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70.エデルに潜水魔法を施す方法

 翌朝、早い時間に宿を出発した。

 宿を出る前に、いつもとは違う衣服に着替えたり、持ち物は全部ルーシャスとナイジャーに預けたりといろいろあったものだから、起きたのは早朝もいいところだ。


 この日エデルが着たのは、簡素なハイネックのシャツと飾り気のないワンピーススカートに、それらをすっぽりと覆い隠すほぼ一枚布の上着だった。腰帯(サッシュ)はこちらも洗いざらしで一番安価なものである。

 これから先、高級に見えるものを目につくところに身に着けていると、それが摺りや誘拐の対象になることがあるらしい。

 この手前の街で既に治安に不安を覚えるような有り様だから、彼らの指摘は正しいのだろう。エデルは素直に受け入れ、飾り気のない衣服に着替えた。

 荷物も全部預けてある。そのほうが安全だ。だが、ある程度の金銭を身体のあちこちにしまっておくようにと渡された。万が一にもエデルがひとりになるようなことはないはずだが、もしも金銭目当てで命を脅かされたとき、ある程度は渡してしまったほうが助かる可能性が高いのである。


 そうして準備を整えてから出発すると、いよいよ様子があやしくなってくる。

 ここから先は馬車が使えないとルーシャスが言ったが、まさにその通りだった。

 まずもって路地はゴミだらけなのである。人も少なく、心なしか、頭上を飛ぶ光球虫(こうきゅうちゅう)の数も少なくて薄暗い。

 その虫がふらふらとエデルに寄っては、まるで止まり木を見つけたように止まっていった。もう何回も繰り返されている。


「エディの魔力が目当てなんだろうな」


 言いながら、途中でナイジャーが虫よけの魔法を施してくれた。

 実のところ、光球虫が寄ってくること自体は黒層(こくそう)に入ったときからあった。そのたびに虫除けの魔法を施してくれていたのである。だが、ここではその魔法すら厭わず寄ってくるのだ。何度やってもきりがなかった。

「基本的に魔力が足りないんだろう。だから明るさが足りなくて薄暗い。黒層は深部に行けば行くほど魔力の供給が減るからな」


 ルーシャスはそう分析する。

 黒層の深部は、人間も保持できる魔力量の少ない人が多いらしい。その彼らが街の資源たる魔力を補うから、全体的に供給量が少ないのだ。だから必然的に光球虫に与えられる魔力も上層階より乏しくなる。


「この子たちにならいくら群がられても良いんだけどね」


 光球虫は丸い大きなお尻を光らせた虫である。大きな、というが、身体のほぼ全部が臀部にあたる。その代わり、頭部はほとんど見当たらないほど小さい。傍目からは光の玉が飛んでいるように見えるわけだ。


「エディが光球虫に群がられたらルースが隣を歩けなくなるよ」

「あ、そっか」


 杖でぺっと追い払いながらナイジャーが苦笑する。

 エデルはまったく平気なのだが、ルーシャスは虫もさほど得意ではないようだった。今も、光に群がる蛾のようにエデルにくっついた光球虫を追い払うのはナイジャーの役目で、ルーシャスはじっと進行方向を眺めている。

 三人で並んで歩くには狭く、ゴミやら人やらが邪魔するので、誰かしらは前を見て歩かないといけないのだ。――というのももちろんあるのだが、エデルに群がった光球虫を目にしたくないことも一因かもしれなかった。

 すれ違う人もいるのだが、そうではなく、ただそこに佇むだけの人もいる。それが入り組んだ道のところどころに現れるから、避けるのも一苦労だった。


 今通りすがった道のくぼみには、そこに寄り添うように寝そべっている人がいた。

 息をしているのかどうかもわからない。顔も判然としなかった。

 ぞっとしたが、注視して絡まれても困る。その隣には平然と物乞いもいて、エデルはぱっと目をそらした。


 物乞い自体は緑層(りょくそう)にも多くいたし、そもそもはエデルが浮浪児だった。珍しくもなんともないのだが、それでも絡まれるのは嫌だ。対抗する術がない。

 そもそも、明らかに地元の人間ではない風体の三人組は目立つのだ。こうして歩いている間にも、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて近づいてこちらを見つめる輩は多かった。中には、あからさまに声を掛けて引き留めようとする人もいる。その誰もが下品な呼びかけで、エデルは内心ヒヤヒヤとしていた。

 それを、ルーシャスたちはときに視線で黙らせ、ときにはあえて強い言葉で追い返す。


「可哀想に思えるかもしれんが、ああいうのは一度捕まったらきりがないからな」


 今しがたも、結構な悪口雑言で追い返したルーシャスが小さく息をつく。エデルは苦笑した。


「相手にしちゃだめなのはわかるよ」

「すまんな」

「ううん、気にしないで」


 謝らなくても良いのに、とエデルは眉を下げる。

 彼らがわざと意地の悪い強い言葉を選んで追い返しているのはわかっていた。だが、聞きようによっては大の男がひどく品のない言葉で喧嘩しているようにも聞こえる。エデルのような非力な女を怖がらせてしまってはいないかと、ルーシャスは心配したのだろう。


 しかしエデルは、罵倒であってもどこか品のある発音をするルーシャスにそっと笑いを噛み殺していた。そのあたりはナイジャーのほうがウィットに富んだ嫌味な切り返しをする。どちらにせよ、要は相手に襲う気をなくさせればなんでも良いのだ。エデルにもふたりの語彙の違いを楽しむ余裕くらいはあった。

 とはいえ、エデルの存在に気づかれて引き合いに出されると余計に話がややこしくなる。エデルはなるべくルーシャスとナイジャーの大きな体の間にねじ込むようにして、隠れるように歩いた。




 *




 そうして薄暗い通路を抜けて、ようやく開けた場所にたどり着いた。

 黒層に数ある大穴とは違う。ここは滝壺だった。

 首が痛くなるくらい見上げた遠くから大量の水が流れ落ちてきて、轟音を立てながら足元に広がる湖に到達する。


 湖は広い。向こう岸まで見える程度の大きさではあるが、岸辺をぐるりと一周するのに数十分はかかりそうだった。

 まさか、黒層の深部にこんな水場があるとは思わなかった。


 エデルが呆然と瀑布を見上げると、なんだかくらくらしてきた気がした。

 瀑布の始まりが見えない。それくらい上空から水が流れ落ちて来ているのに、それでもまだそこは地下なのだ。気の遠くなるような距離を下ってきたのだ、と漠然と理解した。


「さて、ここらでちょっと休憩して飯にするか」

「そうだな。あまり悠長にはしていられないが」


 ナイジャーがぐっと伸びをして、ルーシャスもそれに同意した。

 もう数時間は歩いただろうか。黒層の上層部と違い、ここでは途中で休憩しようにも立ち止まるわけにはいかなかった。ぼんやりと立ち止まったが最後、誰かしらに絡まれる危険性があったのである。だから一気に黙々と歩き続けていたのだが、さすがに疲労感を覚えていた。


「エディも疲れただろう。ずっと歩かせっぱなしですまなかったな」

「ううん、大丈夫だよ」


 立ち止まらない代わりに、ふたりとも慎重に歩くペースを落としてくれた。本当はもっと足早に立ち去っていれば、あんなに声を掛けられることもなかったはずである。けれどもエデルがついてこられるペースで、なおかつ数時間歩き通すとなると、あちこちから絡まれまくるような速度でやっとだったのだ。

 ずいぶんと気を遣われていたことはわかっていたから、エデルも疲れたとは口にしなかった。実際、そこまで疲弊したわけでもないし、まだ行けると思っていたくらいだったのだ。


 この滝壺に来ると、もうさすがに人の気配もなかった。悠長にピクニックをするような雰囲気でもなかったが、ここでなら軽く腰を降ろして休憩しても良いということで、エデルは手早く持ってきた軽食を口に突っ込んだ。

 ミューリアが入れてくれたユミ茶は昨日のうちに飲み干してしまったが、今朝出発した宿の近くで新しいユミ茶を手に入れた。それも一息に飲み干して、ようやくひと心地ついてからエデルは口を開いたのだった。


「それで、バガスの街ってここからどうやって行くの? あっちに渡る?」


 エデルが視線で指したのは対岸だ。大瀑布は反対の岸を覆うように隠している。あちらに道があるのだろうと思って尋ねたのだが、ルーシャスは首を振った。


「バガスはこの下だ」

「うん?」


 思わぬ答えが返ってきて、エデルは首をかしげる。

 ルーシャスはもう一度繰り返した。


「この湖を通り抜けた先にバガスの街がある」

「湖を?」


 通り抜けた先、とは。


「渡る……の?」


 いまいち想像がつかなくて、また同じような質問を重ねてしまう。

 岸辺をぐるっと巡って反対側に向かうのも、湖を通って対岸へ向かうのも、目的地は同じように思えるのだが。

 しかしルーシャスは少し迷ったような顔で「どう説明したものか」とつぶやいた。


「潜るんだ。湖の底を通り抜けた先にバガスの街がある、と言えば良いだろうか」

「潜る……? この湖を?」

「あ!!」


 大声を出したのはナイジャーだった。

 一体何事かとエデルが飛び上がって隣を見やると、薄青の竜の目がしまったと言わんばかりに見開かれている。


「おい、やべえぞ。潜水魔法、どうするよ」

「――しまった」


 ルーシャスも金の目を瞠り、それから口元を覆った。


「え、なに?」


 なにかトラブルが発生したようだとはわかったが、一体なにがどういうことなのか。

 ふたりを見比べると、心なしか青ざめた顔をしたルーシャスが戸惑ったように口を開いた。


「言葉通り、湖を潜るんだ。だが、潜るには潜水魔法が必要なんだ。潜水魔法というのは、身体に魔術式を付与した魔粒子(まりゅうし)をまとわせ、一時的に水中でも水に触れず呼吸が可能になる魔法なんだが……」

「エディには、補助魔法の類は効かねえんだよなあって気づいちゃったわけ」

「あ……」


 エデルナイジャーたちに補助魔法を施してもらうことさえ一工夫が必要なエデルには、この水の中を潜れないということである。それではバガスの街へ行けない。

 ようやく事情が飲み込めて、エデルはさっと顔を青ざめさせた。


「で、でもほら、幻影魔法は何とかできたんだし……」

「魔術式が複雑になってくると、接触だけでは付与が難しい。それに幻影魔法と違って途中で消失するわけには行かないんだ。死ぬぞ」

「…………」

「どうする? 接触で無理なら、魔粒子を一度エディの魔粒子の形に再構築しなきゃなんねえけど」

「どう違うの?」


 エデルは今まで、ルーシャスたちに補助魔法を施してもらうときには黒層流の挨拶である〝額にキス〟で通してきた。これも、そうすればエデルの場合は効果が薄くはなるが、補助魔法施せないわけではない、と認識している。

 尋ねると、ナイジャーがちょっと難しい顔をしながら腕を組んだ。


「ええとな、いつも俺がエディに施してる魔法は、表面を変えてるだけなんだ。服を着替えたり、仮面を被ってるようなもんだな。これは表面だから、簡単だけど剥がれやすい。イメージできるか?」

「うん。なんとなく」

「で、だ。これからやりたい潜水魔法っていうのは、表面上を変えたってどうにもならないんだ。身体の表層に膜を作るほうはともかく、水中で呼吸できるようにしなきゃなんないからな。服を着替えても無理だろ」

「……じゃあ、ふつうはどう変えるの?」

「そうだなあ。イメージとしては、肺に直接空気のストックを貯蔵する感じかな。あらかじめ必要な分の空気をそこに溜めて、肺にくっつけるんだ。人の臓器に細工を施す魔法だから、表面に魔法を施しても意味がない」

「ああ、そっか……」


 だとしたら、エデルはどうここを潜れば良いのだろうか。

 ここへ来て、まさかエデルに補助魔法が使えないからバガスへ行けない、なんてことになったら困る。

 どうすれば良いのかとない知恵で必死に考えていると、ずっと悩んであらぬほうを見つめていたルーシャスが覚悟を決めたようにエデルを見た。


「俺がなんとかしてみよう」


 唐突にそんなことを言うものだから、ナイジャーが怪訝そうな顔で首をかしげた。


「なんとかってどうするんだ――」


 エデルには、不意にルーシャスがエデルのおとがいに触れ、顔を上げさせられた――と感じていた。それしかわからなかったのだ。

 気づいたときには、唇にやわらかいものが触れていた。


「んん――!?」


 驚いて唇が緩んだ、その隙間に生暖かいものがねじ込まれる。驚いて身を引こうにも、ルーシャスの大きな手が後頭部を押さえて敵わない。

 口の中に舌をねじ込まれ、ねぶられるように舌を誘い出される。一体なにがどうなって、今、自分は、なにをさせられているのか。


 ――それより、もう息が続かない。


 そう思った瞬間。

 ぱっと離されたそこに銀の糸が引き、ゆっくりと離れていく金の双眸を見た。

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