マリッジブルー・イン・エレミア前編③
ついたよー、という馭者の声に、ルカはいの一番に馬車を飛び出した。モスグリーンのワンピースがひらりと揺れる。恒例のように腰をバキボキ言わせるルカをカレンが何とも言えない顔で見つめていた。
一行が降ろされたのは、エレミアの都の入り口の少し手前だった。何でも、今はエレミアの都では祭りが開かれているとのことで、馬車で奥まで入るには別途で料金が発生するのだそう。手持ちの金も多くないので、一行は歩いて都に入ることにしたのだ。
アルヴァから料金を受け取った馭者は、まいど! と言いながら帽子を取って笑う。
ちゃり、と財布に流し込んで紐を締めた馭者が来た道を戻ろうとしたのだが、ラクダはぴくりとも動かない。長い睫毛を伏せてペタリと地面に座り込んだ彼らに馭者の若者は「こんなくらいで疲れる奴らじゃないんだけどなぁ」と首を傾げている。ルカは、目深に被ったフードの奥のキラリと光る金の目でキョロキョロ周囲を見回しているイグニアを見下ろした。
まだ子供とは言え、そこらの巨漢よりはずっと重い竜を乗せていたんだからそりゃ疲れる。
よく馬車が壊れなかったもんだな、と感心しながら、ルカは座り込んでいるラクダに近寄った。馭者の若者の目がルカを追う。
未だにルカの頭に乗って寛いでいるフォンテーヌに、この子達にお水をあげたい、と念じると彼女はもそりと体勢を整えたようだった。少しして、ラクダたち一頭一頭の前にぷかりと水球が浮く。
「……お水、良ければどうぞ」
一応声を誤魔化すためにと小さくぽつぽつルカが言うと、ラクダは一頭、また一頭と目の前に浮く水球をチュルリと飲み込んで、彼を見た。バサリ、と睫毛が震えて大きな黒い目がルカをじいっと見つめている。
「ここまで、ありがとうございました」
ラクダたちと馭者に伝えてルカが顔をあげると馭者の若者がよく焼けた頬をほんのり赤く染めながらルカを見て笑っていた。ルカも笑みを返す。
「あの……優しいんだね、お嬢さん」
ぽそ、と溢された言葉に、ルカは深い皺の刻まれた眉間を隠すように会釈して、足早にその場を去ってアルヴァたちのもとに戻ったのだった。
一行は、都に入る人の列に並んでいた。
エレミアの都の入り口は綺麗に飾られていて、列に並ぶ人々の隙間から見えるその奥、大通りには溢れんばかりの人と屋台が見えた。
「これは確かに別料金もとる」
馬車で中まで行くのは骨が折れるだろうな、と兜の奥でアルヴァが言う。傍らに立つイグニアに繋いだ手を好きにさせている彼女の隣で、ルカは不機嫌に口を曲げながら腕組みをした。
「歩いて行くのだって骨ですよ。宿だって空いてるかどうか」
都自体にはもうすぐ入れるだろう。そこからが問題だ。この人に溢れた大通り、恐らくここには宿がいくつもあるだろう。しかし、その宿の中で空き部屋があるとはルカには思えなかった。
「まあ、探せば一部屋くらい……無いかな?」
「そればっかりは探してみなきゃわかんないですね」
もし無かったら領主ご子息とのコネで何とかしてくださいよ、とルカが冗談――半分本気だったが――を飛ばせばアルヴァはくつくつ笑ってルカの頬を優しくつねった。
「都に入ったら、迷子にならないようにしないとなぁ」
のんびりした姉の声に、ルカは半目でカレンを振り返った。きょろきょろと周囲を見回していたカレンがルカを見る。一応、姉弟の会話は聞いていたらしい。
「な、なんでわたしを見るんですかっ」
彼女はむくれながらそう言うと、ふん、と胸を張った。
「これでも、今まで街の中で迷子になったことなんかないんですからね!」
「ああはい、そうですか。フィオナさん、申し訳ないんですけど彼女と手を繋いでやっててくれませんか?」
迷子になんかなりません! と口を尖らせているカレンを適当にあしらって、ルカはアルヴァの後ろに立って影のように静かに俯いているケネスに目を向けた。
「大丈夫ですか? 熱中症にでもなりました?」
春とはいえ、エレミア地方の砂漠の街道では毎年のように熱中症で倒れる人間が出るという。現に、ルカたちが並ぶ列でも運び出される人が何人かいた。
ルカは頭の上にフォンテーヌが陣取ってくれているのでひんやり涼しいが、ケネスは長そでシャツにロングスカート、その上にストールをぐるぐる巻いて肩幅と短髪を隠しているのできっと暑い思いをしていることだろう。
「……」
声を返さないケネスに、これは本当に熱中症の一歩手前なのかも、とルカは彼の顔をのぞき込む。
「ケネス?」
列が少し進んだのでゆっくり歩きながら声をかけると、一拍おいて彼が反応を見せた。
「……ん? ああ、悪い。呼んだか?」
ルカの方に顔を向けた彼の、唯一隠れていない目元。皺が寄っているので、ルカはトントンと自分の眉間を指さしながらひそひそと口を開いた。
「皺。どうしたんですか、まじで熱中症です? 気持ち悪かったりしますか?」
ルカの言葉にケネスの手が動く。眉間を触って彼は手を下ろし、肩幅が少しでも小さく見えるようになのか手を前で組んだ。ルカが伸びあがって、ケネスがほんの少しかがんでいる。周りから見れば仲の良い姉妹にでも見えるかもしれない。
「んや、別に大丈夫だ」
囁き声を返しながら、ケネスが首を振る。
「じゃあ、どうしたんですか?」
続けて問いかければ、彼は小さく唸って首を傾げた。
「いや……なんか……嫌な予感が……?」
ケネスがひねり出すようにそう言ったすぐ後に、列のすぐ向こうに迫っていた人混みが騒がしくなり始めた。
「君、未来予知でもできるようになったんですか?」
ルカが軽口を叩く間にも、都の中にごった返していた人々は動き続けている。やがてぱっくり割れた人混みを、衛兵らしき装備の人々がのしのしとやってきた。
「はーい、ごめんなさーい。はいはい、もう少し下がってくださぁい」
衛兵たちは口々にそう言って腕を広げながら人々を端に追いやっている。ルカたちの前まで押しやられた人々の中から、とある会話がふいにルカの耳に入ってきた。
「ああ、もうそんな時間かぁ」
「今日は前の方だし、顔くらい見られるかなぁ」
「凛としたイケメンらしいよ」
ケネスの感じた嫌な予感がルカにもうつったようだった。
――いや、正確に言えば彼は馬車で揺られているときからコレを感じ取っていたのかもしれない。
ルカは頬を引きつらせ、姉を見た。彼女はのん気にイグニアと手遊びしている。不穏な気配に敏感なアルヴァが目の前のちょっとした騒ぎを気にも留めないのだから、ルカたちに不利益な騒ぎは起こらないんだろう。その事実が、ルカの予感を更にはっきりさせていく。
列から少しはみ出して、大通りの奥を覗いたルカは静かに目を閉じた。
ルカの予感は、褐色の肌とこげ茶の髪の整った青年の姿で大通りの向こう――エレミア城への道があるであろう方向から気品を漂わせる歩き方でこちらに向かってくる、と言う形で現実のものとなった。