90.《回想 9》恐れていた事態
ゾラにゆすり起こされ、気づいたときには馬車の中だった。
「やっと起きた。ほら、ご飯。食べられる?」
無理な体勢で眠っていたらしい。痛む身体を転がして起き上がろうとしたが、ビン、と手首になにかが引っ張られて自由が利かなかった。
なにごとかと視線をやると、太い縄のようなもので両手首が縛られている。そこからさらに縄が伸びて、隣にいたゾラ、そして反対隣にいるユーフェイとつながっていた。
「なあに、これ?」
「捕まってんの。ほんっとのんきなんだから……」
「良いから早く食べちゃいな。さっさとしないとあの人たちが下げに来ちゃうよ」
ゾラに呆れられ、ユーフェイが不自由な手でエデルのほうに椀を差し出す。
椀の中には薄い水のようなものが入っていた。正確には野菜くずのようなものが浮いていたので、おそらくは何かの汁なのだろうが。
急げと両隣からせっつかれたので、エデルは質問を重ねる前にまずは椀の中身を空にする。ひどい味だったが、エデルは黙って飲み干した。ユーフェイはまだしも、ゾラは怒りっぽい上にエデルを叩いたりもするから、彼女の言うことはまず素直に従っておかないとひどい目に遭うのだ。
「なんでつかまったの?」
まだ状況がよく飲み込めず、エデルは辺りを見回す。馬車というより荷台を馬に引かせたそれは小さく、エデルの両脇にゾラとユーフェイ、向かいに泣いているヘイティとサリュアでいっぱいだった。
御者台にいるのは見知らぬ男である。そして荷台の守りを固めるように、両隣にも馬に騎乗した男たちがいた。
「知らないわよ。あんたがヘマやらかしたからでしょ」
「わたしなにもしてないよ」
なにもしていない、と答えながら、やっぱり責められるとエデルが悪いことをしたような気がしてきてしまう。
一体なにが起こったのか、エデルはよくよく記憶を手繰って思い返してみた。
今日はいつもどおり〝狩り〟に出ていたはずだ。
冬を越え、エデルも大きくなったからとルウのお守りなしでゾラたちと出かけようとして、それを止めるルウとガルスルがまた喧嘩をした。それが数日前のこと。
ルウは街に知り合いを増やして、それでどうするとか言っていたはずだったけれど、エデルには詳しいことはわからない。
ただ、冬の終わりに急に男の子が三人も仲間に加わったものだから、とにかく食料が不足していた。
だから手っ取り早く実入りの良いやり方で食料を確保しなければならなくて、最近ではほとんどやらなくなっていた〝狩り〟を再開した。ここ一ヶ月ほどの話だ。
ルウはなるべくそうしなくて済む方法を探していたが、さすがに急に増えた三人分の食い扶持を賄えるほどの方法は思いつかなかった。それに、増えた三人はよく食べる男の子たちだった。その上、まだエデルたちの暮らし方に慣れていない。自分の分の食料くらい自分で確保しろ、と言ったところでできないのだから、みんなでなんとか賄うしかなかったのだ。
今朝はルウが外せない用事があるとかいう話だった。
ルウは最近、ひとりでよく出かける。もしかしたらもうじき抜けるのではないかとオッカやゾラたちは話し合っていたが、エデルはルウがいつまでもそばにいてくれたら良いと思っていた。
エデルもルウの行く先について行きたかったが、彼は困った顔で小屋に残るよう言いつけたのである。けれども、エデルだって仲間たちと暮らすひとりだ。一番年下だからといってなにもせずにいていいわけがない。だからゾラたちと出かけたのだが――そこでなにがあったのだったか。
ゾラとユーフェイには行きつけの店があって、まずそこで無心する。ここの店主は素っ気ないしくれるものもごくわずかだが、なにかと口利きをしてくれる良い人だ。
特に最近仲間が三人増えたと話せば、せめてゾラとユーフェイのふたりくらいは街の孤児院に行かないかと話を持ちかけてきたのだ。ゾラは鼻で笑って一蹴したが、ユーフェイは考えておく、と笑って断った。これが一軒目だったはずである。
二軒目は食堂の店主の娘だ。昼過ぎに行くとおこぼれをもらえることが多いのだが、昼時前もなにかしらくれたりする。だが最近は厳しくて、行っても何ももらえないことが多い。あそこはもうだめかな、なんてゾラたちは話し合っていたが、去り際にこっそりとエデルだけが呼びつけられ、小さなパンをひと欠片もらえた。
大勢で押しかけると追い返されるだけのことが多いのだが、一番年下のエデルはそれでもなにかと優遇してもらえるのだ。
エデルは急いでパンを飲み込んで、次の馴染みの場所へ向かっていたゾラたちを追いかけた。それで――。
「ゾラたち、だれかとお話してたっけ」
あのとき、ゾラたちは見知らぬ男たちに声をかけられていた。そんなのはよくあることで、だからエデルはなにも疑問に思わず、彼女たちに追いつけたと安堵したのだが。
「それがこの人たち」
ゾラが呆れたように肩をすくめ、声をひそめた。
「いつもの声掛けだと思ったんだけど、すごく強引で……。逃げようとしたらヘイティが捕まっちゃったのよ」
ユーフェイも小さな声でそう教えてくれる。
ずっと膝を抱えて顔を埋めていたヘイティが大仰に震えた。
「ごめん、あたしのせいで……」
「あんたのせいじゃないでしょ。あたしがすぐに逃げろって言わなかったから……。ルウからよくよく注意しろって言われてたのに」
ゾラが沈んだ声でヘイティを慰める。ヘイティは顔を上げなかったが、その隣でずっとぐすぐすと鼻を鳴らしていたサリュアが泣き言を漏らした。
「あたしたち、どうなるの……?」
「どうもこうも、そんなことよりどうにかしてここから逃げる方法を考えなきゃ」
だから、とユーフェイがエデルに自身の手首を見せる。
「まずはみんながつながれてるこれをどうにかして外そうってこと。エデルが起きてくれなきゃ話が進まなかったのよ」
「おいおい、嬢ちゃんたち。作戦会議は聞こえないようにやんなきゃなあ?」
「――っ」
突然、粘つくような男の声が割って入った。
驚いて振り返ると、馬車の両側に張り付いて馬に乗っていた男たちがにやにやとこちらを見下ろしている。
「おっ最後のひとりもやっとおねんねからお目覚めだぜ」
「一番ちっちゃかったもんな。おまえが薬の量間違えるからもう目覚めないかと思ったじゃねえの」
「悪ぃ悪ぃ。――嬢ちゃん。おまえだ。そこの灰色頭の」
灰色頭はエデルひとりだけだ。
知らない男に話しかけられたとあってエデルはびくりと身体をすくめたが、答えないと他の少女たちまでひどい目に遭わされるかもしれない。
「なに?」
怯えながら尋ねると、男の大きな手が伸びてくる。爪の間に泥汚れを溜め込み、あちこち皮が剥けた、実に汚い手だった。
反射的に避けようとして後退り、しかし手首でつながったユーフェイとゾラが引っ張られて悲鳴を上げた。
そういえば他の少女たちとつながれているのだった。逃げられない。
エデルが動きを止めると同時、汚い手がエデルの小さな顎を掴み、無造作に引き寄せられる。
「おお、一番チビが一番良いツラしてんな。こりゃあ身ぎれいにさせりゃ高く売れそうだ。それにちーっとばかし薬の量が多かったわりには案外威勢が良い。魔力にも期待できるかもな」
「ガキは小さければ小さいほど良いって連中多いからなあ」
「はなして!」
男の息が臭い。顔をしかめて無理に離れようと身体を仰け反らせると、後ろから厳しい声音が飛んできた。
「おい、商品に触ってんじゃねえ! そこのガキも暴れんな!」
ぱっと手が離されて、エデルは勢い余ってひっくり返る。上下逆さまになった御者の男がこちらを睨んでいるのが見えた。
「だけどよう、全員起きたんなら健康診断ってやつが必要なんじゃないか? 女を売るときにはどこでもやってんだろ」
叱られた男が下卑た目を向けてくる。言葉の意味はわからなくても、その目がろくでもないことを考えていると雄弁に語っていた。
エデルは自由にならない手足で後退る。ユーフェイたちも互いに抱き合って男の視線から逃れるように縮こまった。
「やったとしてもその役目はテメェじゃねえ。黙ってろ。――おい、ガキども。痛い目を見たくなかったら大人しくしてろ。逃げられると思うなよ」
御者の男に凄まれ、全員がうつむいて黙りこくってしまった。
もうこそこそと会話する余裕もなくなって、みんながみんな、この先の不安を胸のうちに溜め込んだのだった。
馬車はとうに街を離れ、それでもポツポツとあった人家や田畑も次第になくなり、エデルが見たことのない景色が広がってきた。
そのうち、辺りは木々や植物ばかりになった。エデルには初めて見るものばかりだ。
小走りするような速さで景色が流れていく。じっと一点を見つめていると、動いていく景色に視線が追いつけなくなり、景色が緑と茶色の二色だけになっていくさまが面白かった。
視線を転じて空を見上げると、青空が広がっている。
今日はこの緑層では珍しいくらいの、すっきりと晴れた一日だった。
――今日は上の島が見えないから、いい天気なのにな。
こういう、天気の良い日はみんな喜ぶ。しかし今それを口にしたところで誰も取り合ってはくれないし、そんな呑気なことを言うなと怒られそうだ。
ここから逃げなければならない。しかし、その手段も解決策もわからないままだ。ここに集まった四人の少女たちに相談しようにも、既に会話すること自体を禁じられたばかりである。だからといってひとりで事を起こそうとしても、そう簡単にうまくはいかない。きっと怒られるのは自分だけでないだろうし、この中の誰かに危害を加えられたらと思うと躊躇した。
それでも、とエデルは幼い頭でぼんやりと考える。
たぶん、この魔導具の縄くらいは、エデルなら破壊して逃げられるかもしれないが。
エデルは手元の太い縄を引っ張ったり緩めたり、どんな材質のものなのかを改めてよく観察してみた。
エデルは魔法に詳しいわけではない。だが、この半年でルウからたくさんのことを教えてもらった。
人の体には魔力が巡っていること。エデルにはそれがないこと。でも、どういうわけかエデルは魔力をたくさん持っているらしいこと。魔法でできたもの、魔力を帯びているものの見分け方。魔法を使うのが上手そうな大人にはよくよく気をつけること――。
ルウから繰り返し聞いて覚えた知識を総動員した結果、おそらく、エデルがストーブの魔鉱石――あれが緑魔鉱石という名前だということもルウから聞いた――に魔力を溜めるのと同じ要領でこの縄に魔力を放出すれば、ちぎることができる。けれどもその場合、同じ縄でつながれているゾラやユーフェイたちがどうなるかまではわからなかった。
もうほかに思いつかなくて、エデルはぼんやりとルウのことを考えた。
――ルウはどうしてるかな。わたしがいなくなったら心配してくれるかな。
彼はいつもエデルのことを心配する。
エデルがお腹を空かせていないか、寒がってはいないか、疲れてはいないか。ルウはエデルにとって兄のような存在だから、きっと今頃、帰ってこないエデルに業を煮やして怒っているかもしれない。
そこまで考えてから、恐ろしく冷えた声音が、突然聞こえた気がした。
――おまえさえいなければ良かったのに。
「……おかあさん」
エデルは誰にも聞こえないくらい、小さな声でつぶやいた。
ここしばらく思い出しもしなかった母親の声が、今になって蘇る。
彼女はエデルを嫌っていた。エデルは要らない子で、だからいつも遠ざけられて、どんなに母の笑顔を見たいのだと望んでも、ついぞ叶わなかった。
――わたしはいらない子。わたしがいなくなったからって、誰も探したりしない。
暗い考えが次第に思考の闇を濃くしていく。
――そんなことない。ルウは探しに来てくれる。
――いいや、ルウだっていつかわたしを捨てるに決まってる。
頭の中で、ふたつの相反する主張をする自分が喚いている。どちらも泣きそうになりながら、本心から叫んでいる。
エデルは上を向いた。ぐっと目を見開き、何度も目を瞬く。泣きたくなったときは、いつもそうすることで凌いできた。
そうやって空を見上げていると、不意に青の中に黒点が浮かんだ。
空に黒いシミのようなものが浮かんでいる。青層の島が近づいてきたのか――いや、それにしては小さい。
その黒い点が、見つめているうちにどんどん近づいてくる。
島が落ちてきたのだろうか? ――違う。人だ。
あっと思ったときには、突如として空から降ってきた人が――ルウが大剣を振りかざし、エデルたちが乗った馬車めがけて刃を閃かせた。




