69.バガスの街へ向かう
バガスの闇市は大穴を一直線に下降した最下層にあるとは聞いていたものの、そう単純にたどり着ける場所ではないのだと、道中エデルは説明を受けた。
「だからまず、飛空車で降りられるところまで降りるんだな」
「へえ。そこからは?」
「徒歩」
「徒歩……」
「バガスの近くになると道が狭い。馬車もあまりないんだ。どのみち下降までに時間がかかるし、バガスの闇市は夜に入るところじゃないからな。手前の街で一泊して、朝に入る。入ったらまず宿を取って、夜に戻る場所を作っておかなきゃならん」
夜はとにかく出歩いてはいけないのだ、とルーシャスは言った。
「夜といっても、便宜上〝夜〟と称しているだけで、実際には危ない時間帯があるというだけなんだがな」
黒層に昼夜はない上、下層になればなるほど概念さえ薄れていく。下層になればなるほど緑層は遠くなり、緑層より上層に行った経験がない人の割合が増えるからだ。昼夜のある生活を知らない人が大多数の場所では、その概念さえなくなる。単純にそういうことだった。
だが、そんな黒層の最下層でも、人々は活動的な時間帯と休息する時間帯とに分けて暮らしている。その後者に当たるのが、概念的な〝夜〟だった。
バガスの闇市にも〝夜〟にあたる、人気の少なくなる時間帯が存在する。しかし得てして人が少なくなると、そこには人目から隠さなければならないものを持ち込んで商売する人が出てくるのだ。それが、危険な時間帯ということになる。
ナイジャーもうなずいておどけたように肩をすくめた。
「俺たちはまだしも、エディは絶対にやめておいたほうが良いな。そのまま売り物になるぜ」
「え……」
さっと血の気が下がる。
売り物にされる、とは。
二の句が継げずにいると、ルーシャスがナイジャーを窘めた。
「あまり脅かすな」
「不必要に脅かしたわけじゃないだろ。可能性のあることはちゃんと知っておいたほうが良い。自分の身を守るためにもな。――雑踏の中であっさり抱えて連れて行かれて、そのままエディが売り物として出される側になる可能性だって十分あるだろ。そういうのを避けるためにもバガスの街をうろつく時間帯は選びたいし、エディにも正しく街を恐れていてほしいんだ」
「う、うん」
「だけど時間帯さえ間違えなきゃ大丈夫だからな」
にっと歯を見せてナイジャーは笑うが、とても安心できる話ではない。
ルーシャスも息をついて言った。
「俺たちのそばを離れるな、とは何度も言ってきたが、あの街では真横にいても誘拐される可能性はある。目の届くところにいろ、と言ったら、そばにいるだけでなく、文字通り視界の範囲内にいてくれ」
「俺たちの同行者だと思わせておくのが一番安全ってことだな」
そんなに危険なところなのか、と覚悟に身を固くしたが、その日のうちにはバガスの街には着かなかった。
手前の街で一泊すると言っていたのだから当然である。
この日のほとんどは飛空車で下降するだけで、途中、運んでくれるアブトたちを休憩させるためにも一旦降りて街に立ち寄った。そうして何度か飛空車を乗り換えはしたものの、基本的にはずっと座っていた。
いい加減お尻が痛くなった頃にふたたび休憩のために飛空車を降り、今日はもう乗らないと言われたときは、逆にほっとしたものだった。
「ずっと座ってたからお尻が痛いや」
「だよなー。俺なんかもう体中バキバキ」
飛空車の籠から出てきたナイジャーがぐっと伸びをする。
彼は身体が大きいから、座るだけでなく全身を縮こませていた。余計に疲れただろう。
ルーシャスが支払いを終えて、もう慣れ親しんだ黒層の街に入る。
街の雰囲気や形はそれぞれだが、壁くっつけただけに見える店の扉や、等間隔に配置された外灯、上空を飛び回る光球虫の姿もだいぶ見慣れたものだ。
しかしどことなく街は寂れていて、バガスの街の危険さを説かれるより前に、その手前の街の不穏さがひしひしと伝わってきた。
「……もしかして、このあたりもあんまり治安が良くない?」
「お、よくわかったな。バガスは一種の貧困街だからな。そこをつなぐここもまあ、こんなもんよ」
飛空車を降りた段階からそこかしこにゴミが散乱し、あるいは積み上げられていた。道は一応、人が通ることを想定して作られている感はあったものの、曲がりくねって狭く、あちこちに死角がある。
それは街中に入っても同じだった。
人はそれなりにいる。今がまだ〝夕方〟にあたる時間帯だからだとルーシャスは教えてくれたが、それでも地元の子供らはみんな大人と一緒に歩いている。それなりに大きな、エデルといくらも年が変わらないように見える少年も、母親の手をしっかりと握っていた。
並んで歩き始めると、エデルは必ずルーシャスとナイジャーの間、つまり端にならないよう歩けと指示される。おまけにエデルまでしっかりと手までつながれて、まるで子どもと同じ扱いだった。だが、それに文句を言う気にもなれない。ここではそうしなければならないのだろう、と思わせる何かがあった。
取った宿はその街で最上の、四階建てでバルコニーまでついた高級宿である。しかしそれでも、ミューリアの〝深淵の館〟のほうがもっとずっと広く清潔で高級そうだった、と言える程度には、薄暗く寂れた宿だった。
「悪いが、今日からしばらく風呂は使えないと思ってくれ」
「えっ」
部屋に入った途端、ルーシャスからそう告げられて、エデルは思わず大きな声を出してしまった。
黒層に来てから何が一番楽しみかと言われたら、大浴場の大きな浴槽でゆっくりと湯に浸かることだった。今日は飛空車に揺られていただけとはいえ、一日中ずっと移動してきたから、きっと風呂で疲れを取るには最高に気持ちの良いものになると思ったのに。
唖然としていると、ルーシャスは「先に言ってなくてすまなかった」と申し訳無さそうに眉を下げたのだった。
「宿は選んだが、それでもさすがにひとりにはできないんだ。風呂場で何があるかもわからん。だから風呂には行かないでほしいんだ」
「ええ……」
「素っ裸で誘拐されるかもしれないぜ」
ぼそっとナイジャーに脅されて、エデルはぶんぶんと首を振った。
「それは嫌」
「だろう? だから我慢してくれな」
「代わりに部屋に湯を運ばせるから、それを使ってくれ」
大きなたらいに湯を張り、そこで身体や髪を洗うことならできるという。
緑層で一般的な宿屋の湯浴みと同じやり方だった。
「あ、なんだ。身体も拭けないってわけじゃないんだ」
湯船に浸かれないのは残念だが、身を清めることができるのなら我慢というほどでもない。
ほっと胸をなでおろすと、ナイジャーは腕を組んで言った。
「そりゃあまあ、部屋の中でもひとりにするのはちょっと怖いんだぜ」
ルーシャスも続いて、部屋の隅に置かれた衝立を指さした。
「だからその衝立を置いて使ってくれ」
「えっ……」
蔓性植物が編み込まれた衝立は、ところどころほつれて穴が空いている。確かに使えないほどの大穴ではないものの、あれを挟んで、同じ部屋の中で全裸になって湯浴みしろと……?
エデルは顔を赤くしたり青くしたり忙しくしながら、しかし他に道はないと悟って、静かにうなずいたのだった。




