59.ルーシャスの帰還
明け方、館は騒然とした。来客があったらしい。
エデルはすっかり寝入っている時間帯だったので、ナイジャーに叩き起こされて訳もわからないまま身支度だけをさせられた。とにかく逃げる準備だけしとけ、と言いながら彼は来客を出迎えに行ってしまったから、エデルは着替えだけを済ませて部屋で待っているだけだ。
たぶん、エデルを狙って来た人なのかもしれない、という噂だけは耳にした。部屋の前を行き来しながらときどき様子を見に来てくれた従業員が教えてくれたのだ。
館の女性たちはみんなある程度の補助魔法は使えるが、戦えるほどではない。今、この館で一番頼りになるのはナイジャーだけだ。その彼も、怪しい客が来たからと問答無用で追い返す人ではないから、正体を確かめるために行ってしまったのだろう。
ひとりで待たされながら、エデルは緑層で初めて彼らに出会ったときのことを思い返す。
あのとき、エデルたちが話し込んでいた野営の場所にやってきた侵入者たちがいた。そのときも、ナイジャーはまず穏便に話し合いで解決するならと自ら彼らと対話しに行ったのだ。そういう余裕のある人だから、今回も同じように、まずは話し合いで解決できるならと応対しているのだろう。
けれどその間まんじりともせず待たされるのは、どうにも不安が募っていけなかった。
――こんなとき、ルーシャスがいてくれたら。
ぽつんと考えるが、今はないものを求めても仕方がない。この先、逃げろと言われたらそうしなければならない。どこへ行っていいのかもわからず、不安を抱えたまま、またひとりにされてしまうのかもしれない。
――少し前までは、ひとりで生きていくんだなんて覚悟を決めていたのに。
エデルはほんの少し自嘲する。
自分がなんだか弱くなっているような気がしてならない。
ルーシャスは無事で、ちゃんとここへ来るとミューリアは占ってくれたが、彼とまた会えたそのときも、エデルはまっすぐに立っていられるだろうか――と、暗い気持ちで考えていた。
*
「こんばんは、お兄さん。悪いけど魔力はちょいと封じさせてもらったぜ。ここはただの占い屋だからさ。そう武装されてるとみんな怯えちゃうの」
「いや――その、すまん。驚かすつもりはなかったんだが」
閉店間際にやってきたその客に、ナイジャーは首をかしげながらも笑みを崩さなかった。
――変な客が来た。エデルを探してる人かも。いきなりやってきて、まずナイジャーがいるかどうか聞くんだもの。
そう従業員に起こされてナイジャーが駆けつけたのだが、どうにもこの怪しい客の素性がわからなかった。
こちらを攻撃する意思はなさそうだが、油断させるためのブラフという可能性もある。魔力を封じたからといって警戒を解くわけにはいかなかった。
男はみすぼらしい身なりをしていた。
ほとんど白髪だらけの箒のような頭をしていて、口周りの髭も同様だ。髪に覆われて目元は判然としないが、落ちくぼんだ黒い目をしている。年の頃は初老。衣服はほとんど襤褸のようだった。
占いの館では、ときどきこういう明らかに接客されに来るには向いていない客もやってくる。そういう人は丁重にお断りして追い返すのだが、彼は占いではなくまずナイジャーの名を出したのだという。
まず間違いなく、占い目当ての客ではなかった。
魔力を封じられた男は両手を軽く上げ、攻撃の意思はないと示している。だがそれにしては、あまりにも堂々としすぎていた。不利な状況への困惑はあるが、怯えや焦りは一切ない。それが余計に怪しいのだ。
「それで、誰を探してるんだっけ?」
ナイジャーが至極穏やかに尋ねると、男は慎重に口を開いた。
「ナイジャー・グランゼル。――おまえだよ」
「うん?」
ナイジャーはぱちくりと瞬いた。
名前だけを知っていて訪ねてきたのかと思ったが、どうやら顔も知っているらしい。それに、滅多に名乗らない姓まで知っている人物となると、かなり限られてくる。
そして何より、こちらを見つめる黒い瞳。
色こそ違えど、その温かさに覚えはなかっただろうか。
「早く幻影魔法を解いてくれ。おまえに封じられて正体を明かすこともできないんだ」
「――おっまえ」
そこからはもう、ほとんど反射だった。
ナイジャーは男に向けていた杖で彼の顔をひっかくようにする。すると、男にまとわりついていた魔粒子が解け、男の本性があらわになったのだ。
豊かな紫の髪と、こちらを焼き尽くすような金の瞳。目鼻立ちの整った、華やかな顔立ち。――今はだいぶやつれて見えるが、その顔を見間違えるはずがない。自らが相棒に選んだ男だ。
「おまえ、ルースか!」
「――ようやく気づいてくれて助かった。いつおまえと剣を交える羽目になるのかとひやひやしたぞ」
ようやく肩の力を抜いたルーシャスが盛大に息をつく。そうすると、大きな彼の身体がやたらとしぼんでしまったような気がした。だが、ナイジャーはそれを心配するどころじゃない。
「おまえおまえおまえー! 幻影魔法できたのかよ! うっかり騙されたじゃねぇか!」
わははと笑いながら、ナイジャーはすっかり警戒を解いてルーシャスの肩に腕を回す。安否は疑っていなかったが、それでも落ち合うまでにだいぶ時間がかかった。面倒事に巻き込まれたのではないかと心配していたのだ。
安堵と嬉しさで、ルーシャスの太い首を締め上げるようにきつく抱きしめる。ぐう、と唸ったルーシャスがナイジャーの背を叩いた。
「できないわけじゃない。下手なだけだ」
「だけど一瞬じゃ見抜けなかったぜ。ミューリア姉さんでさえ一瞬とはいえ騙されたもんな。じゃなきゃ警戒して俺が呼ばれるわけがない」
「まあ、多少は繰り返してうまくなったってことだろうな」
ここにたどり着くまで、さんざん自身の顔を隠して誤魔化して逃げ回ったのだ、とため息交じりにルーシャスは言った。
「それでそんなボロボロなのかよ。マジで何があった?」
「だいぶ厄介だった。撒くのに時間がかかってなあ……。だがその前に休ませてくれ。あれからまともな場所で眠れていないんだ」
「そりゃもちろん。――そういうわけだ。湯と部屋を用意してもらえるか」
「ええ、もちろん」
ナイジャー以外誰もいなかった一階の食堂部分に、いつの間にか大勢の従業員の姿が見えるようになった。みんなひっそりと隠れて様子を窺っていたのである。
その中から、黒髪の長い髪の女が進み出て、ルーシャスに申し訳無さそうな顔を見せた。
「ごめんなさいね。ナイとエディのことがあってから私たちみんな神経質になりすぎていて」
「いいや、そのくらいの心持ちで守ってもらえてたのなら良かった。こんな時間に突然押しかけてすまない。エデルは無事か?」
「ああ、そうだ。あなたがどういう行動に出るかばかり気にしすぎてエディのこと忘れてたわ。誰か、呼んであげてくれる?」
ミューリアが背後に隠れた従業員たちに向かって声をかける。それを合図に、館の気配が一斉に動き始めた。
「いや、休んでるなら無理に起こさなくて良い。朝になったら話ができればそれで良いんだ」
動き始めた従業員たちを止めようとルーシャスは首を振ったが、奥のほうから「あの」と声がかかった。
従業員のうちのひとりだ。ルーシャスとナイジャー、ミューリアの三人ともが顔を向けると、戸惑ったような女がちらと隣に目をやった。
「ここに……」
奥へとつながる扉の隙間から、じっとこちらを見ている碧い目がある。少しばかり傾いたそこから癖のある銀の髪がさらりとこぼれ落ちた。
最後に見たときは、肩につくかどうかの長さだっただろうか。
あれよりも少し伸びた気がする。――否、気のせいだろうか。離れていたとはいえ、その時間はほんの二週間程度だった。
エデルがこちらをじっと見つめていた。なぜだか隠れて出てこようとしなかったが。
表情は窺い知れない。ぼうっとこちらを見極めようとしているようでもあるし、どこか不満そうにも思えた。だが、ルーシャスにはそんな些細なエデルの心の距離などどうでも良かった。
その彼女が、この館の女たちのように汚れひとつない清潔な服を着て、ふっくらと赤みの差した頬をしていることが何よりも嬉しかったのだ。
自然と笑みがこぼれた。
「遅くなってすまん。起こしたか? 元気そうで良かった」
深夜よりも明け方に近い時間帯である。深い眠りから叩き起こしただろうかと、それで茫洋と感情の読めない目をしているのだろうか、と内心で納得し、軽く声をかけるだけに留めた。
話ならこれからいくらでもできる。大事にされていたのは見ればわかるから、今は眠いのなら早く寝かせてやりたかった。
「すまないが、エデルを部屋へ戻してやってくれ。起きたら話を――」
どん、と軽い衝撃が走って、ルーシャスは口をつぐむ。
よろけるほどの力ではない。けれど、切実な、何よりも大切な重さだった。
見下ろせば、エデルがルーシャスに体当たりして、そのまましっかりと腹のあたりに張り付いていたのである。
「――どうした?」
できる限り優しく尋ねてみたが、応えはない。
「汚れてるから、あまりくっつくな。せっかくきれいな寝間着をもらったんだろう。汚れるぞ」
「――――」
これにもエデルは口を開かなかった。ただ、ルーシャスの胸のあたりを掴んだ小さな手が白くなるほどにぎゅうと強く握られた。
意地でも離さない意思が見て取れる。ルーシャスは困ったように眉を下げたが、誰かに助けを求めようとそばにいた女を見て、それからミューリア、ナイジャーへと視線を投げたが、誰からも苦笑を返されるか、生暖かく見守られるだけだった。




