11. 大切なものを賭けて①
「ほう。ほうほうほう、ほぉーう?」
人攫い騒動で出会った犬耳少女を見つめて固まっていたルカは、獣人たちの王――コルセスカの心底愉しそうな声に、はっと我に返った。
コルセスカは組んでいた足を解き、前のめりになってアルヴァを見つめていた。
これ、街道で会ったって気づかれてないか?
ルカはそっとアルヴァの手の甲に自分の手を触れさせて、小さく指を動かす。
ヤバくないですか、とルカが書き終えると、アルヴァは視線をコルセスカに定めたまま、ゆっくりと手を動かしてルカの手の甲に触れた。
さらさら、と小さく動いた指で書かれたのは、ヤバイ、と言う単語だけだった。
「其の方の匂い、覚えがある気がするぞ? その背格好……」
コルセスカのもったいぶるような声を遮って、顎を上げて彼女を真っ直ぐ見つめるアルヴァが言う。
「どこにでもいるような男、です。……誰かとお間違えなのでしょう」
ルカが聞いた中で、もっとも低い声だった。恐らく、作れる限界の低さの声でそう言ったアルヴァの、兜の隙間から見える喉が上下する。
コルセスカの言葉を遮ったのが気に食わない獣人たちが、再び吠え始める。しかしそれは、彼女がすっと小さく手を上げるだけでピタリと止まった。
コルセスカはスラリと足を組んで、玉座の背に身を預けると一層愉快そうに笑んだ。
「フランキスカ、余の可愛い妹姫よ。お前はどう思う、この――男のことを」
人攫いに攫われかけていた獣人の少女――フランキスカが、びくりと肩を跳ねさせて、ルカから目を逸らしてコルセスカを見た。
フランキスカの大きな黒い瞳に、隠しきれない狼狽が灯っている。
それを下からのぞき込むように見つめて、それからコルセスカはルカたちを手で指し示す。
「っあ……。わ、私……」
彼女はコルセスカとルカに忙しなく視線を動かして、それから唇を震わせた。
「お姉様、あの、私は……私は――」
彼女の手は、パステルカラーのワンピースの裾をぎゅっと握りしめていた。
「――こ、この人たち、知りません。……知らない人です」
可哀想なほど震えた声だったが、彼女はルカたちを庇ってくれた。ちらりとルカの方を見たフランキスカが、直ぐにその目を逸して俯く。
コルセスカの笑みが深くなる。
「――ほう、そうかそうか。ふぅむ、カトラス。お前はどう思う?」
彼女の問いに、ポニーテールの薄褐色の肌の獣人――カトラスが表情を動かさずにルカたちを見つめ、ピクピクと片耳を動かして、それから口を開いた。
「はい、コルセスカ様。上辺だけなら匂いは誤魔化せてしまいます。一度その、男、の兜を取り上げるのがよろしいかと」
引っかかりのある言い方で、カトラスは静かにそう言った。
「ああ、それがいいな。カトラス、その者の顔を余の前に晒してみせよ」
コルセスカが頬杖を付いて楽しそうに言うと、カトラスは短く返事をして、ひたひたとアルヴァの前までやって来た。アルヴァを見下ろす彼女の目に敵意は見られない。
しばらくアルヴァを見つめていたカトラスは、前触れなくアルヴァの兜へ手を伸ばした。
アルヴァは彼女の手が兜に触れる直前で、その手首を掴んだ。
向きこそ異なるが、街道でナイフを突きつけられたられた時のような牽制を見せたアルヴァに、カトラスはゆっくりと表情を崩した。
笑っていた。
彼女は、薄っすらと唇を開き、蠱惑的にうっそりと笑んでいた。
目には、遊び相手を見つけた喜びに似た輝きを宿し、唇の向こうの鋭い牙を見せて、カトラスはアルヴァに笑みを向けている。
この笑みの剣呑さに気がついたのは、ルカだけでは無かった。彼女と相対しているアルヴァの纏う空気が鋭くなる。
その隣、ストールの隙間からカトラスを捉えるケネスの赤紫がすっと細くなった。
今にも飛びかかりそうな様子の彼の腕を、アルヴァが、カトラスの手首を掴むのとは逆の手で握ってこの場にとどめていた。
アルヴァが、静かに口を開く。
「……酷い傷があります。女性の前に晒せる顔ではありません。どうかご容赦ください」
緊張した空気を揺らす低音に、カトラスは、一層深く笑ってから、すっと無表情に戻った。
アルヴァがゆっくりと手を離す。するとカトラスは、おとなしく腕を引いた。
長いポニーテールを優雅に揺らして、カトラスは彼女の王の後ろに戻り、耳に口を寄せていくつか囁いて、それからすっと背筋を伸ばした。
獣人の王は、それはそれは楽しそうに笑みを浮かべた。
「なるほど、なるほど……其の方の心遣い、余は感銘を受けた」
いっそ白々しい声で言いながら、コルセスカが玉座から立ち上がった。赤い毛皮がふさりと床を撫でる。すたすたとアルヴァの前にやってきた彼女は、ゆっくりとしゃがみこんで、兜の物見の奥を覗くようにぐっと顔を寄せた。
「余は其の方を気に入った。閨に伴ってやろう」
甘ったるい囁き声に、アルヴァが少しのけぞった。
「わっ……たしには、心に決めた人がおります。どうか……」
一瞬素に戻った声を何とか持ち直して、彼女は低くそう言った。
その言葉を待っていた、と言う笑みを浮かべてから、コルセスカが大げさな様子で立ち上がって、大きく首を横に振って見せた。
「何と! この余の、コルセスカ・リィカ=アデルフェの寵愛がいらぬと言うか!」
なんたることだ、なぁ、お前たち。
コルセスカの芝居がかった声を合図に、周囲の獣人たちが一斉に吠え立てた。
気配にそこまで敏感ではないルカでも分かる殺気に、肌が泡立つ。
しばらくして、コルセスカが小さく手をあげてそれを鎮める。
玉座の前に立ち、あげた手をそのまま胸の前で組んだコルセスカは、薄く微笑んでいた。
「ならば、古くより伝わる方法で、其の方を勝ち取ろうではないか」
古くより伝わる方法? とルカは眉を寄せながら首を傾げた。
それに答えるように、コルセスカが手を叩く。
「決闘の準備を!」
周囲の獣人があわただしく動き始める中、取り残されたルカたちは、コルセスカを見上げるほかなかった。
「決闘……?」
アルヴァの声に、コルセスカがにんまり笑う。
「ああ、決闘だ」
「準備などと、私が断る、と言ったら――」
「其の方は断れんよ」
とさり、と玉座に身をゆだねたコルセスカが満足そうに笑っている。
ルカは嫌な予感がした。
「余のカトラスが勝てば、其の方は余の閨に。しかし、他はいらぬ。他の者は手垢の一つもつけさせず、無事に森から返すと誓おう。其の方だって、何も永遠にこの森の中と言うわけではない。数週間もしたら、出してやろう」
広間に満ちる甘い香よりトロリと甘美な声が、出ていけるものならば、と付け加えて淫靡に笑う。
其の方が勝てば、とコルセスカは潜めた声で続けた。
「其の方との夜も諦め、全員無事に森から返すと誓おう。……さぁ、どうする?」
まずい、とルカは思った。
姉上にこの手の取引は、まずい。
勝っても負けても、ルカたちは無事に森から出られる。
負けたところで、困った状況に陥るのはアルヴァだけ。
こんな取引は――。
「――……わかった。その決闘、受けて立つ」
――自分の身など二の次のアルヴァは絶対に頷くに決まっている。
芯の通った声ではっきりそう答えたアルヴァに、コルセスカはしたり顔で口の端をあげた。