砂漠の澱と篝火の光⑤
名無しの影は、ゆらゆら体を揺らして泡立った。
「あたしが先導するね。そノ、火、貸しテ」
黒い手が指さすのは、ルカの持つナイフ。
ルカはごくりと唾を飲み込んでから、影の手前に立つ姉を見た。彼女はルカを優しく見つめ、落ち着いた表情でコクリとゆっくり頷いた。
意を決して右足を踏み出したルカだったが、残ったほうの足が嫌に重い。
ぎゅっと締め付けられた左足のふくらはぎに、ほんのり柔らかい物が当たっている。なんだ? と首を傾げそうになって動きを止め、そう言えば……とルカは自分の足を見下ろした。
そこには、蔦か何かのようにルカの足に腕ごと絡みついて、自分を見上げるカレンがいた。
自分のふくらはぎにぴったり体を添わせるカレンをどうしようか、とルカは首をひねる。がたがた震える彼女は、ちょっとやそっとじゃ彼から離れないだろう。
無理やり引きずっていくわけにもいかないよな。
怯えを取り除くには、とルカは自分の左手を見て、それから彼女の頭へゆっくり手を伸ばした。
心臓がムズムズする。
一度は撫でた頭だ、何をどぎまぎする必要が……。
彼女の金糸に躊躇を見せながら伸びた彼の手が止まる。フィオナの細い手がカレンの髪を梳き始めたのだ。一通り撫でてやってから、彼女はそっとカレンの手に自分の物を重ねている。ゆっくり彼女の手をルカの足から引き剥がしながら、フィオナが口を開いた。
「大丈夫ですよ、カレンさん。あの闇は、私たちを守ってくれるようです。ほら、少し落ち着きましょう……」
静かな声でカレンを宥めながら、フィオナがルカを見上げてコクンと頷いて見せる。ここは任せてください、と静かに告げる赤茶の目に、ルカは一瞬動揺して――その動揺がどこから来るのか首を傾げてから、ゆっくり歩きだした。
歩を進めるにつれてさらに強くなる腐臭に眉を寄せつつ、ルカは姉の隣に並んだ。目の前にある蠢く闇に背を凍らせつつも、彼はそれを表情に出さないように努めた。姿かたちが変わっても、たとえその中にひとかけらしかいなくても、目の前の闇には姉の友人が溶け込んでいる。
「……あレ?」
目の前、半分火に照らされている闇が首を傾げた……ように蠢いた。
「なンか、違ウ……? 貸しテ欲しイノ、その炎ジャなくて……ちょット、あなタがもってミテ」
黒い手が、ルカの手元とアルヴァを交互に指さしている。目を見合わせた姉弟は、影に言われるままに動いた。アルヴァの手にナイフが渡る。エクリクシスは刃にしがみつきながらアルヴァの首元を見つめていた。
「うん…‥うーン……アナたが持つと、イイ感ジ」
うーんうーんと唸って身をくねらせ、影が後ずさって広がる闇に溶け込んだ。黒い腕だけ、闇の中からひょろりと伸びて、炎に照らされている。
姉弟そろって首を傾げる。何が「いい感じ」なんだろう、とルカが思考を巡らせていたところで、ぽつ、とアルヴァが呟いた。
「もしかして……」
彼女はナイフを持っていないほうの手で、首元を探った。そして引っ張り出して、火にかざしたのは赤にも金にも輝く鱗が一枚つけられたネックレス。
ごぼごぼ、と影たちが騒めいた。
「あっそレダ! そレに火をつけて、あたしの手に移して! そうすれば、きっと大丈夫!」
ぐぱぐぱ、と握っては開いて催促する黒い手に、アルヴァが「でも」と心配そうな顔をした。
「火を移すって……大丈夫なのか、その、君の手が燃えてしまうだろう?」
こぽぽ、と闇が笑う。黒い手がするする引っ込んで、再び戻ってきた。
「こんナこともアロうかと……じゃーん、カんてラ」
その手に握られているのは、古びたカンテラ。ルカが見たところ、そのカンテラは様々な属性の魔力を燃料にできる代わり、火種が必要なタイプだった。
「これなら、燃えないよ!」
その明瞭な言葉に、そうか、と返してアルヴァがルカを見た。
「これ、燃やして大丈夫かな」
「エシュカ様が火神竜様の鱗だって言ってたし、その点は平気だと思いますけど……一応見せてください」
姉の手から受け取ったネックレスは彼女の肌の暖かさを残していた。ほんのり暖かい鱗に触れて、ルカは集中する。その奥底には滾るマグマのような魔力が満ちていた。それだけ火の魔力が満ちていれば炎程度では燃えたりしないことをルカはよく知っている。
「うん、大丈夫です。でも一応魔力を通しながらじゃないと、革紐が燃える。僕がやっていいですか」
頼む、と姉が頷いたのを見て、ルカは革紐部分を右手に握りこみ姉の持つナイフに手を近付けた。
「エクリクシス」
呼びかけると、彼はこちらを見て「よしきた!」と笑みを見せる。そっと鱗を火に差し入れると、エクリクシスは恭しくそれを持ち上げて、そっと額を付けた。ごぉ、とナイフの纏う炎が一瞬強くなって、のぞき込んでいたアルヴァの前髪を舐めそうになる。慌てて姉が顔を引いたのを、闇がくぷくぷ笑ったような気配がした。
「さ、その火をちょうだい」
言いながら黒い手がカンテラをルカに差し出している。一瞬の迷いを見せてから、ルカはそっとカンテラのふたを開けてネックレスをそっと垂らし、中の芯に火神竜の魔力で燃える火を灯した。
丁寧に抜き出したネックレスの鱗にはまだ火がついていた。ナイフに近付けてエクリクシスに炎を取り除いてもらいながら、ルカは目の前、闇の腕が掲げるカンテラを見つめた。
徐々に強くなる柔らかな光が、ふわ、と周囲を照らす。蠢く闇がじりじり後ずさる。黒い腕だけが、光の中で満足そうにカンテラを揺らしていた。
「ぐぷぷ……やっぱリ、コの明かりダと、僕たチは近ヅケない……でも、あたしは平気」
さあ、行こう。
光が闇を裂く。カンテラを持った手が手招くように上下してゆっくり後退を始めた。
振り返れば、カレンは自力で立てるようになっていた。フィオナとくっつくようにして立つ彼女は、ルカとアルヴァを見つめていた。
二人の横、心配そうなイグニアに自分のズボンを握らせているケネスが、静かに口を開いた。
「……大丈夫なんだな?」
ケネスが言う。何が、と言わないのはそこに沢山を込めているからなのだろう。ルカは姉を見上げた。彼女の瞳はカンテラの光を受けて金色に輝いている。浮かぶ表情は、普段通りの優しさと芯の強さを宿していた。
「大丈夫だ」
アルヴァが答える。顔と同じく優しく芯のある声でケネスの尋ねる全てに「大丈夫」ともう一度返して、彼女は笑顔を浮かべた。しばらく見惚れるようにアルヴァを見つめていたケネスが、頷いた。
ほら行くよ、と言う促しに一行は蠢く名も無き影のあとを追って、暗い砂漠を裂く光の中を泳ぎ始めた。