砂漠の澱と篝火の光③
割と動じないほうであるルカの手すら震わせるほどの恐怖が――死の恐怖が砂漠に満ちている。
手の震えを何とか抑えて、ルカは自分に縋りついてガタガタ震えているカレンの肩を擦りながら周囲に目をやった。
闇しかない。その闇の奥に、震えを押し殺して目を凝らす。
黒が、ねとり、と動いた気がしてルカは息を飲んだ。
「……エクリクシス、ナイフの柄から熱だけ取り去ってもらえるか? ここから動かないと……」
濃密な死臭が漂い始める中、死の気配に圧されることなく立ち上がったアルヴァが、その手が白くなるくらいに剣を握り締めながら焚き火の前にしゃがみこんだ。
彼女の目に恐怖はない……そう思ってしまいそうになって、ルカは口の内側を強く噛んだ。痛みと言う生の証をその身で感じて、やっと鈍っていた頭が回り始める。
怖くないわけあるか。今、この瞬間、誰より恐怖を味わっているのは姉上だろう。また誰かを奪われたら、と一番恐れているのは姉上だ。
姉上は、隠すのが上手いだけだろうが……!
ルカは血の混じった唾液を飲み込んで、立ち上がった。縋って顔をあげたカレンは顔を歪めてぼろぼろと涙を流している。悲鳴を上げないのは、あまりの恐怖に声が出せないからだろう。自分もそうだったから、ルカにはわかる。
だから、ルカは自分にできる精一杯で笑みを浮かべた。小さくカチカチと歯が鳴るが、それでもルカは笑んだ。カレンが呆けたようにルカを見上げている。
「大丈夫です。何とかなります」
恐怖を取り除くにはあと何がある、とルカは記憶を手繰る。
幼いころ、ルカが溺れかけて幼いながらに死を覚悟したとき。自分も泳げないのに助けに来たアルヴァは、半分溺れながら自分を助けた後、どうしてくれた?
あの人は、自分も顔をぐしゃぐしゃにしながら、もう大丈夫、と笑って、ルカの頭を撫でてくれた。
ルカは躊躇なくカレンの髪に指を差し入れて柔らかく撫ぜた。
カレンの青い目がわずかに大きくなる。
「……大丈夫」
自分にも言い聞かせるようにそう言って、ルカは姉を振り返った。
「姉上、死のサーカス団が嫌うものとかありますか」
濃度を増す闇に気取られないように、と潜めた声で尋ねると、アルヴァは小さく喉を動かして、首を振った。
「……わからない」
ルカは震える指を隠して顎を擦った。
「……精霊魔術的に考えれば、闇や影は……」
光に強くもあり、弱くもある。
光の中心では闇は生きられないが――光をかざせば闇は濃く長く伸びる。
ルカは、今は姉が持ち上げている火竜牙のナイフに抱き着くように乗っているエクリクシスへ目をやった。彼はアルヴァの願い通りに柄のみから炎と熱を取り去っている。今やナイフは炎の刃を纏っていた。
「炎の結界、張れる?」
彼は渋い顔でルカの右手のリングブレスレットを見た。
「この状態じゃ無理ってもんだ。リュヒュトヒェンを宝石なしでこっちに居させたことないだろ?」
宝石で繋がってるのがフォンテーヌならできたけど、とエクリクシスは濃い闇の満ちる空にフワフワ浮かんで遊んでいるリュヒュトヒェンに目を向けた。
自由気ままな彼女には、砂漠に満ちる死など無きに等しい。
「最悪、あの子が暴走して砂漠の砂、ぜーんぶひっくり返るぞ」
ルカは唸った。
その唸りをか細い震えが搔き消した。
「コんばンは……」
アルヴァとルカの背後の闇が、鳴いた。
ルカの耳の後ろ、ぞわりと産毛が逆立った。
吐きそうなほどの恐怖と、異臭。
生きながらに肉を腐らせ、黒い体に押し込んだ腐汁が漏れ出す匂い――腐敗した昏い匂い。
その匂いに鼻を侵されながら、ルカは軋む体を叱咤して、振り返った。
エクリクシスの炎が丸く照らす闇の縁、そのギリギリに佇む闇より昏い不定形は、奇妙なほど精巧な幼い腕を一本生やして、ぷくぷくと泡立っていた。
腕がゆらゆら揺れている。揺れるたび、その黒い腕は、ぴん、ぴん、と指を弾いている。人差し指から小指まで弾くと、また人差し指に戻って、ぴん、と弾く。人間の指だったなら、爪を弾く音が聞こえてきそうだった。
「こン、ごぼぉ、バンは……」
「あ、ねうえ……」
根源的な恐怖に、一人では耐えられなくなってルカは姉を見た。
そして、動きを止めた。
「……な、んで……」
震える声を漏らしたアルヴァの顔に乗っているのは、恐怖でも恐慌でもなかった。
はっはっと息を引きつらせながら、アルヴァは泣きそうに顔を歪めている。
「こんバンは……がぼっ……コんばんは……」
壊れた機械のように繰り返す不定形の横、ゆらゆら揺れながら指を弾く幼い腕を見つめ、アルヴァが震える唇を開く。それはほとんど独り言で、彼女はルカが隣にいるのを忘れているようだった。
「な、なんで……その癖は、その指を弾く癖は彼女の……」
アルヴァの声に、不定形が定型以外の言葉を返した。
「あア、やっぱリ、ニンゲンが、いた、ごぶっ……んだネ……」
なんで砂漠にいるの、と続くたどたどしい昏い不定形の言葉は、どう聞いても、鳴き声や泡立ちがたまたま言葉をを成しているようには聞こえず――どうやら、目の前にいるコレは、ルカたちに話しかけてきているようだった。