挿話――夜営①弟と姉の場合
結局、その日のうちに砂漠へは辿り着かなかった。
アルヴァとケネスの見立てでは、あと一日も歩けば橋を見つけられるだろうとのこと。なので一行は、森の中、ポカリと開けた場所で早々に夜営の準備を始めた。結果、陽が落ちきるころには寝床の準備も夕食の準備も、全て終わっていた。
アルヴァ謹製のほんのり辛い干し肉のスープに舌鼓を打った一行は、食後の時間をそれなりにゆったりと過ごしている。六人が囲んでいる焚き火がパチパチさえずるのが、何とも長閑だ。
「今日の不寝番は私がやるよ」
焚き火の音に重なるアルヴァの声に、ルカは隣に座る姉を見上げて口を開いた。
「じゃあ僕も」
「ルカは寝ていいよ。ほら、お前は私より頭を使うだろう。だから眠って脳を休めたほうが……」
私一人でも大丈夫だよ、と言うアルヴァに、ルカはフンと鼻を鳴らす。
「こちとら徹夜にも脳の酷使にも慣れ切ってるんですよ」
仮眠を入れつつではあるが、ルカは最長で一週間、昼夜を問わずに研究に溺れたことがある。
流石にその時は、脳みそが震える程に頭を酷使した。結果、ぶっ倒れてしまったのを、ルカはよーく覚えている。結局その後、実験終了と同時に研究室に乗り込んできたアルヴァに無事回収されて、ルカは自分のベッドで泥のように眠った。
――実は最近、徹夜の記録更新をしたことは姉には内緒のルカである。
「それはそれでどうかと思うけどな」
最長記録更新したらしいじゃないか、とケネスがニヤリと笑う。一体どこでその秘密を知った、とルカは慌てて、彼に向かって『黙れ』のジェスチャーを送る。
あまり無理はするものじゃないぞ、と心配そうなアルヴァの声。ルカはその声に対しては、無理に関しては姉上に言われたくないです、と舌を出してやった。
焚き火の音も相まって、とことん、のんびりとした空気が流れる。
一瞬満ちた静寂を破ったのは、六人の囲む焚火の中からの声だった。
「アルヴァ、ルカに甘えとけよ。一人で寝ずの番は退屈だぞー」
柔らかい男の声に木の爆ぜる音が混ざって響く。
焚き火の奥、組まれた枝の中心に、そっと横たえられた大振りのナイフ。その上に座る小さな影をじっと見つめていたカレンが、小さく肩を揺らした。
焚き火の上を漂っていたフォンテーヌが、男の声に同意する。
「アルヴァが頑張り屋さんなのはよーく知ってるわ。でもね、貴女があんまり頑張ると、ルカってば不安になっちゃうから……ね?」
おねがぁい、と甘えた声を出しながら自分にすり寄るフォンテーヌに、アルヴァが苦笑を浮かべて頷いた。それから、彼女の金の目が焚き火へ向く。
「フォンテーヌとエクリクシスに頼まれては、断れないな」
「ありがとな、アルヴァ」
――火の中で笑うのは、火精霊のエクリクシス。
燃える炎の中でも埋もれることのない逆立つ赤い髪。
橙色の瞳に、熱した石炭のような赤の瞳孔。
人ならば耳のある位置を飾るのは両生類の物に似た外鰓が三対。肘から先、腕の外側には、赤い鱗が輝いている。
上半身に纏うのは、燃える炎のような色のノースリーブ。下半身を覆うのは、赤から黒へとグラデーションのかかったベルボトムのズボン。
フォンテーヌと並び立って手を取り合っていれば、そのまま社交ダンスができそうな服装だ。それから、胡坐をかいて座る彼の背後には、太いしっぽが伸びている。
エクリクシスはルカに力を貸してくれている精霊の一人である。
アルヴァの『貴族に決闘申し込み事件』の時にルカの傍にいて、ルカの怒りが火事を引き起こす前にアルヴァを呼びに行った火精霊とは、他でもない彼のことだ。
通常は、仮契約の精霊を同時に何人もこちらの世界へ喚ぶと、余程優れた精霊魔術師でもなければ、異世界の気配が体に浸み込んで不調をきたす。軽度では頭痛や吐き気、ひどいときは昏倒してしまうこともある。
しかし今、ルカは頭痛の一つも起こすことなく静かに座っていられている。
これはひとえに、フォンテーヌとエクリクシスがルカに気を使ってくれているおかげだった。二人は長くを生きる精霊で、そうした調整が非常に上手い。
加えて、エクリクシスは火竜の牙を加工して作られた大振りのナイフ――旅立つ際に火竜の長のエシュカに持たせてもらったものだ――に腰かけている。火竜の牙がエクリクシスのまとう異界の魔力を吸収していることも、ルカへの負担軽減に大きく関わっていた。
エクリクシスが、木の枝をもてあそびながら笑顔で口を開く。
「じゃあ、今日の不寝番はルカとアルヴァと、俺とフォンテーヌだな」
決めることも決まったしお喋りでもしようか、とエクリクシスは笑みを深めてそう言った。
――夜が深くなり、静寂が満ちる森の中。ぱちぱち、と薪が爆ぜる音と寝息が調和しながら、ルカの鼓膜を静かに揺らす。
彼は植物小事典を閉じて、隣のアルヴァを見た。
「そういえば、姉上」
「んー?」
端のかけ始めた月が真上に差し掛かった頃、二人は声を抑えて会話する。
「街道で、人攫いと出くわした時」
ぽつぽつと呟くルカの横顔を火が照らす。
とろりと燃える焚き火の中から、ナイフの上に寝そべるエクリクシスの目がルカを見上げていた。
「うん」
アルヴァが、穏やかな金の瞳に火の赤をほんの少し溶かして、ルカを見ながら頷いた。
「啖呵切ったでしょう、お前の右手をぶった切るぞ、みたいな感じで」
――早く彼女を離さないと、君の右手は……君の右手だったものになってしまうが。それでもいいか?
アルヴァの冷えた声とセリフを思い出しながら、ルカはゆっくりと瞬く。
「すっ……ごく姉上らしくない啖呵だったから記憶に残ってるんですけど、アレって誰かの受け売りか何かですか?」
あれなぁ、とアルヴァは面白そうに笑みを浮かべた。それから、ルカを見ていた目をスイっと動かして、月を向かって目を細める。
「あれ、ケネスだったらどう言うかなぁ、と思いながら口を開いたらあんな感じになったんだよ」
「あー、ケネスか。納得」
「……おい、俺なら納得ってどういうことだよ」
寝ているはずの人物の声が、二人の鼓膜を揺らす。焚き火の向こう、こちらを向いて眠っていたケネスが、薄く目を開けながら笑っている。
「あれ、起こしちゃったか」
アルヴァの静かな声に、ケネスは誘われるようにあくびをしながら答える。
「自分の話されてれば、嫌でも起きるだろ」
あんな小さい声で話してたのに、相変わらず耳がいい。そんな風に感心しているルカの視線の先で、ケネスはゆっくりまばたきをしながら口を開く。
「俺、そんな事言いそうに見えてるのか?」
ケネスの普段よりのんびりした声に、ルカは頷きを返す。
「ええ」
ルカの即答に、アルヴァが面白そうにクスクスと、控えめに笑う。
「心外だな……」
「ごめんごめん」
「流石に即答過ぎましたね、ごめんなさい」
笑みを混ぜながら謝るアルヴァとルカに、ケネスが言葉を付け足して目を閉じる。
「俺はあんな遠回しな言い方しないぞ」
んふ、と姉弟して吹き出しかけたのを片目を開けて確認したらしいケネスは、満足そうに笑って「じゃ、おやすみ」と布団代わりのマントを掛け直して目を閉じた。
ケネスが再び寝入ってからは、またしばらく無言が続いた。
嫌な無言ではないのはやはり家族だからなんだろうな、とルカはぼんやり焚き火を眺めながら考える。
視線の先では、水のクッションを抱えたフォンテーヌがふわりふわりと焚き火に近づいて、薪を火の中に差し入れている。寝そべったままそれを受け取ったエクリクシスは、火に舐められても燃えない――火の中で何を燃やしてどれを残す、などということは火精霊には朝飯前だ――薪をもてあそびながら、フォンテーヌと静かに会話している。
通常は、真逆の逆属性でそこまで仲の良くない水精霊と火精霊だが、フォンテーヌとエクリクシスは例外だった。
今もフォンテーヌは柔らかくリラックスした表情をエクリクシスに見せていて、エクリクシスも楽しそうに微笑んでいる。
その光景を眺めながら、ルカは隣で剣の手入れをしている姉に再び声をかけようと口を開いた。
――姉弟がぽつぽつとゆっくり会話する音は、空が白み始めるまでずっと、静かに空気を揺らしていた。