45.シーファ
「エデル!」
ルーシャスが吼える。反射的に彼のほうへと逃げ出そうとして、体が動かないことを悟った。
手が後ろに回ったまま動かない。立ち上がろうにも下半身に力が入らない。何事かと考えるより前に、エデルを拘束した青年が高笑いした。
「やはりそうか! この女がエデル・マーシュロウだな!」
青年の顔が興奮と喜色に満ちる。その狂気に震えるエデルのこめかみに、ひっかくように杖を突きつけた。
まるで顔に貼り付けた面を取り払うかのような仕草に、視界が一瞬滲む。それで、ナイジャーが施してくれた幻影魔法が解かれたのだと理解した。
「ははは。やはりこの顔だ! 幻影魔法を仕掛けたのはおまえか? お粗末すぎて遠目からでも面を貼り付けてるのかと思ったぞ!」
「おまえ……!」
青年がエデルの喉元に杖を突きつけたまま引っ張り上げる。無理に立たされ、エデルはたたらを踏んだ。
正面にルーシャスが剣を構えている。だが動かない。彼はわかっているのだ。ルーシャスが動く素振りを見せた瞬間、エデルの喉元に突きつけられた青年の杖がエデルを害するほうが先だと。
「こんなものでおれの目を欺いたつもりか? 初級魔道士でもひと目でわかる出来の悪い幻影魔法だな!」
「……生憎、俺には補助魔法の才はなかったんでな」
「初歩の初歩もできないでこの女を守るつもりだったのか? それとも、同業者の目を欺きたかったのか? どちらにしてもお粗末な話だ」
青年は嘲笑いながら続ける。
「確かに、ウィットランドーグ一匹よりもこの女のほうが価値があるな。どんな傭兵も今はエデル・マーシュロウを血眼になって探し回ってるぞ。……知ってるか? 今朝の手配書では既に十ガルタ金貨に値上がりしていた」
「あ、――っ」
「やめろ。乱暴に扱うな」
ルーシャスが鋭く叫ぶが、青年は意にも介さない。
ぐい、と引っ張られ、エデルは痛みに声を上げた。
「こいつを売ろうと考える人間も、バカ正直に依頼を遂行しようする人間も、誰もがこいつの運び方に苦労することになるよな。十ガルタ金貨、これをダシにしてもっと高値で売りつけられる余地もある。傭兵なら――傭兵じゃなくても手柄は自分のものにしたいだろうよ。誰かが既に捕まえたあとだとしても、換金する前ならそいつから奪えば良い」
「エデルを離せ」
「誰しもが捕まえたあとも慎重になる。奪われる可能性があるからな。だから素直に連れ歩いてるとは思っちゃいなかった。最低限、幻影魔法で顔を変えるだろうな。――だが、よりにもよって最初にこの女を手に入れたおまえが、この程度の幻影魔法でどうにかなると思ってるとはなあ」
「う、ぐっ」
力任せに襟首を引っ張られ、首が締まる。下半身が動かない。おそらく、なんらかの身体拘束魔法が施されている。
青年は構わず引っ張って連れて行こうとするのに、エデルは満足に立てない。首は締まる一方だ。呼吸が苦しい。目の前がちかちかと明滅し始めた。
遠くでルーシャスがエデルを呼ぶ声がする。
どうにかして、手か足、どちらかだけでも自由になりたい。
――どうすれば良い。
霞む思考を必死に巡らせた、そのときだった。
「ぐぁ……っ!!」
エデルの首元から幼獣が素早く飛び出し、鋭い牙で青年の手に深く噛みついたのだった。
「――こいつ……! ウィットランドーグ!!」
「あっ」
エデルの拘束が緩む。乱暴に床に放られ、ようやく満足に息が吸えて咳き込んだ。
「この獣魔、こんなところに隠れやがって!」
「やめて! その子に乱暴しないで!!」
青年が幼獣を掴む。ぎゃん、と甲高い悲鳴を上げて幼獣がのたうち、エデルの片腕ほどの長さだった体が瞬く間に膨れ上がる。最初に見たときと同じ、一抱えほどもあるやたらと胴の長い小鳥のような、蛇のような姿になっていく。
しかし、すかさず青年の杖から魔法を放出する。何の魔法なのかはわからない。だが幼獣はその魔法を直に受けて大人しくなってしまった。
「白蛇ちゃん!」
「ちょうど良い、まとめて金にしてやる!」
目を見開いた青年が叫び、ふたたびエデルに杖を向けた瞬間だった。
「が――ッ!!」
青年が吹っ飛んだ。
目にも止まらぬ速さだった。
轟音が響く。建物全体が揺れるほどの衝撃だった。
室内の机や椅子がひっくり返り、魔導具や書類が吹雪のように舞う。派手な音とともに天井から吊り下げられた照明がいくつか落ち、視界が暗くなる。パラパラと土くれの破片が降ってきた。
もうもうと立ち込める調度品の残骸と土煙の中、青年がめり込んだように思えた壁には亀裂が入り、えぐれてへこんでいる。その中には青年に馬乗りになったルーシャスと、彼の長剣に喉元を押さえられている青年が仰向けに倒れ込んでいた。
地響きが鳴り止むと、ようよう視界がはっきりとしてくる。青年の手からこぼれ落ちて放り出された幼獣が、猛スピードでエデルの首元まで飛んでくる。そのままエデルの細い首にぐるっと巻き付いて顔を髪の中に突っ込み、それきり動かなくなった。
「白蛇ちゃん……」
幼獣は、うぎゅる、ぷぎゅるるる……と小さく声を上げ、忙しなく呼吸している。
どうやら怖かったらしい。もとに戻った細い体は震え、小さな三趾足がしっかりとエデルの肩を掴む。爪がエデルの肩の肉までしっかりと食い込んで、意地でも離さない構えだった。
「く、そ……! 貴様っ!!」
呪詛のような声が絞り出される。青年が手に持っていた杖はルーシャスと同じ長剣に変わり、喉元ぎりぎりでルーシャスの剣を受け止めていた。
「俺は補助魔法の類は苦手だが――こっちが本業だ。それで十分エデルを守れる」
「はっ。女が連れて行かれそうになるまで手をこまねいて見ていただけのやつに何ができる?」
「おまえのように、小手先の小細工でせせこましく他者を陥れて稼いでるわけじゃないんでな。まっとうに剣だけで稼いでいると、こんな手狭な場所で弱い者を守りながら戦う術というものを忘れていけないな。どうにも巻き込みそうで、タイミングを見計らっていた」
「っ、き、さまァ……!!」
青年が怒りに任せて剣を押し返す。だがルーシャスの圧倒的な力の前にびくとも動かなかった。
「エデルに手を出すな。――殺すぞ」
こんなにピリピリとした気配を放つルーシャスには覚えがない。助けてくれようとしているのは確かだろうが、どこか違う人にも思える。
エデルが驚いて一歩後退ったとき、背後の扉から人がなだれ込んできた。
「シーファさま!」
「今の音は何事ですか!?」
ルーシャスに叩きつけられた轟音で、部屋の外の人間も騒ぎに気づいたらしい。
いまだルーシャスに喉元を押さえつけられた青年が叫んだ。
「その女を捕らえろ‼ 首に巻き付いたウィットランドーグもだ!!」
「――チィッ」
まだ混乱のさなかにあったが、命令された男たちの動きは早かった。状況を尋ねるより先にエデルに向かってきたのである。
出入り口は男たちが入ってきた扉のみ、部屋の奥にはルーシャスがいるが、彼はシーファと呼ばれた青年にかかりきりである。
どこへどう逃げたものか、エデルでは判断しかねて逃げ惑った。
「こっちだ!」
その手をしっかりと大きな手が掴む。ルーシャスはシーファの拘束をやめ、エデルを逃がすほうを優先したようだった。
「止まれ!」
「ここは通さんぞ!」
「どけ!」
立ちはだかる男たちに、ルーシャスが長剣を一閃させる。瞬間、閃光がエデルの視界をも奪った。
白い光が視界を覆い尽くす雷の落ちるような轟音のさなかに、男たちの醜い悲鳴が聞こえた。エデルにももう何も見えていなかったが、引っ張られるままに走る。
何度か瞬いてようよう視界が戻ってきた頃には、既に部屋を出て細い鉄骨の橋を走っていた。
『全職員に告ぐ! ウィットランドーグを地上階管理室で発見! 現在侵入者の女と一緒に逃走中。女は銀髪、首にウィットランドーグが巻き付いている! 紫の髪の男と一緒に逃走中! ただちに捕らえよ! 繰り返す――』
シーファの声が倉庫中に響き渡る。これも魔法の一種なのだろう。
考える間もなく、どんどんエデルたちの後ろから、行く先から追っ手が集まってくる。そのたびにルーシャスが剣を一閃させ、ときには蹴り倒して突き進んでいたが、埒が明かない。
「ル、ルース、後ろ……!」
「わかってる」
そろそろエデルの体力も限界だ。これ以上走ることも難しい。
ルーシャスは、エデルが動けなくなる前にそう伝えろと言ってくれた。以前、ギレニア山脈でエデルを一晩ひとりにしてしまったことを、彼はずっと後悔している。だから「できないことはできないと言ってくれ。そうしたらどうするか俺が考えるから」と何度も約束させられた。
今がそのときなのだとはわかっている。けれど、それを伝えてどうにかしている場合ではない。
考えあぐねて、エデルの足がもつれた瞬間だった。
ルーシャスが急に立ち止まって振り返る。エデルはもう走り出した足を止めることができなくて、正面からまともに彼にぶつかった。
「ぶぇっ」
「エデル、目を瞑れ」
「えっ!? う、うん」
片腕で抱き留められ、短く指示される。
しっかりとした腕の力強さにどぎまぎしている場合ではない。エデルは目を白黒させながらもうなずいた。
どういう意図があるのかはわからないが、ルーシャスの言うことをいちいち疑わない。エデルは素直にぎゅっと目を瞑った。瞬間、目を閉じていてもわかるほどの強い光が、あたり一面を覆い尽くした。
「ぎゃあ!」
「目が――」
「ナイ!!」
「そのまま行け!」
下からナイジャーの声がする。
と思ったら、不意に体が浮いたのである。
「うわぁ!?」
「手は胸の前で交差! 足は軽く曲げる! そうだ! そのまま仰向けを維持しろ」
「えっなに!?」
「絶対に崩すなよ! 崩れたらナイごとお陀仏だからな!」
「なになになに!? ――ぎゃあああー!!」
ふわ、と体が浮いたと思った次の瞬間には、腹の底が冷えた。
なにをされたのか、にわかには理解できなかった。だが瞬きにも満たない間に、ルーシャスの姿がはるか上方へと消えていく。
――エデルは仰向けの姿勢のまま、三階層下に放り投げられていた。




