02.人生で二度目の誘拐
はっと飛び起きた。
眼前にはもう見慣れて久しくなった、何の変化もない木の板が広がっている。
ここは天蓋のない馬車ではない。狭苦しい、空もろくに見ることのできない天蓋付きの馬車――というよりは、馬に引かせた木箱の中だった。
数日前から変わらない景色だ。
どうやら、座ったままうたた寝をしていたらしい。
エデルは痛む身体をあちこち伸ばしながら口元を拭う。そうして立ち上がって、小さな格子がついた窓から外を眺め、ため息を付いた。
――突然だが、エデルは攫われている。
誘拐されて奴隷市に売られかけるのは、実はこれが人生で二度目だ。
一度目はうんと幼いとき、まだ浮浪児として街をさまよっていた時分に売られかけた。
あのときは傭兵業をやっていた養父に助け出されたが、今回はその養父ももういない。一年前に長年患っていた病をこじらせて亡くなったから、今のエデルは正真正銘のひとりぼっちだ。
助けを求める手立てはない。一緒に誘拐された仲間もいない。だから、ひとりでなんとかしなければ、事態はどうにもならない。
そんなことは痛いほどわかってはいるのだが、着の身着のまま外側から鍵をかけられた馬車の中に放り込まれたのだ。扉なり壁と床の隅をこじるための木の枝の一本も手元にはない。
あるのは、魔力を満たせと言われて一緒に放り込まれた緑魔鉱石と、肌身離さず持っていた養父の手紙くらいだ。
しかも後者に至っては養父の魔法がかけてあって、エデルでは開封することもできないのである。これでは逃げ出す算段も立てられなかった。
せめて外部から何かヒントを得られないかと、こうしてたびたび小窓の外を眺めてはいるのだが、それも結果は芳しくない。今も見えるのは、すっきりと広がった空くらいだった。
「今日はよく晴れてたんだな……」
ぼんやりと眺めやって、こんなに天気の良い日に外にも出られなかったなんて、と残念な気持ちになった。
夕焼けの赤い空に、青層の島々が遠くに浮かんでいる。
エデルのいるこの緑層は、世界では一階層目にあたる。島よりも大きな、大陸と呼ばれる規模の広大な地表が広がって、下の階層――地底層とも呼ばれるが――である黒層と地続きになっていた。
二階層目には青層がある。緑層の上空に浮かぶ島々のことだ。
緑層にいると、日々この青層の島が空を通過して太陽を遮るので、すっきりと晴れた日にはそう恵まれないのだ。
風が強い日には島が次々と空を通過して影を落としていくし、風が穏やかな日でも真上にどでんと鎮座してしまったら最悪だ。そんな日はもう一日中薄暗い。
だから、今日みたいに風が穏やかで、たまたま青層の島も近くにない日は貴重なのだ。
そんなすっきりと晴れた日に、澄み渡った空に小さな黒い点が現れることがある。
これが、青層のもうひとつ上の階層である白層の島だと言われている。
しかし、まさかあんな遠くにまで人の住む地があるとは、エデルには信じられない。噂によれば、白層のさらに上に白々層という神々が住まう島があるそうだが、ここまでいくと、もうおとぎ話でしか聞いたことがなかった。
空に浮かぶ青層以上へはどうやって行くのかというと、浮力を持つ魔導具を使った乗り物――飛空船に頼るか、飛べる獣魔に騎乗するしかない。
しかし、そのどちらも目玉が飛び出るような金がかかる。
緑層から一生出ることのない人生だったとしても、何の不満もないはずだった。
世の中のだいたいの人は、自分の生まれ育った階層から出ることはない。階層を行き来するのは、それこそ富裕層だったり、旅人であったり、何かしらの理由がある人だけだ。
だからエデルも、空の上の生活に興味はあっても自分が行けるような場所だとは思ったことはなかった。だいたい、エデルのようななんの力も持たない一市民は、今いる場所で生きていくだけで精一杯なのだ。
だが、途方もないほどの金をかき集めることになったとしても、早々に青層に行く準備をすべきだった、と今は後悔している。
完全に時期を逸した。
もっと早くに村を出て、あの空の上の島へ行くべきだった。
行動を起こしていれば、今こんなふうに奴隷に落ちぶれようとすることもなかったのかもしれない。
何度目になるかわからない重苦しいため息をついて、また床に座り直したときだった。
外が騒がしい。
そういえば、変に馬車が止まったから、うたた寝から起こされたようなものだった。
一体何があったのか。
エデルは手にしていた緑魔鉱石を腰帯にしまい、もう一度背伸びして小窓から外の様子を窺った。
「そっちにもいるぞ! 気をつけろ!」
見たことのある男――この商隊の馬車の護衛が何人も駆けていく。剣を取り、物々しい気配だった。
追い剥ぎか、獣魔か。
開けた山道とはいえ、そのどちらもこのあたりでは珍しくない。
整備された道のすぐ横は急斜面になっていて、木々がひしめき合っている。こういう場所では地の利を生かした犯罪が多発するのだ。あるいは、近くを根城にしている獣魔が狩りをしに来たか。
甲高い馬の嘶きが響く。エデルはあの声の主を知っていた。
「ドゥーベ」
小さな格子に齧りついて無理矢理覗くと、案の定、エスローが一頭暴れていた。
エスローは馬に似た獣魔だ。
六脚四眼、頭には大きく湾曲しながら前方に突き出した、螺旋状の角をふたつ持つ。獣魔のわりに人でも扱える程度には気性が大人しく、その上馬の十倍は馬力があるから、商隊で荷運びに使われるのが普通だった。
あのエスローはエデルの友人だ。この小窓越しにときどきしか会えなかったが、唯一好意的に振る舞ってくれるのが彼だけだった。密かに〝ドゥーベ〟と名前をつけて勝手に呼んでいる。
それが今、ぎりぎりエデルに見える範囲で暴れ回っていた。
向かい来る大型の獣を鋭い角で一突きにし、振り払う。その向こう側で、別の獣が剣を持った隊の護衛に襲いかかる。男の濁った悲鳴がぷっつりと途絶えた。
この隊列が野生の獣に襲われている。それも、よりにもよってこのギレニア山脈でもっとも出会いたくない、ギレニア狼に。
そこまで理解して、エデルは小窓から見える正面に視線を戻した。
眼前に広がる斜面の上、こちらを確かに睨む狼と目が合った。
「ひぇ……」
かろうじて飲み込んだ悲鳴は、飛び込んできた狼の唸り声によってかき消された。