46.落下、そしてまた落下
「あああああああ――!!」
人生でこんなに絶叫したことはない。声を止めようと思うのだが、自分の意思で出しているわけではないのでどうしようもなかった。
落下の速度に内臓だけが取り残されて、体から出ていってしまうのではないかとさえ思えた。今すぐ体を丸めて衝撃に備えたかったが、ルーシャスは姿勢を崩すなと言った。エデルにできることは彼の言いつけを守ることだけだ。バタつかせたい手足を最後に残った一匙の理性で押し留め、自分が背中から倉庫の最下層に叩きつけられてミンチになることを覚悟した――瞬間だ。
「おっと。きれいに落ちたな」
ぐん、と背中に圧が加わる。けれども思っていたよりずっとやわらかな感触だった。
それきり、落下は止まったのである。
思ったより近くで声がして、恐怖と絶叫で忙しなく呼吸をしながら恐る恐る目を開けた。
眼前に見知らぬ男が――否、知らないわけではない。眼窩の落ちくぼんだ、不健康そうな白髪交じりのこの男を、エデルは知っている。
「――はぁっ、はひ……あれ……? ナイ……ナイジャー……?」
「おう、ナイジャーさんだぜ。説明してる暇はないからこのまま行くぞ」
「えっ、あっ、うん」
まだ幻影魔法の解けていないナイジャーだった。彼が受け止めてくれたのだ。
横抱きにされていたエデルはあっという間に俵担ぎのようにされ、ナイジャーの背中をしっかりと掴んだ。でないと腹部が彼の肩に圧迫されて苦しい。
ナイジャーは左肩にエデルを担ぎ、右手を空けるとそこに長剣を握る。
最下層の倉庫内は既に騒然としていて、多くの人が上層階の侵入者――たった今エデルは放り出されたが――を捕まえようと上に向かっていた。
「エディは何があっても顔伏せてな。そのほうがバレないから」
「う、うん」
興味を引かれてあたりを見回していたエデルだったが、人混みに紛れて移動を始めるナイジャーに窘められて、背中に顔を伏せた。
「おい、他に上層階に行ける道は――おまえ、そいつはどうした?」
誰かがナイジャーに話しかける。ビクついてしまったエデルだったが、ここで顔を上げたらバレる。必死にぐったりと伏せたふりをした。
「ああ、この騒ぎで転んだのかぶつかったのか、ひっくり返りまして。危ないんで移動させようかと」
「役立たずめ。その辺に放っておけ。おまえも上に急げ。絶対に侵入者を逃すな」
「はいはい承知しましたー」
『侵入者の女とウィットランドーグは下に行った! 探せ!』
ちょうどそのタイミングで、ふたたびシーファの声が倉庫中に響き渡る。
「女だけが下に? ウィットランドーグも一緒らしいぞ。探せ!」
「おい、おまえ! そいつは良いから女を……。待て、首元から垂れてるやつ、何だ?」
「え?」
問われて、エデルは自分の首元からだらんとぶら下がっている白い紐を見つけた。――紐ではない。ウィットランドーグの幼獣だ。
「あ」
急に落下してナイジャーに拾われて俵担ぎにされて、と体勢が著しく変化したので、エデルの肩を掴んでいた足が外れてしまったのだろう。上着の中で必死に足がもがいているが、長い尻尾が飛び出ていたのである。
エデルは慌てて白い尾を上着の中にしまったのだが、それがまずかった。
「何だそいつ。意識がある――……女じゃないか?」
「げっ」
「――女だ!! 女がここにいるぞ!! ウィットランドーグも一緒だ!!」
「おまえ、そいつをよこせ!! ――シーファさんに伝えろ! 女と獣魔は捕らえたと!」
言われて素直に渡すやつがいるのか、と思ったが、なるほど、この男はナイジャーを自分たちの仲間と思っているのだ。だからエデルは既に自分たちの手の内に落ちたと思ったのだろうが、彼はここの職員と同じ上着を着ていても、中身はナイジャーである。
ナイジャーは思い切り舌を出した。
「嫌だね!」
「は……はぁ!?」
状況が飲み込めずに呆けた顔をさらす上官らしき男に、ナイジャーが思わず笑いながら逃げ出す。
「なんっ……どういうことだ!? 捕まえろ!! あいつごと捕まえろォ!!」
「はっはっは。俺たちまで追っかけられ始めちゃった」
「ど、どう、どうするの、ナイジャー」
「まあ、ここにいたら遅かれ早かれ落雷の餌食になるからな。早々に退散予定だったよ」
「らくらい!?」
エデルが問い返してもまともな返答はない。ここで問答をしている暇はないのだ。ナイジャーに任せるしかなかった。
そうしているうちにも彼はエデルひとりを抱えたまま、広い倉庫内から続く道のひとつに迷いなく入って行く。
後ろからはわけもわからず追いかけてくる人が増えてくる。
「止まれ」だとか、「その女を置いていけ」だとか喚いているが、言われて素直に従うような人間なら、最初から侵入しようなどとは考えない。
ナイジャーが入った通路は狭い一本道だ。広く明るかった倉庫内から一転して、等間隔にぎりぎり明るさを確保した照明魔導具が吊るされているだけで薄暗い。
天井は高く、床も限りなく平らに整備されているが、それでも吹き抜け状だった倉庫に比べると狭い。特に道幅は人が三人ほど並んで歩けるくらいしかなく、周囲に扉があるわけではないが、この先行き止まりだったら袋小路になる。
こんな道を選んで大丈夫なのだろうか、とエデルは背後のナイジャーを振り返る。
そのときだ。
「――ひっ」
轟音とともに閃光が迸った。
同時に、後ろのほうで多数の悲鳴が聞こえる。
何事かと確認しようとして、ナイジャーに止められた。
「見るな。目が潰れるぜ」
「で、でもルーシャスが」
「そのルースがやってんだ。気にすんな」
「ええ?」
声を張り上げてもほとんど聞き取れない。それくらいの轟音が続いている。バチバチと白い光が明滅し、追いかけてきた男たちは倉庫内で起こっているらしいなにかに大わらわになっている。――おそらく、倉庫内に雷が落ちている。何度も激しく、倉庫内全体を縦横無尽に稲妻が走っていたのを、視界の端に捉えた。
眩しさに目を瞑ると、明滅する影の中にまだしつこく追いかけてくる影がいくつもあるのを見た。
「さすがに出入り口は塞がってるか」
「え?」
走りながら、ナイジャーが先を見据える。
行き止まりだ。
エデルは血の気が引く思いがした。だがナイジャーは足を止める気配も見せない。
彼は走りながら右手に持つ長剣を構えると、足を緩めることなくそれを下段から上段へと振り抜いた。
突然、暴風が吹き荒れる。
「わ、わ、わっ」
髪が舞い上がり、視界が隠される。風圧に負けて体が押し出され、ナイジャーの背中側へ重心がずれた。
落ちる、と思ったそのとき、がっしりと腿裏を掴まれる。
「悪い悪い。びっくりしただろうが、あんまり動かないでくれな」
「ご、ごめん。――えっ」
「すっきりしたろ。行くぞ」
振り返ると、ナイジャーの正面、行き止まりだった袋小路が崩れ、光が差している。
どうやらここは外に通じる通路だったらしい。出入り口の固く閉ざされた扉をナイジャーが斬ったようだった。
走り抜けるとき、おそらく金属でできていたのであろう分厚い大きな扉の残骸を見た。きれいに切断されたような切り口が転がり、それが力任せに破壊したものでもなく、自然に朽ちたものでもないことは明白だった。
こんな分厚い金属の扉を、ナイジャーは斬ったのである。触れもせずに、風を巻き起こして。
「あいつら外に出たぞ! 追え、追え――!!」
ナイジャーがどんな魔法を使ったのかはわからない。だが、尋常ではない。それでも背後からしつこく迫る追っ手に、ナイジャーもいい加減舌打ちをした。
「しつこいなあ。参るぜ、ほんと」
「な、ナイジャー、どう、どうする?」
「撒ければ良いと思ってたが、こりゃエディにももうひと頑張りしてもらわないとだな」
「えっ? なに? なにする?」
「捕まえろ!」
「もう逃げられないぞ! あっちは発着場だ!」
追いかける声が迫ってくる。逃げられない。こちらのものだ。――そんな声だ。
この先はまた行き止まりなのか。不安に胸が黒く押しつぶされる。
ナイジャーがエデルを抱え直す。肩に担ぐのをやめ、横抱きにした。
ようやく正面にナイジャーの顔が見える。彼は既に幻影魔法を解き、いつもの、彫刻のように整った顔立ちで、竜の目をエデルに向けて微笑んだ。
「これからなにが起こっても声を出さないこと。俺が良いと言うまでな。約束できるか?」
「うん」
「よーし。じゃ、ちょっと頑張ってくれな。――あ、白蛇どこ行った? 逸れるなよ」
「えっ? わ、わかった」
首元のウィットランドーグの幼獣を、上着の上からぎゅっと握る。ぐえ、と苦しそうな声がしたが、何が起こるかわからない。ナイジャーが良いと言うまで我慢して、と内心で願った。
今走っている場所は、かなり規模は大きいが雰囲気に見覚えがある。飛空車の発着場だ。
まっすぐに続いた道が数十メートルあり、その先は行き止まりだ。走っている道の右手は壁、反対側の左手はぽっかりと真っ暗な穴が空いている。黒層を縦に移動する大穴が広がっているのだ。そこを、上下からやってきたアブトが人を運んでくる。
この場所もいい加減黒層の中でも下層のはずだが、その下はさらに底が見えない。まだまだ地下深く層が続いているようだった。
よし、とつぶやいたナイジャーが方向転換する。
その、落下防止柵も何もない暗い穴のほうへ。
「えっ、待って、ナイ、ナイジャー、そっちは――!」
「約束、ちゃんと守れよー」
「なにをするつもりだ!?」
「バカめ、落ちるぞあいつら!」
背後の追っ手がざわつき始める。
そう、このままだと落ちる。落ちるから、助けてほしい――なんて、口にできるはずもなく。
「お、おち、落ち――!!」
「じゃあな!」
ナイジャーは元気よく追っ手に挨拶して、躊躇なく真っ暗な大穴へと飛び込んだ。――エデルを抱えたまま。
エデルは「また」だとか「今度こそ死ぬ」だとか、叫びたいことはいろいろあったが、ナイジャーと約束した手前、その一切合切をすべて両手で口をふさいで抑え込んだのだった。




