82.《回想 1》 泣いてはいけない理由
エデルの人生には、生まれたときからその魔力の異常性がついて回った。
最初に魔力について自覚したのがいつ頃だったかはもうわからない。だが、物心がつく前からそのことが原因で親に嫌われていたことは、なんとなく記憶している。
父親の存在はわからない。母親しかいなかった。もしかしたら両親どちらも母親だったのかもしれないが、そこまで覚えてはいなかった。なにせ、思い出そうにも母の顔は黒いもやがかかったように曖昧で、顔の形は思い出せなかったのである。
母親はいつもエデルを怒鳴りつけ、ときに殴った。
どうして怒られるのか、エデルのなにがそこまで彼女の神経を逆撫でるのか、幼いエデルにはわからなかった。ただ、怒られてつらい、殴られて痛いからと言って泣くと、決まってもっとひどい目に遭う。そのことだけは幼い頭にも深く刻まれた。
だからなるべく泣かないようにした。母親の機嫌を損ねたらもっとつらい。エデルはヘラヘラと笑って過ごすことを覚えた。そうしたら、母親以外の周囲の大人たちは目に見えて態度が軟化した。
――ああ、忘れていた。母親だけでなく、周囲の大人たちもエデルにはつらく当たっていた。やっぱり、エデルの魔力のことを知っていたのだろう。知っていた、というより、やっぱり、魔鉱石を壊す子ども、という認識だったのだろうが。
だが、エデルが笑っても母親はマシになる程度だった。母の機嫌が悪ければ、自ら殴っておいて「ヘラヘラと気持ち悪い」と罵ったりもした。それでも、笑っていれば泣くよりは殴られる回数はぐっと少なくなったから、罵られようが詰られようがエデルは笑っていた。
どうにかして、母親に好きだと言ってもらいたかった。他の子どものように、親に抱きしめてもらって、愛していると声をかけてもらって、たくさんご飯を食べさせてもらいたかった。一緒に眠りたかった。
けれども、無駄な努力だった。
エデルは捨てられたのだ。
*
それがどこの街のはずれであったのか、エデルにはわからない。たどり着いた街の名前のことなどついぞ知ることもないまま、子供時代を過ごしていたのだ。
けれどもその日のことは、よく覚えている。
緑層の土地柄をして、珍しいほどよく晴れた、暑いくらいの日だった。
その日母親は朝から一言も喋らず、だからエデルも黙っていた。エデルから話しかけると、決まって機嫌が悪くなるからだ。
その年はサクモツのデキガワルイ、と大人の誰かがしきりと話しているのを耳にしていた。その言葉がなにを意味しているのかはわからなかったが、とにかく、良くないことが起こっているのだろうとは理解できる。大人が日がな難しい顔で膝を突き合わせ、何かを話し合っているからだ。
午前中はいつもどおり仕事に出て、その間エデルはいつもどおり畑のすぐそばでじっとしていた。動いたら怒られるから、日差しがじりじりと肌を焼いても、すぐ隣に木陰があっても、そこへ移動することはしなかった。そうしたらまた怒って殴られると思っていたのだ。
だんだんと頭が痛くなってきた。後頭部を平手で何度も叩かれるとき、ちょうどこんな痛み方をする。ガンガンとなにかにぶっ叩かれるような、そんな痛みだ。
それがひどくなってきて、朦朧としてきた。けれどもこんなところで眠ったら余計に怒られる。お昼はまだだろうか。そうすれば、動いても怒られないのだけれども。
そんなふうに思っていたときだっただろうか。
母親はエデルを呼びつけた。呼ばれたのなら急いで向かわないとまた怒られる。エデルの中ではぱっと立ち上がって向かったつもりだったが、身体はふらふらとしてうまく立ち上がれず、何度か尻もちをついた。
そのことでまた母親はエデルの頭を叩いたのだった。
「あんたは本当に使えない子だね。泣けば良いと思ってる?」
泣けば良いなんて、天地がひっくり返っても考えやしない。泣いたらもっとひどいことになるじゃないか。
子供心にとてつもなく心外だったが、言い返す気力もなかった。
昼の休憩になれば、エデルにもなけなし程度の食事が与えられる。そう思ったが、その日に限って母親はエデルを連れて村の外へ向かって歩き始めた。
「……どこいくの?」
エデルは初めて質問した。質問してから、許可もされていないのに質問をしたらまた殴られる、と思った。
思わずぎゅっと目を閉じ、顔の前に小さな両腕をかざす。しかし思ったような暴力は降ってこなかった。
いつの間にか、目の前には見たことのないような光景が広がっていた。
山がある。ただの山ではない。ゴミの山だ。
ガラクタのようなものがなんでもかんでも積み上げられ、小高い山を作っているのだ。エデルの知っている範囲だと、家の中を明るくする魔導具や、食べ物を入れておく魔導具の箱、パンを焼く魔導具、などがあった。すべて魔導具だ。それが無惨にもひしゃげたり、バラバラになったりしている。
そこにはたくさんの人がいた。大人も子どももいたが、おそらく、子どものほうが多い。魔導具の山を素足で登り、その中からなにかを選んでいる。いらないものはふたたびポイと山の中に放り、そうやって次々と選んでいた。
「ここ、なあに?」
「あんたも今日からここで働くんだよ」
「なにをするの?」
「さあ。どっかにまとめ役の大人がいるから、探して自分で聞きな」
「おかあさんは?」
尋ねると、母親はエデルを見下ろした。その、何の感慨も見えない表情の怖さを、今でもよく覚えている。
「あんたは今日からここで働くんだ」
もう一度同じことを言って、母親はエデルの手を離した。
「ま、まって……」
あっさりと踵を返し、去っていこうとする母親を呼び止めようとしたが、そんなことをすればまた機嫌を損ねる。
エデルには母親を呼び止められなかった。その背中が一度でも振り返ってはくれないだろうかと押しつぶされそうな気持ちで見つめ、しかし無慈悲にも姿は見えなくなる。それでもエデルは、しばらく母親のいなくなった先を見つめていた。
どうしたら良いかわからなかった。
ただ、強烈に理解していた。
捨てられたのだ、と。
母親はもう二度と迎えに来ないのだ、と。それだけは、どうしてか意識に強くこびりついていた。
エデルは呆然として、一日中そこに突っ立っていた。
まとめ役の大人がどこかにいるから探せ、と言われていたが、そんなことはもう小さな頭から吹き飛んでいた。少し前まで熱中症気味で、頭痛がしていたことも忘れていた。
エデルはただそこに突っ立っているだけの子どもと化した。だが、そこにいた大勢の人たちの誰もがエデルのことなど気にも留めなかったのである。邪魔だと蹴り飛ばされることはあったものの、誰かがエデルをどこかへ連れて行くわけでもなく、そのまとめ役の大人に見つかって怒られるでもなく、ただただそこに存在するだけの邪魔なものとして無視され続けたのだった。
その日はついぞそこから動かなかったが、エデルはどこか、安堵した気持ちを抱えていた。もう母親の機嫌を窺って過ごさなくて良いのだ、と幼心にほっとしていたのである。けれども同時に、いつもの下手な笑顔が作れなくなるくらい、悲しくて仕方がなかった。
*
結局、エデルは〝まとめ役の大人〟を見つけられなかった。母親の言いつけを忘れていた、というほうが正しいかもしれない。
一日呆然と過ごしたあとは、お腹が空いて仕方がなくなって、食べ物を求めて歩き回ったからである。
そうしてあてもなく歩き回った先で、その街にたどり着いた。いつの間にかゴミの山からは抜け出していた。
そこは緑層の大きな街だった。名前は知らない。当時のエデルには知る術もなかったし、養父に引き取られたあとは急速に記憶が薄れ、浮浪児の頃のことはついに誰かに尋ねることもしなかったからである。
養父はたぶん、エデルが当時の辛い時代を思い出したくないのだと思って配慮していたようだが、単に忘れていただけなのだ。
だから、大人になった今も、その街の名前は知らないままである。
エデルはその街で食べ物を探した。大きな街で、たくさんの露店があって、屋台もそこかしこにある。食べ物を得るには容易い環境のように思えたが、なかなかどうしてこれがうまく行かない。
露店の大人に「ください」と、大人に受けの良い笑みを浮かべて覚えたばかりの要求の言葉を口にしても、食べ物は得られなかった。それらを得るには、相手が要求するなにかが――アレスという名のなにかが――なければもらえないのだと、そのとき初めて知った。
けれども、当時片手で数えて事足りる年齢のエデルに理屈などわかりはしない。その大人に要求してだめなら、別の露店で同じことをした。そうしているうちに、ひとりくらいは憐れんで〝アレス〟がなくても食べ物をくれたのだ。
そうしてようやく腹が満たされると、今度は急に自分の置かれた状況が身に沁みて不安になってくる。
頼れる人は誰もいない。この先、どうしたら良いのかもわからない。うろうろと街中を彷徨って、その日の夕方、エデルは同じ年頃の、同じように薄汚れた子どもたちについて行くことにした。
彼らについて行ったことに特に理由はなかった。
こういうとき、大人についていくと嫌な顔をされる。日中の間に何度か繰り返して、やんわりとついてくるなと注意されたり、追い払われたりしただけだ。ついていく相手がたとえ同じ年頃の子どもだったとしても、その子どもに大人がついていれば同じように追い払われる。
だから彼らについて行った理由など消去法でしかない。エデルを邪険に扱わない、子どもたちだけで固まっている集団について行っただけなのだ。
その彼らこそが、この街で幅を利かせる浮浪児集団であることなど知る由もなく。
エデルはその日から、浮浪児集団の中でただ生きるだけの毎日を送るようになったのである。




