砂漠の澱と篝火の光④
「なンで、さ、サばくに、いルの? アブナいよ……」
不定形はゴボゴボと濁った音をたてながら、グニャリと体を曲げている。その軟体で唯一形のある幼い腕は、未だに爪を弾いている。
――その癖は、その指を弾く癖は彼女の……。
ルカ以上に動揺を隠し通すのがうまい姉が、その顔を悲痛に歪めて吐いた言葉。
察するに、あの腕の持ち主は彼女の知り合いで、そしてそれは恐らく――三年前に彼女が殺した少女なのだろう。
そうやって冷静に推察できるくらいには、ルカの頭から恐怖は消えていた。それくらい、彼にとって姉が見せた動揺は衝撃だったのだ。
「ネ、少シ……僕らトお話、しようよ……」
コポポ、と目の前の闇が言う。怖気の走る音に、びくりとアルヴァが肩を揺らす。
「おハナし、しながらナラ、きっと怖クないでしょう? 俺たち、自分ノことはわからないけど……ガブブ……きミたちが、怖がってルのはわかるノ」
わかるよ、ともう一回言って、闇に溶け込む不定形が、そっと腕を伸ばしてアルヴァを手招いている。
ざく、と砂を踏む音が後ろから聞こえる。どうやら、ケネス達も立ち上がれたらしい。
ざくざくざく、と勢いよく駆けてきたのはイグニアで、彼女はアルヴァの横に立って瞳に怯えを灯しながらも、薄く口を開いて牙を見せていた。
ずりずり、と這いずってきたカレンがルカの足に縋る。彼女を守るように抱きしめて、フィオナがしゃがみ込んだ。
固まって立つ一行の影が花弁のように伸びている。
光の中心、エクリクシスの炎を纏ったナイフを握るアルヴァの顔は、火の赤を浴びているというのに青白く見えた。
死のサーカス団の断片が、ゆっくり手招きを止める。がぼ、と表面を泡立てた影は戸惑うように揺らいで、それからそっと光と闇の境に手を伸ばし始めた。
一瞬、躊躇でもしたかのような動きを見せて、それから黒い指は、つぷり、と炎に照らされた円の中に侵入してきた。
消えていた恐怖が舞い戻りそうになるのを何とか抑え込み……しかし、ルカは動くことができなかった。
黒い汁を滴らせながら、にゅう、と黒い腕が伸びてくる。
生き物全てが一度は感じる、死への根源的な恐怖がやってくる。
乱れる息を何とか整えようとするルカの横で、青白い顔のアルヴァは、まるで死んだように静かだった。
迫りくる黒い腕を息を止めて見つめているアルヴァの前で、『死』はぴたりと進みを止めた。
少女の腕が、まるで握手でも求めるようにゆるく開かれている。アルヴァの金の目が、じっとそれを見つめていた。
不定形がゆっくり、こぽこぽ、と泡立った。
「あたしたち、君たちを助けたいんだ」
先ほどよりも明瞭な発音は、もはや人間の物と聞き分けることもできないだろう。男とも女ともつかない声が、ルカたちの鼓膜を震わせる。――アルヴァの鼓膜を、震わせる。
姉の手から火竜牙のナイフが滑り落ちたのにルカが気付いたのは、光の円が急に小さくなってからだった。身を寄せ合うようにしていたから、闇の中に放り出される者はいなかった。
急に迫った闇に、ルカの足に縋りついていたカレンが強く強く爪を立てた。
痛みがルカを冷静にする。
ナイフ、拾わないと……!
彼は荒い息のまま恐怖を跳ねのけて体を動かし、ナイフを持ち上げた。
戻ってきた明るさに小さく安堵をしながら、このナイフを今まで持っていた姉に何が起きたのか、とルカは視線をそちらに向けた。
「ここにいたラ、あぶない……だから、助けたい」
ごぽごぽ言いながら手を差し伸べる凝固した闇に、アルヴァは、手を伸ばして、小さく口を開いていた。
ルカが目を見開く間にも、アルヴァの長い指と黒くて幼い短い指は距離を縮めている。
風にでも吹かれれば指と指が触れ合いそうな距離まで来たところで、アルヴァの後ろからがっしりとした腕が伸びて、彼女を引き戻すように捕まえた。
きつく抱きしめられたアルヴァが、はあっ、と強く息を吐く。
「……っか野郎……!」
絞り出すような声でケネスが言った。止めていた呼吸を取り戻すように荒い息を溢すアルヴァが、そろり、と腕を上げるのを彼は必死で押し留めようとしていた。
黒い手は悩むように指を折りたたんで、そして、ぴんぴん、と指を弾き始めた。
「ぐぶ……ほンとうに、助けたいだけ。タべなイよ、僕たチは食ベルのスきじゃないから。ほンとウニ、助けたいだけなの……俺たちヲ、しんジテ……あたしたちは、あたしは、他と違うんだ。君を逃がしてあげたいんだ。逃ゲなきャ……逃げナキゃ……」
助けたい。他と違う。逃がしてあげたい。
その言葉だけ、やけにはっきり呟く目の前の闇に――爪を弾く少女の指に、アルヴァが乾いた唇を開いて問いかけた。
「君は。君は……君の――名前、は」
続く言葉を張り付いた喉からひねり出そうとしているのか唇をハクハクと動かしているアルヴァの前で、闇が小さく震えた。
「名前はわカラなイんだ。ほンとうは、僕らは、もウ、真っ黒になってタはずナンだけど」
ごぽごぽ。かぷ、くぷ。
滑った音を立てながら、闇が続ける。
「あたしの欠片で、こうなってるみたい」
あのね、と明瞭に発する闇が身を揺する。
「あたし、腕は飲まれたの。でもね、誰かが体と魂は、抱きかかえて帰してくれた」
アルヴァが息を飲む。ケネスが腕に力を籠める。
ルカは、ナイフを取り落とさないように気を付けながら、囁く闇に耳を傾けていた。
「だから、あたし、魂はあの人のところに帰れた。残ったあたしの欠片は、これ以上みんながくっついちゃうのを止めたいと思ってて……それだけ。それだけは覚えてるから、助けてるの。……だ、ケど……俺たチ、名前、思えダせなインだ」
だから名前はわからない、と思い出したようにアルヴァの問いかけに答えた闇がもう一度、ゆっくりと手を差し伸べてきた。
「だいジョうぶ、触らナければ、一緒にナラなイの。コッチに、おいデ」
こいこい、と招く手。
判断しかねて、ルカはケネスに抱き止められているアルヴァを見上げた。彼女は、安堵の表情を浮かべて泣きそうに眉を歪めていたが、ルカの視線に気が付いたのか金の目を彼に向けて、それからきつく閉じた。深呼吸を一つして、眉間から力を抜いたアルヴァはゆっくり目を開いた。
凪いだ表情でルカを見ながら、彼女はケネスの腕を優しく叩いた。
「……もう落ち着いた。取り乱してごめんな、ルカ、ケネス」
ちょっと放してくれ、とアルヴァが穏やかな声で言う。
警戒するようにゆるゆると腕から力を抜いたケネスの拘束から抜け出したアルヴァは、数歩前に出て、黒い手の前でぴたりと足を止めた。
「君は、私たちを助けてくれるんだな?」
普段通りの芯のある声だった。アルヴァは握っていた剣を鞘に納めて、腕を見下ろす。
「うん。だって、そのためにあたしの欠片が残ったんだ」
アルヴァの横顔、火に照らされた頬に血色が戻っている。
変わらないなぁ、とアルヴァがほんのり湿った声でぽそりと囁いたのがルカの耳にかすかに聞こえた。
「……優しい闇の、名無しさんたち。私たちのこと、助けてくれるか?」
こぽり、と闇が力強く笑った気配がした。
ごちゃごちゃになってしまった……。