逆に天音の時間が逆行しているとしたら最終的にロリっ子になるかもしれない件
土曜日は一日中寝て過ごした。
ここ数日の寝不足を解消する意味もあったが、なんだか急にバカらしくなって寝なきゃやってられない気分になったのが大きい。普通に考えて、時間が逆行なんかするわけないじゃんか。ラノベじゃあるまいし。あ~アホらし。下手の考え休むに似たりとはよく言ったもんだ。
昼間ガッツリ寝たおかげで、夜はソシャゲが捗った。こうして俺の生活リズムはどんどん崩れていくのである。授業中に寝溜めしてバランスとってるから平気平気。
そして日曜日。
俺は近所の将棋道場に足を運んだ。
俺みたいな今時の中学生が将棋というと意外に思われるかもしれないが、始めた理由は単純で、藤井聡太フィーバーの影響によって親に薦められたからである。
実際始めるまではあまり興味はなかったのだが、覚えてみると割と楽しい。将棋のアプリは大体無料で難易度設定も自由だし、ソシャゲと違って課金勢との戦力差に悩まされることがない。俺自身大して強いわけではないが、無課金勢として埋められない差に絶望しなくて済むのは良い点だと思う。
アプリのAIと指しているだけでもまあそれなりに楽しめるが、AIの思考は難易度調整のせいか時々どう見ても変な手を指してくるので、あからさまに勝たせてもらっている感じがしてイマイチ嬉しくなかったりする。そうかといって難易度を上げると全く勝てない。というわけで対人にも手を出すのだが、ネットの対局だと切断やら舐めプ、煽りに近いプレイに遭遇して胸糞悪くなることが稀にある。将棋に限らず、煽りとか初狩りとかはネットの対人ゲーではあるあるだよな。
基本的に出不精な俺が将棋道場にわざわざ出向くようになった理由はつまりそういう経緯だ。趣味はソシャゲっていうより将棋って答えた方がなんか体裁もいいだろ。
将棋道場では老若男女――というには男女差がちょっと偏っているが、色々な年齢層の将棋ファンが集っていて、基本的には同じぐらいの棋力の相手を割り振られて対戦することになる。が、俺の勝率はまあ三、四割前後、級でいうと五級ぐらいらしい。
で、今日の相手は川矢清という人だった。年齢はたぶん三十ぐらい、今日はマスクをしているので見えないが顔は結構イケメンで、服装もオシャレな感じ。仕事は探偵だそうで、ちょっとミステリアスな雰囲気があり、話すと知的で様々な分野に豊富な知識を持っているが、将棋はめちゃくちゃ弱い。俺の棋力でカモれる貴重な相手なので、川矢さんとは仲良くしている。
「お願いします」
「お願いします」
挨拶を済ませ、さっそく対局に入る。川矢さんの作戦は基本的に棒銀と呼ばれる戦法で、とにかくがむしゃらに攻めてくる。加藤一二三九段が得意とする戦法だが、使うのがアマチュアの初心者だからお察しである。本当は俺も攻めが好きなのだが、相手がさらに攻撃的だと必然的に守らざるを得ない。しかし適当に守っているだけで自滅してくれるので、終盤は逆にこちらが面白いようにカウンターを決めることができて楽しい。
川矢さんは今日も棒銀だった。
「最近どうだい、少年」
心理的に揺さぶりをかける戦術なのか知らないが、川矢さんは対局中結構話しかけてくるタイプの人である。といっても最初は一人でぼやいているだけだったから、川矢さんも最近では俺のことを仲の良い相手だと思ってくれているのかもしれない。仮に揺さぶられたとしても全然問題なく勝てるので、俺は全く気にしていない。
どうだい、などと漠然と聞かれても退屈な日常を送っている平凡な中学生の俺には話せるような事柄はあまりないのだが、今日に限ってはうってつけのトピックがある。もちろん天音の髪のことだ。川矢さんは将棋は弱いが頭は切れる。何か俺には思い付かないようなアイディアや視点を持っているかもしれない。将棋は弱いけど。
俺は、幼馴染の髪が毎日少しずつ短くなっていることを川矢さんに相談してみた。
「なるほど。たしかに不思議ではあるな」
と、川矢さんは頷く。
「ですよね。なんだろうと思って」
「不可解な現象に遭遇した時、考えるべきことは主に三つだ」
「三つ?」
「そう。誰が、何のために、どうやって。ミステリではそれぞれフーダニット、ワイダニット、ハウダニットと呼ぶがね。これらの問いを一つ一つ解決していくことで、点は線となり像を結ぶ」
川矢さんはそう言いながら、飛車先の歩をぶつけてきた。俺は迷わず同歩と応じる。
「えーと……ハウスダニ?」
「ハウダニット。別に言葉を覚える必要はない。肝心なのは思考法だよ。まずはフーダニットだが、今回の場合、誰が、という点はあまり問題にならないかもしれない。おそらく髪を短くしているのは彼女自身だ。もし彼女以外の人間が彼女の髪を切っているとしたら虐待の可能性が高くなるが、そんな様子はないんだろう?」
「……ええ、はい。小さい頃からずっと知ってるけど、天音んちは両親も優しい人だし、そんなことはしないと思います」
「うむ。いい人だから悪いことはしないはず、という思考は非論理的で危険だが、まず君の彼女のケースではあまり気にしなくていいだろうな」
「いや、彼女じゃないです」
「ふむ? そうかね?」
と川矢さんは口元に薄笑いを浮かべながら、銀交換の後に角を成り込んで角交換を狙って来た。棒銀ではまあよくある形、川矢さんはいつもここまでは普通なのだ。素直に角交換に応じると、川矢さんは上機嫌そうに続ける。
「次にハウダニット、どうやって髪を切っているのかという点だが、これもおそらく本質的な問題ではない。髪を切る道具といえば主にハサミだが、より広く物を切る道具と考えれば、身近なものでは包丁、カミソリ、ノコギリなどが挙げられる。しかし、ノコギリのような物騒なものが使われているのであればおそらく彼女の髪はひどく乱れているだろうし、包丁でも綺麗に切り揃えることは素人には難しいだろう。だが、彼女の髪の変化は毎日彼女を観察している君が二、三日経たなければ気付かないほど小さなものなんだろう?」
「まあ、そうですね」
「なら、突飛な方法で切られたものではない。普通にハサミを使って切ったと考えていいだろう。で、やはり問題はワイダニット、何故彼女は髪を切ったのかという点に移るわけだが」
ここで川矢さんは、今交換したばかりの角をいきなり俺の陣地に打ち込んできた。川矢さんの手はいつもこの辺りでおかしくなる。その角は、俺が一手金を動かしただけで死んでしまう位置に打たれているのだ。悲しいけどこれ将棋なのよね。俺は遠慮なく川矢さんの角を殺した。もしかしていつもこうやって話しながら指しているからこんな単純な手を見落とすのではなかろうか。
川矢さんは一瞬顔を顰めたが、すぐ取り繕って話を続ける。
「その点、大西くんには何か心当たりはないかね?」
大西というのは俺の名字だ。俺は首を横に振った。
「いいえ。様子は普段と何も変わらないし、あんなにチマチマ髪を切る理由なんてないと思います」
答えながら、俺は取ったばかりの角を川矢さんの陣地に打ち込んだ。川矢さんはここまで攻めの手しか指していないので、玉や守りの駒が全く動いていない。居玉と呼ばれる形で歩だけが上ずっているので、駒を打ち込む隙がたくさんあるのだ。
「なら、これ以上私が力になれることはおそらくないだろうな」
「そうですか……」
「私は探偵としてこれまで数多くの事件を解決に導いてきたが、人の心ほど難解なものはないよ。心理学も多少は齧っているのだが、それでも理解不能なことばかりだ。女性の心理は特にそうだね」
「女性つっても、天音はまだ俺と同じ中学生ですよ」
「中学生だからと軽んじるのはよくないぞ大西くん。君ぐらいの年頃だと特に女子の方がませているものだ。それに君の話を聞く限り、君の彼女は君より精神年齢はずっと高いように思えるね」
「だから彼女じゃないですってば」
そこから怒涛の反撃を仕掛け、俺は川矢さんの玉を一挙に攻めたてた。しばらく眉根を寄せて盤面に集中していた川矢さんだが、自玉の詰みを悟り、がっくりと肩を落とす。
「……負けました」
「ありがとうございました」
将棋というゲームは、勝てばめちゃくちゃ気持ちいいが、負けた時の悔しさは言葉では表現しきれないほど重い。これだけ毎回負けていてもまだ俺と指してくれるんだから、川矢さんには感謝しなきゃいけないだろう。同じ相手にこれだけ負けが込んでいたら、俺だったらもう指したくないと思ってしまう。
対局を終えて席を離れる間際、川矢さんは真剣な表情で言った。
「まあ、探偵としてアドバイスさせてもらうと、探偵の基本は観察だ。現場の小さな変化や違和感を見逃さないこと。それは相手が人間であっても同じだよ。相手の表情やしぐさ、行動をつぶさに観察しなければならない。もっとも、大西くんは彼女に対しては既にそれができていると思うがね。それでもわからないというなら、本人に直接訊いてみるしかないのではないかな」