炎をくだす、北の森の支配者⑤
ぜえはあ、と荒く呼吸をしながら、ルカは背後を振り返った。
追ってくる物はなく、木立の隙間に見えるのは、偵察に向かったアルヴァとケネスの髪の、赤とくすんだ金のみだった。
赤く染まっていた木漏れ日が、徐々に光を弱くし始めている。夜行性の生き物が起き始める頃だろうか、夕暮れと夜の境目の森の奥で、ルカは膝に手をついて咳こみながら息を整える。
ルカと似たような状態のフィオナが、途中で転んで頭に葉っぱをたくさんつけたカレンの、早い間隔で上下する背中を擦ってやっている。
げほげほと咳き込むルカに、イグニアが寄ってきた。イグニアは彼を無表情でじっと見上げると、心配を表すようにルカの太ももにピタリと頬を寄せた。
んー、と伺うような鳴き声を出したイグニアの頭を撫でて笑んでから、ルカは、ハアッと大きく息を吐き出した。
「あーくそ……こんなに、走る、ことに、なるとは……」
息も絶え絶えに吐き捨てて、ルカは星が輝き始めた空を見上げる。
薄紺色の空を背景に、ルカの目の前にニュッと顔を出したフォンテーヌが眉を八の字にして、立てた人差し指をくるりと回した。人差し指の先に、一口サイズの水球が浮かんでいる。
「ルカ、飲むかしら?」
ありがとう、と礼を言ってルカはカプリと口に含む。瞬間、水球が弾けて、澄んだ水がルカの喉を潤した。ちょうどその時、後ろの木立からアルヴァたちが戻ってきた。
「もう追ってきてないみたいだ」
ひとまず安心して大丈夫そうだよ、と呼吸を乱すことも咳込むこともなく、アルヴァが言った。空を見上げて、それから今いる場所を眺めていたケネスが、それに続くように口を開く。
「どうする、今日はここで休むか?」
そういうケネスの格好は目も当てられなかった。
濃紺のワンピースの裾は見るも無残にところどころ破れている。胸元にあったはずの大きなリボンは、走るときに邪魔でむしり取ったのか、見当たらない。
その格好で、ケネスは開き直ったように腕組みをしている。
ケネスの姿を見ないようにしてやりながら、ルカは小さく頷いた。
「勝手を知らない初めての森で、あまり奥に行くのも怖いですもんね」
森と言う物をよく知るエルフのフィオナが大きくそれに同意する。彼女も、この森の奥に行くのは不安なようだ。
うーん、と周囲を見回している姉に、ルカは「そういえば」と武器屋で聞いた話を彼女に伝えた。
『この森に入った男は腑抜けて帰ってきて、女は似度と帰ってこない』らしい、と聞いたままを言うと、カレンが話を思い出してなのか、顔を青くしてそわそわと周囲を見回し始めた。
ふむふむ頷くアルヴァが口を開く前に、フィオナが声を出した。
「私も似たような噂を服屋さんで聞きました!」
そう言って彼女が教えてくれた噂は、こうだった。
『この森には男を嫌う怪物がいる。入った男で、帰ってこられた者は、傷だらけで帰ってくる。そしてどんなに豪胆だった男でも二度と女に逆らえず、怯えて過ごすようになる。女は誰一人として帰ってくることがない』
ルカの聞いたものより少し詳細なその噂は、服屋の店員が教えてくれたものらしい。
「その店員さんの息子さんが、『森から帰ってきた』方らしくて……ちょうど、お店のお手伝いをしていらしたんですが」
フィオナが不安そうに周囲に目を走らせてから、アルヴァを見上げた。
「……腕や首、顔なんかにも、小さな獣が噛みついたような跡や、鋭い爪で切られたような傷跡がまだ残っていました。前は乱暴者だったそうなんですが、人が変わったようにおとなしくなったって」
そうおっしゃってました、とフィオナが声を潜める。
ルカとアルヴァは顔を見合わせた。
そんな生き物います? と問いかけると、アルヴァは唸って首を傾げた後に肩をすくめた。
「わからないが……でも、そうだな、警戒するに越したことはない。男が、襲われるんだよな?」
はい、とフィオナが頷く。真剣な表情で考え込んで、それからアルヴァは皮の胸当ての留め具をパチンと外した。二つ、三つ、と留め具を外して胸当てを地面に置いたアルヴァは、ぷち、とシャツのボタンを一つ外してルカにスッと視線を流した。
「ルカ、フィオナが買ってきてくれた服に着替えてくれ」
姉の真剣な目に、ルカは苦いケールに煎じた苦虫を振りかけて口いっぱいに頬張ったような顔で、しかし、頷いた。
そんな彼に、フィオナから服が手渡される。
フリフリの少ない落ち着いたモスグリーンのワンピースだった。丈も長めで露出も少ない。胸元と、腰の後ろに大きなリボンが付いているのは、恐らく体型を隠すためだろう。
ルカがなるべく嫌な気分にならないように、と選んでくれたことがひしひしと伝わってきて、彼は柔らかく微笑んだ。
一旦フィオナの前から退いて、ルカはボロボロの令嬢の腕をとって引きずって、再び彼女の前に立った。フィオナの手からケネスの服も受け取る。
彼に用意された服は、ゆったりしたブラウスに同じくゆったりした長めのカーディガン、それと、ワインレッドのロングスカートだった。しっかりと受け取ったルカは、ケネスのため息を無視して引きずりながら、茂みへ着替えに向かった。
さて着替えるか、とマントを外したところで、茂みが揺れてアルヴァが分け入ってきた。彼女は片手でプチプチとボタンを外している。
「何してるんですか姉上」
服を脱ぎながらルカが問うと、アルヴァはもう片方の手に持っていたシャツを掲げた。あ、とケネスが声をあげる。
「それ俺の」
「ああ、ちょっと思うところがあるんだ。しばらく貸してくれ。で、ケネスはこれを」
そう言ってアルヴァが指さすのは、今、彼女が着ているシャツだった。
着替え終わった三人が茂みから出ると、恐怖に怯えていたはずのカレンが目を輝かせた。
「二人とも可愛い!」
ルカもケネスも渇いた笑いを返す。その横で、くぐもった笑いを小さく響かせているのは、ルカが買った中古の兜を被り、ほんの少し大きなケネスのシャツを着たアルヴァだった。彼女は、ルカにまとわりついて彼をいろんな角度から見つめるカレンを通り過ぎると、皮の胸当てを拾って身に着け始めた。
ケネスも衣類バッグからストールを引っ張り出して頭と肩幅を隠している。すこし窮屈そうだったのは、アルヴァのシャツがぴったりサイズだからだろう。
「――よし、とりあえずこれで……っ!」
準備を終えて、そう言いかけたアルヴァがばっと顔をあげる。
イグニアが小さく唸って、フォンテーヌがルカの肩に乗って彼の頬に手を触れる。
姉に釣られてそちらを見たルカの目に映ったのは、濃くなり始めた闇の中、きらりと浮かぶ七対の瞳だった。
ひう、と短く悲鳴を上げて、カレンがルカに縋りついた。彼女を庇うように立ちながら、ルカはじっと相手を睨む。
「女が五人の男が一人……」
光る目はアルヴァをじろりと見つめている。
「にしては、男くさいぞ」
すんすん、と鼻を鳴らす音がする。まさかこいつらが『男を嫌う怪物』か、とルカが眉を寄せる。それから、アルヴァの『思うところ』と言うのが、その怪物が見た目に騙されてくれないタイプの可能性がある、と言うことだったのだ、と思い至った。
「怪しいぞ、怪しいぞ。なあ、姉様。こいつらは怪しい」
がさり、とこちらに出てきたのは、丸みを帯びた大きな犬耳の、引き締まった体つきの女たちだった。
「怪しいな、妹よ。まずはいつもどおり、王さまのところに連れて行こう」
びん、と縄を張る音が後ろから響く。
ルカたちに相対している彼女たちの、黒と黄褐色と白の、三毛の斑の短い髪が風に揺れている様が、街道の人攫いの一件の時に出会った犬耳少女の物と被って見える。
ルカは、これはまずいかも、と内心で呟いて冷や汗を流した。