マリッジブルー・イン・エレミア前編④
ルカはスッと目を伏せたまま列へ、ケネスの横へと戻り眉間を押さえた。嫌な予感だけではなく眉間の皺までうつってしまったようだ。彼は皺を揉み解し、目の前でイグニアと手遊びをしている姉の肩に手を置き、ぐっと押し下げるように体重をかけた。
「ん? どうした?」
アルヴァが小さくルカを振り返る。そして、ほんの少し膝を曲げて彼の口元に、兜越しに耳を寄せた。
下手に彼の名前を出して騒ぎが大きくなっても事だ。ルカは少し考えてから口を開いた。
「来ますよ、あなたの文通友達」
言いながら、彼女の肩越しに腕を伸ばし、自分たちの左斜め前、人垣の隙間を指し示す。
ルカの小さな囁きに反応したのは二人。
「えっ?」
一人は、耳の傍で囁かれたアルヴァだ。彼女はルカに向けていた顔を前に向け、ゆらゆら頭を揺らし始めた。人々の動く隙間から何とか向こうを覗こうとしているのだろう。
もう一人は、ルカの隣で盛大に歯ぎしりを始めたケネスだ。がやがやうるさい人混みの中でもよく聞こえてくる歯の軋む音を無視して、ルカは姉と同じように人の群れの向こうを注視する。そう経たないうちに、アルヴァが「あっ」と声を漏らした。
「本当だ、彼だな。なんでここに?」
「それは僕が聞きたいですよ」
相変わらず目がいいな、と思いながら、ルカは姉の視線の先を探す。列からはみ出て前を確認したときは直ぐに見つけられた姿も、人混みにまぎれてその隙間から探すとなると一気に難易度が上がるのだ。
姉に一拍遅れてルカが彼を――アルヴァの文通友達にして砂漠都市エレミア領主のご子息であるラフの姿を見つけた時には、周囲を歓声が包んでいた。
「はいはーい、さがってさがってー」
衛兵たちがルカたちの前まで迫る。
「あの、何かあったのでしょうか?」
後ろから聞こえてきたのは、心配そうなフィオナの声だ。声の向きからして、彼女はルカたちの近くで手を広げて人混みを押さえている衛兵に問いかけたようだ。
「ああ、あなた方は今日エレミアに来たんですね。じゃあ知らないのもしかたない」
麗しいエルフの少女に話しかけられたのが嬉しかったのか、衛兵は弾んだ声で答えている。ルカは彼女の方を振り返った。
ルカに頼まれた通りカレンと手を繋いでくれているフィオナは、自由なほうの手を胸の前で軽く握って眉尻をほんのり下げていた。
「ああ、そんな心配しなくて大丈夫ですよ! ただラフィー様……領主ご子息様が、ここ最近、昼過ぎになるとここにきて砂漠の向こうを眺めるもので……」
「ああ、そうなのですね」
フィオナはほっと胸をなでおろしていたが、ルカは胃が痛いような気持ちになっていた。
馬車で想像していたのと似たようなことをやっていたとは……。
脳裏に、馬車の暇つぶしに想像していたラフの姿が蘇る。目元を押さえて軽く首を振り、ルカはその手を下ろして前を向こうとして――。
人混みの向こうのオニキスと、ルカの濃琥珀が交差した。
既視感を覚えて、ああそう言えば最初に目が合ったのも都に入る前のことだったな、とルカは諦めのため息を吐いた。
イグニスの間でのラフが素の状態なのなら、彼は目が合ったルカを目掛けて駆けてくるはずだ。だって、ルカの傍にはアルヴァがいることなどわかりきっているから。
これは絶対に騒ぎになる。
そう確信するルカの視線の先、初めて会った時の正装ではなく、ゆったりした上質そうな服を着たラフのオニキスがきらきらと子犬のように輝き始めた。来るぞ来るぞ、と身構えてから、ルカは「おや?」と肩の力を抜いた。
大通りをこちらに向かってくるラフは、依然気品を纏っていた。決して駆け寄ってくることもない。きりりとした領主ご子息の顔で、しかし確実にルカたちの方へ向かってきている。
「あれ、ラフィー様どうしたんだろう。こっちに来てる」
フィオナの質問に答えてくれた衛兵が不思議そうな声を漏らす。
彼が最近ここで砂漠の向こうを眺めるようになったの、あなたの近くの兜をかぶって幼女と手を繋いでいる人間が原因ですよ。
そう教えてやりたいが、ぐっとこらえてルカはラフをじっと見つめる。
どんどん近づいてくる彼の歩みが少しだけ早くなる。周囲の歓声がどんどん大きくなる。細かい表情まで見えるくらい近づいた彼は、目だけ取り繕うようにきりっとさせているが、唇をもにょもにょさせて笑みをこらえているようだった。まるで待てをしている子犬だ。やっぱりブブブブと尻尾を振り回しているのが見えるような好意に満ちた雰囲気を、領主ご子息としての気品が隠しきれなくなっている。
彼が近づくと衛兵が慌てて敬礼をして道を開けた。
エレミア領主ご子息とルカたちを隔てるものがなくなる。
「え、えっと……んん……ようこそ、エレミアへ」
一瞬子犬の表情を見せて、それを慌てて取り繕ったラフが美しく一礼して顔をあげた。キラキラ輝く瞳にはアルヴァしか映っていない。
「もしよろしければ、ぼく――こほん、私にエレミアの都を案内させていただけないでしょうか」
「えっ、ラフィー様!?」
衛兵が思わず、と言った表情で言葉を溢す。彼は衛兵に目を向けて小首を傾げた。
「都を訪れた方をもてなすのも領主の務めでしょう。ならばその息子の私もそうあるべきです。それとも、私では力不足だと?」
「い、いいえラフィー様! そのようなことは……ただ、その……」
衛兵の言葉を最後まで聞かず、ラフはにこりと上品な笑みを浮かべて口を開いた。
「なら、この方たちは私がもてなします」
文句を言わせない声でそう言って、彼はルカたちに向き直った。
すげえなこの人、とルカはある意味感心してしまっていた。ほぉー、と感嘆の息を漏らしながら顎を擦る。
姉上と一緒に居たいがために、領主の務めと言う言葉を出してくるとは。そんな風に考えているルカの視線に気が付いたのかラフのオニキスがルカへと向いた。彼は視線に応えるように、笑顔のままほんの少し身を屈めた。ここがダンスホールなら『一曲踊りませんか?』と言う言葉が似合いそうな様子の二人に、この周囲だけ歓声の色が変わる。
ある観光客風の男性ははやし立てるように。エレミアの民と思しき女性は少しの非難と羨望を込めて。酔っぱらったおじさんがとりあえず叫んどけ、とでもいうように。
「ここでは静かにお話もできないので、少し移動しましょう」
ラフは歓声に紛れてそう言いながら、片手を伸ばしてルカの胸元のリボンのゆがみを直してくれた。
「――やっぱり貴方はそういう方だったのですね!」
ルカたちの向かい側の人混みの中から、悲痛と悲嘆と憤りと、何より強い失望を纏わせた金切り声がルカたちへとぶつけられたのは、ちょうどその時のことだった。