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71.バガスの闇市

 エデルはずっと碧の目をぐるぐるとさせ、ぽかんとあらぬ方向を見ている。完全に魂が抜けていた。

 あのあと、身体の周囲に空気の層をまとって湖の深くへ沈み、底にある穴から別の通路に出るなどという黒層(こくそう)でしか味わえない体験をしたのに、彼女には何も見えていないようだった。

 無事に水から上がり、水路の脇道にたどり着いても何も口にしない。視線もうろうろと彷徨ったままだった。


「おい、ルース」

「なんだ」


 潜水魔法を解き、魔粒子(まりゅうし)に乱れがないか確認を終えたナイジャーが、さすがに黙っていられないとばかりに相棒に声をかけた。


「エディが固まっちゃったじゃん」

「そうか? どちらかというと魂が抜けているように見えるが」


 エデルはぼうっと明後日の方向を見つめたまま、焦点が定まっていない。ぽかんとだらしなく口を開けている様子を見るに、思考が完全に停止している。停止というか、溶けているというか。今起こったことを処理しきれずにそこで停滞しているというか。

 ルーシャスが平然と首をかしげるので、ナイジャーは呆れて息をついた。


「おまえが言うなよ」

「そうは言われてもな」


 元凶であるルーシャスは眉をひそめる。

 なぜおまえがそんなに被害者ヅラをするのか、とナイジャーは今すぐ詰めてやりたい気持ちに駆られた。


「仕方ないだろう。あれ以外に手段があったか?」

「いやあ、そりゃあ、まあ」


 思いついたかと言われると、確かに思いつかなかっただろう。しかし、それにしてもやりようというものがある。


「事前に説明くらいしてやったほうが良かったんじゃねえの?」

「先にキスをするぞ、と? そのほうが嫌だろう」

「おまえは嫌だったわけ?」

「嫌だとか言っている場合か?」


 ド正論である。

 ナイジャーは小さく悪態をついた。

 ここで「俺は嫌じゃなかった」と慌てた様子にでもさせられたら、それで延々とからかってやれたのに。これではルーシャスは恋愛的な意味できちんとエデルを好いていることを自覚をしているのかどうか、まだわからない。


 ――いや、でもな。キスでしか解決方法が浮かばなかったとしても、それが俺相手だったら間違いなく対応が変わるはずなんだよな、ルースの場合。


 ルーシャスは合理主義だ。今回のように、キスすることでしか――それも潜水魔法の魔術式の形に練り上げた魔粒子を渡さなければならなかったから、ただ唇を合わせるのではなく体液を体内に流し込んでやる方法が必要だった――解決策がなかったとしたら、必ず遂行する。だが、彼だって合理性のために感情をスパッと切り捨てて行動に移せるわけではないのだ。


 その方法しかないが、感情的には嫌がっている場合、ルーシャスならまずどうするか。

 先に、その方法しか解決方法がないと説明するだろう。その上でこちらに選択肢を渡してくる。それでも本当に良いのか、それとも別の方法を模索するか。


 ――うん、そうだな。それが自然だな。


 ナイジャーはひとり納得してうなずく。


 ということは、だ。

 やはり、それで良いと思ったから即行動に移したと考えるほうが自然だろう。そしてできればエデルに正面切って拒否されたくなかったから、相談せずに実行した。


「なあ、ルース。やっぱりおまえさ……」


 ここはもう、真っ向から指摘して気づかせてやるほうが良いのではないか。ルーシャスのためでもあるが、どちらかというと振り回されるエデルのために。


 そう思ってナイジャーが意を決し、口を開いたときだった。

 じゃぼ、と水溜まりを踏み抜いたような――それよりももっと深い水に足を踏み入れたような音が聞こえて振り返る。

 そこに、ぼんやりと空を見つめたまま水路のほうへ足を踏み出したエデルがいた。


「わーエディ! そっち行くと溺れるぞ!!」


 潜水魔法も解いたあとだったので慌てて寸前で引き上げたが、エデルは片足膝下くらいまで見事に水に浸かっていた。




 *




 そこかしこから煙が上がり、埃のような、甘ったるく胸が重くなるような、そんなにおいが充満している。ついでに鉄さび臭さとそれが腐敗し始めている生臭さ、それから人いきれとその人間の体臭も混ざって、なんとも鼻をふさぎたくなるような空間だった。


 道は狭く、足元には常に何かしらが散乱している。ただでさえ狭い道の両脇に露店がずらりと並び、売る人、買う人、通行人でごった返していた。

 一歩進むごとにすれ違うために右か左へ身体をひねらなければならない。できればルーシャスかナイジャーの後ろを歩いていたほうが彼らの大きな体で道が拓けるので歩きやすかったが、死角に入るなと言われている。

 それだってふたりの間をぎゅっとサンドイッチにされるように歩いているのだからぶつかりようもないはずなのだが、どうにもここの人たちはエデルが目に入っていないらしい。ルーシャスとナイジャーの隙間にいるエデルを轢くルートで前方から人がやってくるのだ。


 何度目になるかわからない突進に、ナイジャーが長い腕を伸ばして突っ込もうとした男の襟首を掴む。そのまま仔犬でも退かすようにひょいと道の端に寄せて離してやった。


「なにしやがんだ!」

「前見て歩きな」

「そっちが邪魔なんだろうがよ。一丁前に女連れやがって」

「なんだ、このかわいい子が見えてたのかよ。突っ込んでくるからてっきり目が悪いのかと思ったぜ」

「――――」


 男がエデルに向かって罵声を浴びせてくる。しかしその前にぱっと耳を塞がれて、驚いて上を見やった。

 ルーシャスだ。

 見上げたルーシャスはこちらをちらりと見やる。エデルはパッと視線を外した。


 あんなことがあった直後である。必要だっただけで、そこに特別な感情はなかったとはいえ、しばらくはまともに彼の目を見られそうになかった。

 エデルはずっとぎこちない態度を取っていたが、ルーシャスも半ば想定はしていたのだろう。特に指摘されることはなかったから、エデルの気の済むようにさせてくれるのがありがたかった。


 ややあって、エデルの側頭部ごと包んでいた両手が離れる。


「聞こえたか?」

「ぜんぜん。ルース、なにか言った?」

「いや、聞こえていないのなら良い」


 なんだかよくわからないが、ルーシャスの目的は達成されたらしい。


 エデルの肩にはナイジャーの長い腕が巻き付いている。万が一にもはぐれたり突き飛ばされたりしないためだが、エデルの首を棲家にしているウィットランドーグの幼獣は迷惑そうに「ぎゅうー」と鳴いた。

 この幼獣は賢いもので、最初こそ興味津々であたりを見回そうとしていたものの、エデルが「大人しくして、周りから見えないようにね」と言えば首を引っ込め、襟の中でじっとしている。あとで果物かなにか、ご褒美を与えてやりたかった。


「ここで買い物ってできるの?」


 バガスの闇市は人混みであふれ、罵声が飛び交いなにやら得も言われぬにおいをも醸しているが、基本的には露店の立ち並ぶ賑やかな街だった。

 とんでもなく治安と衛生が悪いだけで、人々はみんなあちこちの露店で思い思いに買い物をしている。

 中には女性も多かったから、たぶん、ここで食材を買って生活している人もいるはずだ。――その彼女らの隣には夫か護衛か、必ず男性が付き添っていたが。


 エデルでも買えるものがあるのかとルーシャスに尋ねると、彼は寄ってきた女を無造作に除けながら言った。


「大それたものでなければ買えるが、ほしいものでもあるのか?」

「白蛇ちゃんのおやつ。さっきから甘い匂いがしてるでしょ。果物でも売ってるのかなって」

「ああ、これは――。寄るな。邪魔だ」


 諦めずに腕を引こうとしてきた女に強く言い放ち、ルーシャスは息をつく。

 ナイジャーもだが、一歩歩くごとに娼婦が寄ってきて進行を邪魔するのだ。

 どちらに対してもそうだが、ほとんどむき出しの豊満な胸を押し付ける女を見ていると、エデルもどことなく落ち着かない。諦めて去っていくのを見て、ようやくほっとするのだった。


「すまん。――なんの話だったか」

「甘い匂い。果物売ってる?」

「ああ、そうだ。残念だが、この甘い匂いは果物じゃない」

「そうなの?」


 エデルは目を瞬いた。

 確かに、なんの果物なのか判別がつかない。甘ったるいマンゴーやバナナのような匂いにも思えるのだが、それよりももっとずっと、胸にずっしりともたれるような重い香りなのだ。


「果物自体は売っていると思うが……。その白蛇用なら構わないが、おまえは口にするなよ」


 なぜ、と問いかける間もなく、どすんと重い音がする。同時に、少々場がざわめいたような気がした。

 目をやると、ちょうど人混みの隙間から見えた露店の台に、ズドンと大きな頭が降ってくる。

 たぶん、牛の、のような生き物の頭部だ。まだきらきらと濡れた目が、しかし確実に生気をなくしてこちらを見ていた。


「――――」


 エデルは思わず息を呑む。

 食肉用の獣をこの場でしめて解体しているのだ。


 別段、獣が食肉に加工される現場をまったく見たことないだとか、その過程も知らないほど箱入りなわけではない。

 エデルがいた村では魔鉱石(まこうせき)採掘が主な産業だったが、その作業中に獣魔(じゅうま)が出ると、これを捕らえて村のみんなで食べた。エデルにも獣や獣魔を食肉に加工する作業を手伝ったことがあったが、それにしても、今まさに屠殺され、落とされた首を目の前にしたのは初めてだったのである。


 思わず目をそらすと、ぽんぽんと慰めるように肩を叩かれる。エデルが目にした方向を塞ぐようにルーシャスが身体を詰め、それでようやく息をついた。


「あそこに空き地があるのが見えるか?」


 今見たものから意識をそらすようにルーシャスが問いかける。エデルが目を向けると、確かに雑踏の中にぽっかりと開けた場所があった。

 二辺を積んだレンガで囲み、その壁に沿うようにゴミのような器具のようなものがいろいろと置いてある。ぽっかりと空いているわりに、人混みはそこへ押し出されず、空間を保っているのが不思議だった。


「あそこで毎朝早くから獣が競りにかけられるんだ。それから、裏市場で扱う獣魔なども競りに出される」

「裏市場?」


 早朝の競りで落札された獣が、今のように食肉に加工される。だが、裏市場で競り落とされる獣魔、とは。

 エデルが首をかしげると、ルーシャスは進行方向を見据えたまま言った。


「裏市場は早朝の競りより前の時間帯に行われる。ほとんど深夜帯だな。そこで扱われるものは表の……今ここで見られる露店には出回らない。そもそもこの市場自体違法性の高いものばかり扱っているが、そんな場でも不思議なことに罪の軽重を気にするものなんだ。もっと誰が見ても明らかに重罪にあたるようなものは人目を避けるから、今この場には出回らない。だが、確実に存在している」

「……あの倉庫で見た獣魔があそこで競りに出されるの?」

「そういうことだ」

「じゃあ、この間見た獣魔たちは……」


 もう、売られてしまったのか。

 みなまで言わずとも、エデルの心配を察したのだろう。ルーシャスは首を振った。


「そこまではまだ判断できん。これから調べるところだ。場所もな。ああいう競り場はこの街のどこにでもあるからな。主催者や、どの獣魔が既にどれくらい売られたのか、これからどれだけ売る予定があるのかも見ておきたい」

「そのためにまずは宿を取って腰を落ち着けたいんだけどな」


 隣からナイジャーの声が降ってくる。


「思ったより人が多いんで時間がかかりそうだ。下手すると宿も埋まっちまうぞ。急ごう」

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