既に凪いだ目をしている。会ったときから思っていたが、厭世的な女だった。
「バガスの大穴で会ったな」
「ええ、そうね」
「エディがおまえに礼を言いたいそうだ。誘拐されていた間、おまえがなにかと気を配ってくれたから死なずに済んだと」
「あの子はさほど堪えてなかったみたいだけど? 凍死しそうってことならそこのシーファのほうがよっぽどガタガタ震えてたよ」
「の、ようだな」
その話もエデルから聞いている。ルーシャスは苦笑した。
「それでも、エディはおまえに親切にしてもらったと。先に俺から礼を言いたい。エデルを守ってくれてありがとう」
「別に、親切心でやったわけじゃないよ。ロッズたちってほんっと気が利かないから。魔力も扱えてなさそうな女の子なのにあんな扱いで何日も保つわけないでしょ。それじゃあ生かして運ばなきゃならないロッズたちにも不利益が出る」
「だが、おまえは結局エデルを気にかけた。――俺のことはとっ捕まえていじめたいだとかなんだとか抜かしてなかったか?」
カリガがカッと顔を赤らめる。羞恥からではない。誤解されたことに腹を立てたのだ。
「あたしはあんなひ弱そうな子をいじめる趣味はないよ! ――もう! なんでどいつもこいつも人のことをサド呼ばわりするわけ!? あたしは! あんたみたいな! ブン殴ってもタダじゃ沈まなさそうな男を泣かせるのが好きなだけなの!!」
「十分サディスティックじゃねえかよ」
ナイジャーが後ろから茶々を入れながら笑う。
カリガは怒りに顔を歪めながらも、隣のシーファを気づかわしげに見やった。
「あたしは良いよ。どうせこういう生き方しかできないし。だからなにやってもとやかく言わないロッズについていくしかなかったとはいえ、その報いを受ける覚悟はできてる。――でもシーファはもう少し温情かけてやってくれないかな。この子、本当に良いとこの坊っちゃんすぎてものを知らないだけなんだ」
「カリガ! 余計なことを言うな!」
「あたしは、あんたなんか逃げちまえば良いと思ってたよ。ロッズのとこに来るようなタマじゃないんだ。他じゃ雇ってもらえなかったあんたの話も知ってるけどさ、それでもロッズだけは選んじゃだめだと思ってた。きれいな善人しか知らないあんたじゃ、ロッズみたいな悪意の塊に潰されて終わるだけだもん」
「……い、今更、」
「……そう。今更言っても仕方ないことだけどね」
カリガの諦めたような目に、シーファはぐっと押し黙るしかなかった。
ルーシャスはふたりの遣り取りについては敢えて黙殺し、淡々と尋ねた。
「おまえの性的嗜好は、まあ問題を持ち込まない程度なら自由にやってくれて良いんだが。シーファの次に補助魔法の扱いが得意だそうだが、どれくらいできる? ――シーファもだ。お行儀よく学院を卒業したのなら、魔道士の資格くらい持っているだろう。何級だ?」
「今更なによ。これから忘却魔法でみっともなく死ぬ人間のことなんか聞いてどうするつもり?」
「ろくな補助魔法も使えない輩に答えてなにがわかる」
胡乱げなカリガとシーファに、ルーシャスはその場にあぐらをかいて座り込んだ。膝に頬杖をつき、にやりと笑う。
「どうもこうも、こいつは引き抜きというやつなんだが」
「――は?」
ふたりが同時に素っ頓狂な声を上げる。後ろでナイジャーがくつくつと笑っていた。
「なにせ、うちは戦うことに特化したやつらばかりで、補助魔法に特化した魔道士はアンリひとりだけでな。この先エディの魔力操作訓練のためには、エディの事情を知っていて、その上で魔法指導ができる上等な魔道士ができる限り多く必要なんだ。だが、エディの魔力の件はおいそれと広めることができない。今回の二の舞いになるからな。――そこでおまえたちだ。既にエディの魔力量を知っていて、魔力の扱いにも長けた魔道士。野放しにはできないから、忘却魔法でエディの記憶ごとなくしてもらうか、俺の目の届く範囲で見知った情報を活かしてもらうか。どちらが良い」
「…………」
「……それって、」
「返答如何によっては、やはり忘却魔法もやむを得んな」
重苦しくもったいぶってうなずくルーシャスに、カリガとシーファは半ば呆れたようにぽかんとルーシャスを見やる。
それを見守っていたナイジャーは、とうとう声を上げて笑い始めたのだった。
*
宿の一階、食堂部分では盛大に宴が催されている。
明日には、ルーシャスたちは船に乗って青層に出発する。エデルも一緒に発つから、黒層に帰るミューリアや、エデルに挨拶がしたいとはるばるやってきた〝深淵の館〟の面々と別れの挨拶をしているのだ。
それから、エデルと初めて顔を合わせるアンリや他の仲間たちとも交流を持っている。エデルが見知らぬ大人を怖がるかと思われたが、ミューリアたち〝深淵の館〟の女性陣も多くいるから、どうやらうまく溶け込んでいるようだった。
宴の隅には所在なさげなシーファとカリガもいたが、あちらは始まって早々にルーシャスの仲間に引っ張り込まれ、なにやら散々飲まされている。明日は散々な体調だろうが、最初の一回くらいは手荒な歓迎も良しと見過ごすことにした。
ルーシャスはそこまで見守って、ひとり宴を抜け出し二階のバルコニーで涼んでいる。
涼むというには凍えるほどの寒さなのだが、酒にほてった身体にはこれくらいがちょうどよかった。
ルーシャスが目を閉じると、眼裏にはもう朧げになった母の姿が蘇る。
記憶の母は、いつもその最期、美しい紫紺の髪ごと首を斬り落とされた瞬間の姿をしていた。
この緑層では、白々層は神々の住まう国、などと言われることがある。――とんでもない。姿形ばかりは立派な白亜の宮殿だったが、その内情は人の欲と悪意、権威主義の渦巻くどす黒い世界だ。
ルーシャスはその白々層の亡国に国を背負って立つ者として生まれ、国の滅亡とともに緑層へと落とされた。
それを誰かに打ち明けたことはない。人生を捧げたエデルにも、すべてを預けた相棒にも、己を拾ってくれたアドラスにさえ。
そこはもう、亡くなった国だ。思い出して共有してもどうにもならない。人々の記憶から失われ、別の国に取って代わった、幻の国だ。だからルーシャスは己の故郷を口にしなくなった。人間というのは器用なもので、意図して忘れようと思うとある程度は記憶から薄れていく。もう国の名前すら朧げだった。
それよりも、堕ちたあとのほうが凄惨な記憶として刻まれてこびりついている。
優しい王と王妃――両親に恵まれ、多くの臣下に殿下と傅かれ、人を疑うことを知らずに育ってきたルーシャスは、突然堕とされた底辺の悪意に翻弄され、搾取され、身も心もナイフで抉り取られるような日々を送った。
素直に出自を打ち明ければ価値のある人間として売られ、逃げ出した先では家畜よりも手酷い扱いを受け、魔力操作のできる子どもだと知られれば低俗な輩に利用され、粗悪な施設に研究対象として弄ばれた。
何度も何度も助けを求めては裏切られ、救いを見出しては裏切られ、やがてひとりで生きていこうと決めても悪意が襲い、運命にさえ見放された。
そうして、あのゴミ溜めにたどり着いたのだ。
本当に死んだものとして、あの場所に捨てられたのである。かすかに息があったのは、ルーシャスが白々層の出身で生まれつき潤沢に魔力があり、あの年齢で既に魔力操作に長けていたからに他ならない。
それでも、あのまま放って置かれたら死を選んだ。なのに、見つけられたのだ。あの、春の空のような色をした目に。
エデルはルーシャスよりももっとみすぼらしい子どもだった。だというのに、なんの絶望もない、それが当然という目をしていたのである。
その彼女の目を見たとき、自分はまだ諦めてはいけないのか、と絶望に抗う気持ちが胸のうちに差し込んだのだ。
そうしてガルスルたちの仲間になった。エデルは自分が拾ったルーシャスのことを特別に思っていたようで、なにくれとなくあとをついて回った。あんなに無邪気に懐かれたのは、白々層でもないことだったのだ。
エデルはルーシャスを全面的に信じていたし、そこには一片の疑いもなかった。
エデルがいつも笑顔だったのは、そうしないと生きていけなかったからだ。あんな小さな子どものくせに、生きていくために身に着けざるを得なかった。ただの処世術だ。だからいつもへらへらと笑っていたのは、ルーシャスに好意的だったからではない。
だが、そんなエデルが時折、ルーシャスにすがるような目を向けた。
それこそが本当の信頼の証だった。ルーシャスの何がそうさせたのか、そうして先に心を開いて預けてくれたのはエデルのほうなのだ。あんなふうに信頼を寄せられたらもう、裏切ることができなかった。
自分は死にたくなるほど何度も裏切られてきたのに、どうしてもできなかった。自分が裏切られてきたように、誰かを手ひどく裏切ってやると思っていたのに、それでもできなかったのである。
だから決めた。これからは、エデルのために生きようと。
それを実現する日までこんなにもかかってしまったけれど、これから先、一緒に生きていくと決めたのだ。
だったらまだ望みはいくらでもある。同じ速度で歩いていくためにできることをしてやれる。生きて、そばにいる限り。
必ず、ともに歩めるようにしてみせる。




