砂漠の澱と篝火の光⑧
炎の渦の立ち上がりと同時に、蠢く闇が大きく退いた。豪炎の燃え盛る音に混じって、昏いあぶくの弾ける悲鳴にも似た音がそこかしこから聞こえてくる。周囲の明るさに気が付いたのか、ルカの肩に顔をうずめて震えていたカレンがゆっくりと顔をあげたようだ。ルカの肩がすっと軽くなる。彼女に少し体重をかけさせてもらっていたルカは支えを失ってよろけかけるが、不調を気取られないようにぐっと足を踏ん張った。
「エクリクシス、この炎はいつまで持つ?」
「この勢いで燃えたって、千年は持つぜ!」
その答えに安堵しながら、ルカは吐き気をこらえて姉を見た。彼女はうねりをあげる炎の壁の向こう、たじろぐようにその昏い色の不定形を揺らす死のサーカス団をじっと見据えてから、ルカに目を移した。その口が言葉を紡ぐ前に、ルカが先をとった。
「姉上、これなら、安全に行けます」
さあ行きましょう、と促しながら、ルカは痛みに乱されそうになる息を大きく吸ってごまかす。
自分の顔は恐らく青白いだろうが、炎の赤が打ち消してくれているはず。そう考えて、ルカは姉の横を通って今度は自分が先頭に立とうとした。
その腕が掴まれる。
「ルカ、大丈夫なのか?」
身近に精霊魔術師がいれば、誰だって『負の魔力による体調不良』のことは知っている。アルヴァだって例外ではない。脳内に響くリュヒュトヒェンの楽しそうな笑い声と頭痛を押し隠し、ルカは彼女に薄く笑んで見せた。
「大丈夫です。さあ、はやく――」
目の奥の明滅にクラリとよろけたのを、前に歩こうと姉を引っ張ることで誤魔化す。しかし、そんなものに騙されてくれる姉ではないことを、ルカはよく知っていた。彼女は心配そうに眉を歪めてルカの顔をのぞき込むと、小さく首を振った。
「大丈夫じゃないな。これ、維持するの大変なんだろう?」
抑えておけなくなって息が荒くなる。走り出せてしまえばどうとでも言い訳できたのに、とルカは横目で姉を睨んだ。
迫る嘔吐感に喉が震える。内部から穿たれるような頭痛に目の前が歪む。
それでも、「大丈夫だ」と言い聞かせ続ければ――逆を返せば、「大丈夫ではない」と言葉にさえされなければ耐えられたのに、とルカは舌打ちした。そんな彼の前で、アルヴァが背を向けて身を屈める。彼女の肩の上、火竜神の鱗のネックレスを抱えてその魔力の流れを調整してくれているエクリクシスが、心配そうにルカを見ていた。
「自分で、走れ、ます」
そう吐き出しても、アルヴァは無言。
無視して走り出してやろうとしたルカの足を、イグニアが掴んで離さない。
ずっとこうしてモダモダしていれば、ルカにだって限界が来る。もしかしたら、その前に気まぐれなリュヒュトヒェンが常若の国へ帰ってしまう可能性だってある。
「……――くそっ」
彼はそう毒づいて姉の肩に手をかけた。
砂漠を炎の渦がゆっくりゆっくり動いていく。その中心、アルヴァに背負われるルカの脳内に、リュヒュトヒェンの声が響いた。
『あれ、ルカどうしたの?』
楽しそうなあどけない声に、ルカは彼女にこの脂汗にまみれた表情を見られないように姉の肩口に伏せながら念じた。
『僕、体力無いから少し疲れちゃったんだ』
『そっかぁ』
聞くだけ聞いて、リュヒュトヒェンは鼻歌を歌い始めた。彼女の時々調子の外れる鼻歌を聞きながら、一行は砂漠をひた走る。それなりの速度で足場の悪い砂漠を走っているというのに、ルカはそこまで揺れを感じなかった。アルヴァが気を遣ってくれているのだ。
悔しかった。
アルヴァを助けるためについてきたのに、これでは足手まといじゃないか。
そんな風に弱気がぶり返すのは、ルカに流れ込む異界の魔力の影響だ。高濃度の負の魔力の中にいると躁状態や異常に興奮した状態になるのだが、それが精霊を介して人の中に流れ込むと、人の心を蝕む黒い雲に変わるのだ。
そうして、限界まで黒雲が立ち込めれば、人の心が砕け散る。
落ち込む心を何とか叱咤して、ルカは風の制御に集中する。リュヒュトヒェンの呼吸に合わせるように強くなったり弱くなったり不安定な風の壁を何とか整えていると、ルカの制御を支えるように内側から結界が貼られた。燃える炎のにおいに混じって、薫風が香る。
「……み、えた……っ!」
ルカの後ろ、フィオナが走りながらそう言ったのが聞こえて、彼は小さく彼女を振り返った。フィオナはカレンに寄り添うように走りながら、組んでいた指を解いて前方を指さしている。その細く白い指の先を辿ってゆるゆると前を見る。炎のちらつきの奥、町のようなシルエットが月明かりの下に確かに見えた。
町が見えた安堵と激しくなる痛みにぼやけ始めた頭で、ルカは必死に考える。
どうして、町が月明かりの下に……?
普段ならすぐに気が付くであろう答えに、ルカはアルヴァの歩数四歩分の時間を使ってたどり着き、ゆるりと顔をあげた。
空の上、昏い昏い黒が、断ち切られた様に途切れている。
これか。ルカは震える手で姉の肩を叩き、上を見るよう促した。頭が小さく動き、それから彼女の背中が膨らんだ。
「みんな、もう少しだ! もう少し走ったら、逃げ切れる!」
鼓舞する声に、後ろを走る四人がそれぞれ返事をするのを聞きながらルカは空を見上げ続けていた。立ち込める黒が、かくり、と首を折ったように見えたのだ。じっと注視して、それが気のせいではないと確信して、ルカは火の精霊に目を向けた。エクリクシスは片手に鱗を、片手にアルヴァがしっぽのようにくくっている赤髪を掴んで、心配そうにルカを見つめていた。
「上、見てくれる? エクリクシス」
彼は言葉に従って空を見上げた。上を見て難しい顔をするエクリクシスのしっぽに指を触れさせると、彼は弾かれた様にルカを見てゆるゆると首を振った。
「……おいおいおい、やめろルカ。俺が炎だけ動かすから、無茶するな」
「それだけだと、確実じゃない……」
だめだ、と首を振るエクリクシスを無視して、ルカは空に溶ける風の精霊へと念を向けた。
『リュヒュトヒェン、聞こえる?』
『なあに、ルカー』
『風をね、上にも回してほしいんだ。こう、僕らにフタをするように』
できるよー、と楽しそうな声とともに炎を孕んだ風がルカたちの頭の上をふさぐ。
『でも、こうやり続けるの難しいから、ルカも手伝ってね!』
ずきずきずき、とルカの速い鼓動に合わせて頭痛が激しくなっていく。アルヴァの背の上で戻しそうになりながら、ルカはリュヒュトヒェンに頷いて見せる。更に流しこまれ始めた風の魔力を束ねて動かしながら、ルカは姉にしがみついた。
生と死の境界線のごとき空から垂れてくる死の塊も、炎の渦には手を伸ばせなかったようだ。ルカたちは、無事に砂漠を越えることができた。
アルヴァがちらりと振り返って息を飲んだのが聞こえた。
何を見たんだ、とかすむ視界で振り返ったルカの目には、自分を追いかけているカレンたちの後ろ、昏いままの砂漠で歩みをぴたりと止めた死のサーカス団の一塊からにゅっと伸びた小さな幼い黒い手が、ルカたちに大きく大きく手を振っているのが見えた。