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60.恋は人を愚かにする

 誰もがルーシャスの帰還が遅くなった理由を聞きたかったが、その日はひとまず、温かい風呂と食事をとらせ、休養を優先させることにした。

 誰がどう見ても彼はやつれていた。怪我をしていないことはナイジャーがあらためていたので確かなようだったが、あの倉庫での騒動からまともに休めていないというのは本当だったらしい。

 本人は休息より情報共有を優先したがったが、ナイジャーが問答無用で寝台に放り込んだ。それから自身は部屋から出て、誰にも扉の前には近寄るなと言ったのである。エデルにもだ。


「弱ってるときのあいつはおっかないからな」


 と冗談めかしていたが、部屋に戻ってから、ナイジャーはずっとだんまりだったエデルに温かいユミ茶を持ってきてくれたのだった。


「落ち着いたか?」

「うん……」

「てっきり感動して泣いちゃったのかと思ったぜ」

「泣いてないよ」


 泣いてなんかいない。泣くのはなによりもいけないことだ。

 エデルが思ったより強く否定したことに驚いたのだろう。ナイジャーは軽く目を瞠ったが、しかし何も口しなかった。エデルが自身の態度を言い訳しようと顔を上げたときには、彼はもう、やさしく凪いだ目でこちらを見つめていたのである。


「…………」


 弁明のタイミングを見失って、エデルは開きかけた口を閉じる。これはたぶん、ナイジャーに気を遣われた、とわかった。

 自分の幼稚な態度に恥ずかしくなって、そっと目をそらす。それから、ほかになにか言い訳をして謝ることはないだろうかと考えた。


「ルースには……その、驚かせちゃったけど。無事で良かったって思ったらさ……」

「うん」

「言いたいことがいろいろあったの。だけど、何から言って良いのかわからなくなっちゃったっていうか……」


 エデルは気づいてしまった。

 ナイジャーではなく、ルーシャスにしか抱かない、己の感情に。 

 なぜそんな感情を抱いたのか、理由なんてわからない。けれど、確実にあるのだ。


 ほんの数時間前のことだった。眠る直前、ナイジャーと話をしていたさなかに気付いたのである。だからエデルは考えた。――もしもルーシャスとまた会えたとき、自分はこれから、彼とどういうふうに接して行ったら良いのだろうか、と。

 けれども、実際にそのときが来て思い知った。自分はなんて浅ましい、自己中心的な妄想を抱いていたのかと。


 ようやく再会できたルーシャスは、エデルが想像していたよりずっと疲れていた。疲弊してやつれ、あの眩しささえ思わせた太陽のような金の目がかすんで落ちくぼんでいた。ナイジャーよりも厚みのある立派な体躯は心なしかしぼみ、紫の豊かな髪には艶もなくなっていた。

 それなのに、彼はエデルを見つけた瞬間、初春のやわらかな太陽の光のように金の双眸をゆるませて、こちらを気遣うように「元気だったか」と聞いたのである。


 ――バカだ、と思った。

 ほかでもない、自分が。ルーシャスに会ったらどんな態度を取れば良いんだろうなんて変な期待をして、彼がどれだけ大変な思いをしてここまでたどり着いたのか、そんなことには想像も及んでいなかった。

 これが恋なのだろうかと浮かれて、ありもしない未来を想像して悩んで、本当に愚かだった。


 そういう、自分の浅ましさに呆れ、けれどもふたたび会えたことへの嬉しさもあって、だから本当に、なんと口にして良いのかわからなくなってしまったのだ。それで、衝動的に抱きついて黙ったままなんて幼稚なことを仕出かした。


「ルースのほうが疲れてのに、気を遣わせちゃった」


 あとで謝りたい。 

 そうぽつりともらせば、ナイジャーはひとつ息を吐いてエデルの頭をぐりぐりと撫でやった。


「変に気を遣うもんじゃあねえよ。また会えて嬉しかった。そうだろ?」

「うん……」


 会えて良かった。嬉しかった。それは紛うことなき本音だ。けれど。

 さらに考え込みそうになったエデルの頭頂部が、ずむんと沈む。

 何かと顔を上げたら、ナイジャーが呆れたような顔をしていた。


「嬉しかったならそれでいいじゃねえの。ルースも元気そうで良かったって言ってたろ。それがすべてだ。変に相手の本音を勘繰って勝手に落ち込むな」

「……うん」

「あいつが起きたらちゃんと気持ちを言ってあげなよ。会えて良かったって。きっと喜ぶぜ」

「そうする」

「ん」


 予想外の時間に起こされたのだからもう一度寝直したらどうだ、とナイジャーに勧められたが、これ以上眠れそうになかった。考えても埒の明かない思考がぐるぐると巡り続ける。それよりは、起きてなにかやるべきことをやっているほうが気晴らしにもなったのだが、それもまだ時間には早い。


 早朝を迎え、〝深淵の館〟は営業終了となり、ここで暮らす女性たちはみんな眠りについてしまった。その中で活動して睡眠の邪魔をするのも良くないだろうと思ったのだ。


 仕方なく横になってゴロゴロするか、白蛇と戯れていたら、ふたたびナイジャーが口を開いたのだった。


「あいつはさ、ああ見えて結構繊細なんだよな」

「それは一緒に過ごしてればわかるよ」


 弁明するような言葉に、エデルは一瞬彼の言葉の意図を考え、それから付け加えた。


「だから大丈夫。気にしてないよ」


 おそらく、ルーシャスと同じ部屋ではなかったこと――彼が仮眠を取るために与えられた部屋に近づくなとエデルにも注意したことに対して、なにか言いたいことがあるのだろう。そう思って笑みを作れば、ナイジャーはちょっと罰が悪そうな顔をした。どうやら図星だったらしい。


「そうか?」

「ほら、ギレニアオオムカデも苦手だしね」

「あれは繊細って問題じゃねぇって怒られそうだな」


 黒層(こくそう)緑層(りょくそう)の一部地域出身でなければ誰もが苦手に思う食べ物だ。

 ナイジャーは笑みこぼしてから続けた。


「――あんまり良い環境で育ってないんだ、あいつも」

「……そう、なの?」


 意外だった。彼はエデルやナイジャーと違い、それなりの出自のように思えたからだ。

 ギレニアオオムカデが苦手だったことが理由ではない。あれは単純に地域性の問題で、貧富の差は関係がない。けれどもそれ以外のあらゆるところで、エデルはルーシャスの育ちの良さを肌身で感じていたのだ。


「てっきり、青層(せいそう)かどこかの裕福なお家か、名のある貴族の出身かと思ってた」

「へえ。どういうとこが?」


 ナイジャーが驚いたように竜の目を瞠る。

 どこが、と聞かれると具体的に言葉で表すのは難しかったが、エデルは眉根を寄せてこれまでのルーシャスの仕草を思い出していた。


「ええと……なんだろう、雰囲気でそう思っただけだけど……。――ああ、カトラリーの使い方とかきれいだなって思ったよ」

「ああ、それは確かにあるな。俺がどエラい使い方してたのを直してくれたのもルースだしな」

「そうなんだ?」

「なんせ、俺がそれまでまともに食ったことあるのはユミの木の根くらいだったからなあ。木の根っこを食うのにナイフとフォークは使わねえだろ。使い方どころか、カトラリーが何に使うものかもわかってなかったんだよな」

「ああ。――……」


 不意に、脳裏に声が蘇る。


 ――エディ、スプーンをちゃんと使え。ちがう、正しく持つんだ。


 堅苦しい口調の、けれども少年の声だった。養父のものではない。おそらく、エデルが忘れたいつかの記憶だった。


 エデルにカトラリーの使い方を教えてくれたのは養父のはずだ。エデルもナイジャーと同様、幼少期はそれらを使う機会にさえ恵まれなかったから、ある程度大きくなってから苦労して覚えた。

 何度も養父に直されて、急いで食べなければ命に関わる食事を前に食べにくい思いをして、そのたびに癇癪を起こしたものだ。養父はそのことでエデルを叱ったことは一度もなかったけれど、だからといってエデルの食べやすいやり方では許してくれなかった。何度も根気強く教えられて、エデルが折れるまで直されたのである。


 もう急いで食べなくても誰もエディの食事を奪ったりしないから、ゆっくり食べなさい。そう、何度も諭された。

 ――養父との思い出であるはずなのに。どうしてか、今、別の記憶が挟まったような気がしてならなかった。


「エディ?」

「うん?」

「どうした?」

「なんか……思い出したようなことがあったんだけど、そうじゃなかったような」

「ええ?」


 今、何を思い出そうとしていたのか。霧散してしまった記憶の欠片をウンウンと悩みながら引っ張り戻そうとしたものの、一度消えてしまったものはなかなか戻らなかった。

 エデルは記憶を呼び戻すことを諦めて、「それで」と続けた。


「だからルースは良いところの生まれの人だと思ったんだけど、違うの?」

「いいや、違わないぜ。だけど、出自が良いことと環境が良かったことはイコールじゃない」

「…………」


 確かにそうだ。貴族やお金持ちの商家に生まれても、それが必ずしも幸せになれる道だとは限らない。

 ルーシャスがそうだったというのだろうか。


 エデルがナイジャーを見やると、彼は少し困ったような笑みを浮かべた。


「本人が話したわけじゃないのに、俺が勝手にあいつの過去を喋るのはマナー違反だと思うから簡単にしか言えないけどさ。気を抜いたら殺される、みたいな場所で育ったんだよ。あいつも。だから無防備に眠っている間は誰も近づけたがらない。身に染み付いちまってるんだよな。普段はもう気にしないんだけど、弱ってるときは特にさ。誰かの気配があると眠れないんだ。ゆっくり休ませるにはひとりにしてやるしかないから、エディもルースが起きるまでは待ってやってくれな」


 そんだけ、と締めくくったナイジャーに、エデルは少々拍子抜けした気持ちだった。

 その程度のことで気を悪くしたりしないのに。


 エデルは息をついて肩の力を抜いた。


「もちろんそうするよ。大変な思いをしてやっとここにたどり着いたんだから。呑気に待ってるだけで悪かったなって思ってたくらいで……」

「なんだ、そんなこと気にしてたのか?」


 ナイジャーが竜の目を瞬いて、それからなだめるように太い眉が下がった。


「エディが気にすることじゃねえって言っても気にしちまうんだろうが……。傭兵稼業なんてやってるとこんなことはザラにあるんだ。あいつはあいつの仕事をしてきただけだから、エディがここでじっと待ってたことを気に病む必要はない。というより、エディがここでゆっくり過ごせてたならあいつの仕事は報われたってことだ。あとで元気な顔を見せてやんな」


 そう言ってもらえると、すこしばかり、ルーシャスに再会した瞬間の愚かな自分も救われた気がする。


 エデルはほっとしてうなずいたのだった。

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