手紙と翼竜③
未だ青い顔のままのカレンを、アルヴァが心配している。その横を通ってルカはキッチンへとコップたちをおいて戻ってきた。
ちょうどその時、風呂に入ってくる、と出ていったケネスと入れ違いになるように、玄関の方へ行っていたエヴァンが誰かを伴って居間に戻ってきた。
「その方が、星花騎士団の遣いですか?」
エヴァンの方から響いた凛とした声に、居間に居た三人は振り返る。エヴァンの後ろに、青い顔のままの目をやったカレンの頬に色が戻る。それから、サファイア色の瞳がキラキラときらめき始めた。
「ああ、母上。ただ今戻りました」
「巡回お疲れ様でした、アルヴァ」
エヴァンの横に立つ、彼よりほんの少し若く見える女性はそう言って笑みを浮かべた。
柔らかく波打つ、ほんのり赤みのさしたブラウンの髪の女性は、それで、と手に持った洗濯物カゴを抱え直してルカに似た猫のようにぱっちりした薄いブラウンの目をカレンに向ける。
一瞬驚いたように――恐らく、マントの下の鎧を見たのだろう、とルカは推察する――目を見張ってから、彼女は柔らかい表情を浮かべた。
カレンが感激を隠しきれないかのように両手で口を抑えてから、慌ててぴしっと姿勢を正すのを横目に見て、ルカは女性、もとい、母親に目を戻した。
「あ、あ、あ、貴女様はっ! 星花騎士団初代騎士団長、ハンナ・キャンベル様!」
「よくご存知ですね、退いてから十六年経ちますのに」
女性はぱちくりと目を瞬かせてから、にっこりと微笑んだ。
「学園の女子寮に肖像画があって……ああ、肖像画そのものです、野薔薇の君とお会い出来るなんて……!」
鼻息も荒く答えたカレンに、ルカとアルヴァは顔を見合わせる。
野薔薇の君。
その言葉に、ああ昔父上が話してくれたっけ、と思いながら、ルカはカレンと、それから元星花騎士団長の母親を見つめていた。どうも、今目の前で穏やかな顔をしているルカとアルヴァの母親は、昔はかなり凄かったらしいのだ。
「ああ、今はただのハンナ・エクエスですから、そんなに畏まらず、楽にしてください」
女性――ハンナ・エクエスは、持っていたカゴを机に置くと、カレンの前に立った。
「遠いところを、よく来てくれました。女王陛下からの手紙を届けてくれたそうですね」
道中怪我はしませんでしたか、とハンナが尋ねると、カレンは上気した顔で、壊れたバネ人形のように何度も何度も頷く。それに微笑んで頷いてから、彼女はアルヴァへと目を向けた。
「それで、手紙はどちらに」
「私が持っています」
アルヴァがクリーム色の封筒を差し出すと、ハンナはそれを受け取って目を通し始めた。
読み終わった頃合いで、エヴァンが尋ねる。
「どうだ。女王陛下の字か?」
ハンナは文字を指でなぞって、深く頷いた。
「確かにリアダン様のお書きになった手紙だわ」
ルカは母に近づいて、覗き込むようにその顔を見る。ハンナはそれに気付いて、小さく首を傾げた。
「ルカ、どうしました?」
「『ナナカマドの庭』って何ですか、母上」
ルカの質問に一瞬目を伏せてから、ハンナは手紙をたたんでアルヴァに返した。
ルカだけではなくてカレンもナナカマドの庭が何なのか気になっているようで、彼女の視線はハンナに釘付けだった。
「イグナール城にある、女王陛下の庭のことですよ」
イグナール城に勤める者なら噂くらいには聞いたことがあるであろう言葉、ナナカマドの庭。
女王陛下と星花騎士団の数名しか入ることを許されていない、室内庭園の名前が、ナナカマドの庭だ。
女王陛下の守護樹である大きなナナカマドと、それをぐるりと囲む草木を眺めると、自分が室内にいることを忘れてしまう、とハンナは言う。そのくせ、その部屋は、大きな天窓から差し込む光のおかげか、冬も夏も同じように暖かいのだそうだ。
アルべリア地方の樹海に住むエルフたちに古くから伝わる精霊魔術によって守られている、と言う噂もまことしやかに囁かれている。
陛下すらも立ち入りを禁じられたこの庭への入り口は、城の中庭の一角にある扉。
そこから伸びる通路を通ってのみ入ることができ、扉には女王陛下の精霊魔術で鍵がかけられている。
侵入を試みようものなら、その不届き者は、扉を守るように生えている鋭い棘を持った茨によって拘束されるという。
――と、ハンナが説明を終えたところで、ルカが眉を寄せた。
「……そんなところで〝お茶会〟、定期的にやってたんですか?」
ルカの訝しげな声に、ハンナは首を振る。
「あそこはどちらかといえば、女王陛下が植物を愛でるためにある場所ですから。お茶会はまた別の場所でやっていましたよ」
「となると、〝お茶会〟というのは何か隠語なのでしょうか?」
アルヴァが尋ねるとハンナは難しい顔をした。
「そういうような物はなかったはず。少なくとも、私がお側に控えていた頃は」
すい、とハンナの目がカレンを捉える。カレンがびくりと身を震わせた。
「貴女、何か知っていますか?」
「いえ、その……わたし、紋章を借りてはいますが……」
カレンはマントの下で草摺に触れたようだった。それから、ごくり、と唾を飲んで、カレンは小さく口を開く。
「――女王陛下から任を拝命するために、借りているだけで……まだ学生なので」
歯切れ悪く言うと、カレンは申し訳なさそうに俯いてしまった。
「とりあえず、城で何か起こっているのは確かってわけですか」
ルカが言うと、ハンナは、エヴァンが陛下に謁見することができていないと知っていたのだろう、彼と顔を見合わせてからゆっくりと頷いた。
アルヴァが表情を引き締める。
「夜が明け次第、カレンを乗せてイグナールへ向かいます」
ルカは両親が頷くのを見てからカレンを見た。カレンはまた真っ青になっていた。
エヴァンは風呂に行くと居間を出ていった。
ハンナは夕食の準備をするとキッチンへ。
アルヴァは、これからのことをイグニア達にも伝えてくる、と手土産を準備し始めた。
恐らく、これに気づいているのは僕だけだ。ルカは眉間にシワを寄せながらそう考えていた。
出発する前に確認しなければ、とカレンを上から下まで観察してから彼はゆっくり口を開く。
「竜、苦手ですか」
ルカはカレンをじっと見つめながら短く言う。
心なしか鋭い声色が気になったのか、アルヴァがふっと顔を上げる。
「い、いえ……ただ、乗ったことがないから」
ルカから逃げるように視線を下に逃がしたカレンに、ルカは腕組みをしながら首を傾げる。
「嘘ついてもわかるんですけど」
「う、嘘じゃない……」
「僕の目を見て言ってみてくださいよ」
カレンは目を上げない。
しびれを切らしたようにため息をついたルカの肩を、アルヴァが落ち着かせるように叩いた。
「まぁまぁ。人それぞれ得意不得意あるだろう。何をそんなに神経質に」
アルヴァののんびりした声に、ルカは変なところで鈍感な姉を睨んだ。
「彼女が竜を苦手だとしましょう。そんな人が初めて竜に乗って、大人しくしてられると思います?」
ああ、と納得したような声を出した姉に、ルカは言葉を続ける。
「それで、落ちたら? 姉上は自分のせいだと感じるでしょう?」
アルヴァは困った顔をしながらカレンを見て、あっ、と言う顔をした。
「そうなったら嫌だから、確認してるだけです。――ああ、姉上だけ先に行って、君は馬で行ったらどうですか?」
そう締めくくったルカは、いい提案でしょう、とカレンに再び目を向けて、ぎょっと目を見開いた。
彼の目の前、カレンは大きな青い目を潤ませいて、鼻頭を真っ赤に染めていた。
つまるところ、泣く寸前。
これに慌てたのはルカだ。
「はっ!? えっ、えっ!? 何で泣く!?」
「ルカ、お前言葉が結構キツイんだから……」
アルヴァが苦笑を混ぜ込みながら言う。
「なん……っ! 僕別に責めてないんですけど! 事実確認しただけじゃないですか!」
「お前の言い方だと、カレンはいらないみたいな風にもとれるからなぁ」
大丈夫だよ、とアルヴァがカレンの肩を優しく揺らす。
「さっきも言ったけど、人間、得意不得意はあるものだ。ルカが言ったように私だけ先に行く、と言うのも一つの手ではあるが、とりあえず乗れるか試してみてから決めても遅くはないさ」
ね? と優しい声色でアルヴァが言うのを、ルカは、まじかよ、と思いながら眺めていた。
普段は割と猫をかぶって生活しているルカは、自分が本来は辛口な方だということをアルヴァに言われずともわかっていた。それに、そういった“手加減”――特に初対面に人に対して――は結構うまいと自負もしていた。
だから、家族でも親しい友人でもない、出会ってそんなに経っていない少女を泣かせてしまいそうになった、というのはずしっと重く心に落ちている。
カレンはアルヴァの言葉に、ぐっとキツく目を閉じてから、顔を上げて頷いた。涙はなんとか引っ込んでいて、ルカは、ほっと息を吐きたくなった。
「今日は家に泊まってもらうことになるだろうし、風呂に案内するよ。温泉に入ったことはあるかな」
その言葉を聞いたルカは、先程ハンナが持ってきていた洗濯物カゴからタオルを二つ取り出して手早くたたんだ。そのうちの一つをカレンに差し出す。
「言い方がキツかったですね、ごめんなさい。――……でも、君の為でもあるのでわかってもらえると嬉しいです」
そのままタオルを押し付けて、ルカはもう片方をアルヴァに投げる。難なく片手でキャッチしたアルヴァは、カレンの肩を擦ってやりながら言う。
「案内してからマグニフィカト山に行くから、戻るのは少し遅くなる、と母上に伝えておいてくれ」
姉の言葉に、わかりました、とルカは頷く。そして、連れ立って居間から出て行く二人を見送ってから、ハンナの手伝いに向かった。