64.魔力を放出することと魔法を使うことは異なる力
――一睡もできなかった。
翌日になって、エデルは呆然としていた。
黒層には太陽がない。従って太陽が昇るということもなく、だからきっちり時間を管理しないとあっという間に生活リズムが乱れてしまのだ。
〝深淵の館〟では各部屋に目覚まし時計があって、それが起床の指標となる。
しかしこの日、エデルはその目覚まし時計が起床時間を知らせるまで、ついに一睡もすることなく夜を明かしたのだった。
目覚めたルーシャスには隠したが、正直、ゆるい眠気にぼんやりとした頭の中にひたすら〝忘却罪〟の言葉がぐるぐると回っている。
この獣魔の違法売買に関わった人間すべてが忘却罪に処されてしまうのか。その場合、エデルはどうやって捕まって、どんなふうに裁かれて、いつその刑を執行されてしまうのか。
そんな、まだ決まったわけでもない想像ばかりが繰り返されて、悪夢を見ているのか、自分の嫌な想像なのか、もはや区別がつかなくなりかけていた。
明日の朝にはここを発つというのに、とんだ問題が降り掛かったものだ。
エデルはその日、何度目になるかわからないため息をそっとついたつもりだった。
「どうしたの? エディ。なんだか今日は元気ないわね」
「ヘデラさん」
見られていた。しまったな、と思ったが、ヘデラは茶色の瞳に純粋な心配の色を浮かべてエデルの隣に座った。
「せっかくルーシャスが来てくれたのに。もしかして、うまく行ってない?」
「いやあ、そういうわけでは……」
ルーシャスを好きだとか自覚したこと自体、実はちょっと忘れかけていた、とはさすがに言えない。しかももっと深刻な問題が発生してそれどころではない、とも。
もごもごと言い淀んでいると、ヘデラは図星であると思い込んだらしい。心配そうに覗き込んで、「あまり深刻にならないでね」と励ますように笑った。
「あなたたち、相性は悪くないのよ。でもね、なにもしなくても結ばれるわけじゃないの。ちゃんとするべきことはしないと」
占者としての顔を覗かせたヘデラがくるりと瞬いた。
「……というと?」
「あなたには、ルーシャスに打ち明けていない大事なことがあるでしょう」
「――――」
頭の中がしんと静まり返った。図星を突かれて、口の中が干上がっていく。
なにか、言わないと。そうではないのだと否定しないと、怪しまれてしまう。
忙しなく言い訳を考えるのに、思考の表層で空回りするばかりだった。
しかしヘデラはエデルの焦燥には気づかない様子で、穏やかに背を撫でて言ったのだ。
「でもきっと、すぐに素直に打ち明けられることじゃないのよね。あなたが言いたくなくて黙っているわけではないって、それもちゃんとわかってる。いつか必ず思い出せるものよ。だから今はうまくいかなくても心配しないで」
エデルは親身になって励ましてくれるヘデラの言葉の半分も理解できていなかった。やさしい声が耳を素通りして、どうしよう、と繰り返し脳裏に浮かぶばかりだ。
「元気になれる魔法を教えてあげる」
「え?」
話を聞いていなかった。
顔を上げると、ヘデラはエデルの前に積まれたいつもの〝おやつ〟の果物をひとつ、エデルに持たせた。
「エデルみたいに杖を持っていない人でもできる簡単な魔法よ。小さな子に教えると喜ぶんだけど、使いすぎて魔力切れを起こしたりするから無闇に人に教えないでね」
「え? あの……」
エデルが戸惑う間もなく、ヘデラは自身も籠からひとついちごを手に取り、両手で包んでから短い呪文を口にした。
「食べてみて」
「ありがとう……ございます」
言われるまま口にすると、いちごの甘酸っぱい香りが鼻に抜けていく。じゅわ、と甘い果実が口の中でつぶれて、味わったことのないほどの濃い甘さが唾液腺を刺激した。
「んーっ」
「うふふ。おいしいでしょう?」
確かにおいしい。でも味が濃くて、唾液腺がぎゅうと搾り取られるように痛んだ。
「果物がおいしく食べられる魔法なの。付与できる効果は一口分。だからぜんぶの果物に魔法をかけて食べてたらあっという間に魔力切れを起こしちゃうからね」
最後の一粒をおいしく食べたいってときに使うのよ、と彼女は笑って、また呪文を口にする。
「呪文に魔術式が確立されてるものだから、唱えて魔力を込めるだけで簡単にできるものなのよ」
だからあなたにもできるわ、といちごを一粒持たされたが、エデルは困惑した。
エデルは魔法を使えないことになっている。まったく魔力がないからと申告するのも、それはそれで疑問を持たれるから、ごく少ない魔力しかないと伝えてあるのだ。
エデルの魔力量の真実を知るのはルーシャスとナイジャー、それからミューリアだけである。
ヘデラが「魔力の少ないエデルにもできる簡単な魔法」と紹介してくれるのは当然だったが、そもそもエデルは魔力の放出はできても魔法を使ったことはほとんどない。
魔力はあるのだから使えないわけではないのだが、それをするにはいくつもの障害がある。だが、今それをここで説明するわけにはいかなかった。
「やってみて」
ヘデラは善意でエデルに魔法を使ってみてと言っているのだ。
断れるわけがない。
エデルは迷った。
――簡単な魔法だというし、呪文を唱えて魔力を放出するだけなら、なんとか……。
できるだろうと思って、ヘデラの言葉通り呪文を真似て、魔力を放出する。できる限り放出量を抑えて、魔鉱石に魔力を溜めるのと同じくらい、細心の注意を払った。
最近はヘデラの練習に付き合って、日常的に緑魔鉱石に魔力を溜めていたから、少しは加減もうまくなっただろうと過信していた。
「――エディ!」
「へ?」
突然、眼前が赤く染まる。一体何が起こったのか、エデルにはまったく把握できていなかった。
ごつ、と後頭部に衝撃を感じた。衝撃だけで、痛みはない。
にわかに椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったヘデラが焦って何かを叫んでいる。なのにまったく聞こえない。どうしたのだろう、とぼんやりと考えてから、周囲がうるさくて何も聞こえないのだと悟った。
――耳鳴りだ。
気づいた途端、ヘデラの背後に見えるのが、つい一瞬前まで見ていた食堂ではなく、食堂の天井であることも悟った。なぜ、と思ったときにはぐるんと天井が回る。
ぼんやりと視界が霞んで、ヘデラの泣きそうな顔でさえ見えなくなっていく。大丈夫だと声をかけようとした口は自分の意思に反してまるで動かず、エデルはそのまま意識を失ったのだった。




