お見送り
行列の最後尾にいる私たちも、きっと白い浴衣を着ていないみんなもまだあの廃駅は見えないと思う。何もかもが闇に溶けている。
あの廃駅は昼でも薄暗くてどこか寒い場所で、かつてはあったはずの灯りももうない。戦前までは人々に利用されていたものの、自動車やバスに全てを託して今は眠りに就いた、はずの存在。
それが今日だけはお供え物の数々が綺麗に並べられて賑やか、華やかだった。でもそれらがみんな暗闇に吸い込まれて、今ここにこうして村人たちが集まっている以外の何かはない。
右に一つ、左に一つ、ゆっくりと灯りが増えていく。月の光が遠慮するこの神域に立ち入りを許された者たちが光を広げていく。
元は雨よけのための屋根が一部にあるだけで、ただ駅にのぼるための階段以外は何もない駅。だんだんと待合室も改札すらないシンプルな無人駅の輪郭が見えるようになっていく。
村人たちが近づくのはその灯りに自分達が照らされない場所までだ。みんなわかっているから。神域に立ち入れるのは白を纏う、役目のある面子だけなんだって。うっすらとしていても、完全には闇夜に紛れない彼ら以外は一歩踏み出せば戻れないような気がして、息を潜めてただ待ち続ける。
廃駅の向こうには村の墓場があるのに、そこへ灯りは届かない。あれだけあったお供え物も、このお見送りには存在できていなかった。村人一人くらいはいなくなってもわからないくらい自然で、そうなっても不思議じゃない暗さだった。
意味のないものはこの場にない。ずっと鈴の歌を続ける女衆も、神域への道を――置き去りの線路への道になった灯りも、階段から足を踏み外さないように、牛の歩みで神様をお神輿に乗せて、確実にお運びする男たちも。でもまだ一つだけ足りない。
そこに神様は乗っていない!
「あ……」
待って、まだダメだよ、止めなきゃ――
「……ちひろ!」
思わず左手を伸ばして遥か遠くのお神輿を追いかけようとしたら、かずきが私の右腕を掴んで止める。
「な……なんで?」
止めなきゃいけないのに――あれ?
ずっと私が左手に掴んでいたあの子が。離した瞬間に闇に溶けて消えていた。
チリリリ――
音がした。いやずっとしていた。全ての鈴が鳴らされているのがまた耳に入ってくる。
お神輿が廃駅にのぼっていた。神域へ、人の生きる世界ではない場所へ――異界へ入った。鈴の音に満たされた世界へ降ろされる。いよいよ神様がお帰りになる時なんだ。
――さっきまではいなかったはずなのに、今はそのお神輿に誰かがいるとわかる。
お神輿に灯りなんてないのに、布で覆われた木の屋根の下が明るい。そこにある影。
ちひろだ。ちひろだ!!
どうしてそこにいるの!
待って行かないで!
「あれって……」
かずきが呟く。私も闇に溶けていいから今すぐ止めにいきたいのに、かずきはまだ私を掴んでいた。このままだとあの子が消えちゃうって、かずきもわかったみたいだ。でもあの影を見たとたんに、掴まれた私も掴んでいるかずきも動けなくなった。
これがお別れだとわかっているのに、止めたいのに。
私のも、かずまのも、異界との境界線以外の灯りが一斉に消えた。
もうここにはあのお神輿と、廃駅を照らす灯りしか見えない闇しかない。
その濃くなった闇の中で、布がひらりと光った。
灯りはわずかしかないのに、よく見えた。ちひろが笑顔でそこにいるのがはっきりと。
「お姉ちゃん、楽しかったよ」
お神輿から現れた、まだ十歳程度の少女の声がみんなの注目を集めたその瞬間――
私は走った。絶対に嫌だから!
行列の最後にいて、廃駅から一番遠いところにいたはずなのに、目の前に誰もいなくて、みんな闇に溶けてしまって、ここにいるのは私とあの子だけで、走ってもぶつかるものなんかなくて、でもあの異界に入れる白い浴衣は私も妹も着ていなくて、でもまだそこにいて――
「思い出して?」
階段にたどり着く。
「ねえお姉ちゃん」
まだそこにいるあの子の手を。
「うーんだめかぁ」
待って、こっちに来て――
「お神輿に乗らないで一緒にいすぎちゃったから仕方ないね」
妹は微笑んだ。
「『ちひろ』はお姉ちゃんだよ」
掴もうとした手を、私は掴めなかった。
景色は様変わりしていた。私たち以外が闇に溶けて存在しなかった廃駅は、昼にしては薄暗い、それでもついさっきと比べたら眩しい世界にいた。
「……思い出した」
目の前の「妹」の前で私は立ち止まっていた。まだ手を伸ばしても届かない。
「私が……『ちひろ』だ……」
お神輿を村に運び終えたおじさんたちが名前を呼んだ。まるで一人しかそこにいないかのように。
毎年、お祭りはお母さんと出かけて踊っていた記憶。お母さんとだけだった。
幼なじみは私にしか話しかけなかった。いつも話しかけるのは一人だけであるような自然さで。
私に妹なんていない。
「そうだよ。久々にたくさん人間と遊べて楽しかったなー」
目の前にいるのは、確かに今日一日を一緒に過ごした、私が自分の妹だと思い込んでいた「神様」だった。
そもそも妹だと思ったのも、その見た目が私の小学生高学年くらいのものだから。今の今までそれに全然気が付かなかったのはどうしてなんだろう。
「でも、なんだか、まだ信じられない……」
妹と過ごした過去の記憶はない。
それでもずっとずっと一緒に過ごしてきたような安心感はあるのに。今も家族のように感じている。
「この姿、お姉ちゃんが一番見覚えあるでしょ? まだ小学生の頃のお姉ちゃんの姿だからね。村の人間たちも見覚えがあるから、誰も知らない子供がいるなんて思わなかったんだよ」
何年も前だけど、毎日鏡の中に見ていた私。そしてそれを毎日見ていたみんな、全員が神様を違和感なく受け入れて過ごしていた。ずっと暮らしてきた家族のように。
「今日ずっと一緒だったお姉ちゃんには特に強く呪いをかけたんだけど、本当はあの広場で私がすぐ神輿に乗ったら少しずつそれが消えて、ここに来たときにはちゃんと『妹』なんていないって気が付いてるはずだったんだよ。あんまり構ってくれるからついつい最後まで乗らなかったら、思い込んだまま突っ込んできちゃうなんてねー」
「じゃあ、本当は村から誰かが消えるわけじゃなくて、今日だけ神様が村人のふりをしてたってだけだったんだ……」
なんだ、と力が抜けた。神隠しでもドッペルゲンガーでもなかった。怖いことなんか何もなくて、ただ本当に神様が来て、帰っていくだけのお祭りだったんだ。
「そういうことだよ。うん、見送る邪魔をしにくるほど強く呪いをかけちゃったのは私が悪いから、落ち着くまで話さないとって思ったんだけど。これならもうよさそうだね」
……そっか、帰っちゃうのか。全部わかったらそれが当然だって思うけど、さびしい。
そう言わなかったのに神様は私の気持ちがわかっちゃっているのか、苦笑いを返してきた。
そういえばその顔は、最初に見せてきたあの顔だった。
「君の姿だから、何を考えているのか今も少しわかるよ。寂しがらなくても大丈夫。私はこの村の守り神だから、お祭りの時じゃなくてもたまに来てるからね」
「え」
いるの?
「まあその時は君たちにはわからないけどね。ああそうそう、もういい加減に素直になった方がいいよ? かずき君、モテるのは本当だから。あんまり冷たくしてたらぽっと出の女にとられちゃうよ?」
「あいつの話!?」
暗闇の廃駅から一転して、昼間なのに薄暗くて風一つないやっぱり廃駅にいるなんて不思議なことが起きているのに、なんであいつの話題がでてくるの!?
「ダメ、誤魔化さないでよ? 神様からのお告げなんだからちゃんと聞くこと!」
そう胸を張って言う姿は確かに昔の私だ。でもそれとは違う、親しみある何かを感じて私は言い返さなかった。この視線を感じたことがある。ふとしたときに感じていた。
いるってわからなくても、神様もずっとこの村に一緒にいてくれた。私の好きな村の一人だったんだ。
「さて、そろそろ君は元のところに帰らないとね。特等席で見送ってね」
「……うん」
今度こそさよならだ。また会えるかな。
「私はいつでも……じゃないけど、結構村に来てるから、もしかしたらわかるかもよ」
「本当?」
「神無月はいないけど。でもまたかずき君に冷たくしてたら見てるからね」
「う……うん」
ここまで念を押されてしまうと頷くしかない。厳しいいもう……神様だ。
「大丈夫大丈夫、お姉ちゃんはいい子だからね。ほら、後ろの階段を降りたら戻れるよ」
この廃駅に一つだけの階段が私の真後ろにあった。そうだ、階段を駆け上がって少し進んだところでここにいたんだった。きっとこれが異界との出入口なんだろう。私は素直に階段に足をかけた。
「楽しかったよ、ありがとう」
地面に足をつける瞬間、昔の私の声が聞こえた。