マリッジブルー・イン・エレミア前編⑤
人間、自分に向けられた声でなければなかなか反応できないものだ。ましてや、様々な色の混じった歓声の中で金切り声が響いたところで反応できるのは声の発生源の周囲の人間と、それから、声を向けられた人間くらいのものだろう。
依然響く歓声の中、ラフが黒い宝石のように輝く瞳を大きくして振り返った。その視線の先へルカも目を向ける。
突然の叫び声に通りの向こう側の人々が目を丸くして見つめているのは、一人の女性。
エレミアの都の住人にしては、肌が白い。それが第一印象だった。
都を抜ける風が、女性の柔らかな茶髪ときっちり着こまれたハイネックのワンピースを揺らす。明るい色を着こむ周囲の人々から浮かび上がるような紫のベルベットが、とろみを帯びてきた日の光を柔らかく反射している。
「メグ」
ラフの口から零れた名前があの女性の名なのだろう。
「やっぱり、そうだったのではありませんか」
俯いた女性――メグは震える声でもう一度そう言った。先ほどの叫びに比べれば小さい声なのに、ルカたちの耳にもそれははっきりと届いた。
やっぱりそうだった、とはどういうことだろう。
そう思いながら姉を見上げると、彼女も小首を傾げながらルカを見下ろしてきた。ざり、とラフが一歩足を踏み出した音に、姉弟はそろって再び女性の方へと目を向けた。
「メグ、どうしてここに」
「毎日毎日、決まった時間に居なくなると思えば……今日だって、式の打ち合わせがあるというのにそれを抜け出して」
感情を抑え込んだような声で言いながら、女性が顔をあげた。
アルヴァより、少し大人びているだろうか。ぱっちりした栗色の瞳が普通よりもきらきらと光を反射しているのは、恐らく彼女が涙をためているからだ。彼女はラフが何か答える前に、唇を噛み締めてから大きく口を開いた。
「なぜわたくしに、婚姻の申し出などなさったのですか!」
おっとぉ?
ルカはラフの背中と通りの向こう側で気丈に涙を堪えているメグを見比べて顎を擦った。ラフがまた一歩、彼女に歩み寄るが、今度は彼女はじりっと退いたようだった。
するとあれか、とルカはメグをじっと見つめる。
ラフが聖都イグナールに来ていたのは婚姻協議のためだった。エレミア領主ご子息のお相手は、イグナールの筆頭貴族のご息女様だ、と言う話だから……彼女がご息女様か。
婚姻協議が終わり、結婚式の打ち合わせを行い、いよいよ結ばれようという時期。なのに婿になる方が毎日決まった時間に都の入り口まで足を運んでじっと砂漠の向こうを見つめて思いをはせるような――ここはルカの想像だが――顔をしていたら。
そりゃダメだろ、領主ご子息様。
あらら、と言う顔で小さく首を振ったルカは、ちろりと姉を見上げた。彼女は兜をかぶった頭を小さく動かして、ラフとメグを見ながら小さく唸っている。兜の下では恐らく困った顔をしていることだろう。そりゃそうだ、この修羅場の原因はアルヴァにもある。なんてったって、ラフが待っていたのはアルヴァなのだから。
これを機に誰でも彼でも魅了しないよう気を付けてほしいものだと思いながら、恋の季節や彼女の誕生日にはプレゼント配達係として大量の荷物を持ち帰る羽目になるルカはおろおろしている姉から、通りの向こうのメグへと目を動かした。
あんまりひどくなるようであれば僕たちが仲裁に入らなければ、とメグをじっと見ながら顎を擦っていたら、彼女の栗色の目がルカに向いたような気がした。ルカはぴたりと顎を擦る手を止めた。
彼女の腕がゆっくり持ち上がる。
「ひ、ひどいではありませんか」
つ、とついに涙をこぼした彼女の指が、人差し指を残して固く握られる。小さく震える指の指し示す方向を辿り――。
「……え、僕?」
ルカはぽかんと口を開けてしまった。
なんで僕を指さしてるんだあの人、と混乱するルカにアルヴァやケネス、フィオナとカレンに、それからイグニアの視線までもが集中する。
「ひどいではありませんか、ラフィー様。そ、そのように可憐な方がいらっしゃったなら……どうしてわたくしに、申し込みなど……!」
ひく、としゃくりあげながらそう言ったメグにラフがまた一歩足を踏み出す。
「メグ、これは――」
「来ないでくださいまし!」
ラフはその言葉に律義に足を止めた。ルカの混乱した頭でもそれが悪手だったことはわかる。メグは一層傷ついた顔をして、一歩、もう一歩と後ずさり、ついには踵を返して人混みに消えて行ってしまった。そんな彼女を追いかけたのは彼女の傍に控えていた少女だった。周囲に溶け込んでいてわからなかったが、どうやら彼女の侍女らしい少女はラフに礼をしてから、エレミアの住人らしいゆったりしたスカートを翻して「メグ様!」と言う声を残して人混みに分け入っていった。
つまり、僕はまた女性と間違われたわけか。
混乱から抜け出したルカは眉間に皺を寄せるが、見下ろして見える自分の足がヒラヒラの中から伸びていることに、そりゃ遠目から見れば女に見えるよ、とため息を吐くほかなかった。
大通りには何事もなかったかのように歓声が響き続ける。
しばらく彼女が消えていった方向を見つめていたラフが振り返った。困ったように笑いながら彼が口を開く。
「……皆さんは、地神竜さまの寝床へ行かれるのですよね? 今からこの都を出たのでは、あちらにつくのは真夜中です。宿は、まだとっていませんよね」
ラフが小声でルカたちに続ける。
「でしたら、城へ招待させてください。あそこなら客室がいくつか空いてます。一晩明かしていただいて、それから地神竜さまの寝床へ向かうのがいいと思います」
さあこちらへ、とルカたちを促すラフに、アルヴァが一歩近づいて首を傾げた。
「そんなことより、いいのか。彼女を追った方が――」
ラフは目を伏せてふるふると首を振った。
「今からでは追っても追いつけません。それに、夕刻には彼女も城へ戻ります」
「そういうのは良くないぞ、ラフ」
アルヴァの窘めるような声に衛兵がぴくっと動いたが、ラフが彼を目で留める。しばらくそうやって視線を送ってから、ラフはしょんぼりとうなだれた。
歓声に困惑の色が混じり始めた。よそから来た人間が領主息子を窘めるというおかしな光景に周囲の人間が気が付き始めたのだ。それに気づいたルカは姉に声をかけた。
「そこまででお願いします」
アルヴァも周囲の困惑に気が付いたのだろう、彼女は兜の後ろを撫でた。
「……城へご招待させてください」
しょんぼりしたままのラフがもう一度そう言いながら、とぼとぼと歩き出した。その姿にすら薄っすら気品があるのだからすごい。ルカとアルヴァは顔を見合わせて、それから彼について歩き出した。