炎をくだす、北の森の支配者②
今日はもう一話投稿する予定です!
炎狼の牽く車から降りてきたその人は、大股でこちらに向かってきていた。
顔も性別も、頭からくるぶし辺りまでをすっぽり覆うマントに隠されている。
ルカたちの前に立つ犬耳の少女は、軽く唇を噛んで、伺うようにその人をじっと見つめていた。やがて少女の前にやってきたその人は、モジモジと胸の前で手を動かしていた少女の手首を掴んで、まるでルカたちから隠すように自分の方に引き寄せた。こちらには背を向けているというのに、その人物はまるで隙が無いようにルカには感じられた。
「……姫。だから森から出るときは声をかけろと言ったのだぞ」
静かな、少し高めの声だった。その人物――声からして女性であろうその人は、犬耳少女の頤を持ち上げて、自分の顔に引き寄せる。フードの隙間にちらりと見えた黒い目が、ルカたちを睨んでいる。
犬耳の少女はぎゅっと目を閉じて、耳を寝かせながら、口を開いた。
「――ごめんなさい」
「森を出て、攫われた仔どもがどれほどいると思っている。心配で気が気ではなかったぞ」
深いため息を吐いた女性が、少女の頤から手を離し、少女のために曲げていた腰を伸ばしてルカたちに向き直った。
ルカは目の前の二人から目を逸らし、姉を見上げ――目を瞬いた。アルヴァは、ルカの斜め後ろに目を向けて、集中した顔をしていた。
どうしたんですか、とルカが尋ねようとしたところで、小さいが鋭い声が空を裂いた。
「やれ、カトラス」
ぞわり、とルカは首の後ろの産毛が逆立った気分になった。場に緊張が満ちて、隣で空気が動いた。
その冷たい声と同時に、犬耳の少女が女性に縋りついて悲鳴じみた声で叫んだ。
「やめて! その人たち、わたしを助けてくれたの!」
その声で、張っていた緊張の糸がぷつりと切れる。
ルカは静かに目を見張った。
ルカの視線の先、アルヴァの喉元にはナイフが突きつけられていた。
その刃が細かく震えている。そっと視線を移すと、そのナイフの装備者の手首を、アルヴァはしっかりつかんでいた。そのことに安堵しながら、ルカはごくりと唾を飲んで、アルヴァの後ろに目を向ける。
彼女の背後には、彼女より少し背の高い、薄い褐色の肌の冷たい目の、少女の物と似た丸みを帯びた犬耳の女性がぴたりと沿うように立っていた。空に舞っていた長いポニーテールが、ふさり、と落ちて女性の背中に落ち着いた。
二人の奥、アルヴァの隣に立っているケネスが、突き付けられたナイフを見て、そして、ルカと同じようにその腕を辿ってアルヴァの背後に目を向けて、それから牙を剥く狼のような顔をした。アルヴァのこととなると沸点の低い彼が、冷たい目の犬耳の女性にとびかからないのは、アルヴァの首の薄皮一枚のところに刃が迫っているからに他ならない。
ルカとアルヴァの間、軽く口を開いて前方を睨むイグニアも、今のアルヴァの状況に身じろぎ一つできないようだった。
ルカは、ゆっくりと、顔を前に向けた。
フードの女性は、犬耳少女の必死な顔を見下ろして、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
それを合図にしたようにアルヴァの首元からナイフが引いていく。ナイフの持ち主は、大きく後ろに飛び退いてから、フードの女性のもとへ駆け戻った。
「それはそれは……失礼なことをしたな、そこの」
作った優しい声に、アルヴァは何でもないような声で答える。
「気にしないでくれ」
怪我もしてないし、とアルヴァは偽りない笑みを浮かべる。フードの女性は興味深そうな雰囲気でアルヴァを見つめて、それから笑ったようだった。
「肝の据わった女だな」
フードの女性の後ろに控えた褐色肌の女性は、丸みを帯びた大きな犬耳をぴくぴくさせていた。今はその目に生き物らしさを戻して、彼女は静かに立っている。
「姫の様子を見るに、お前たちが姫を助けたというのは本当のようだ」
今度は作り物ではない暖かい声だった。フードの女性は静かに進み出てアルヴァの前に跪くと、彼女の右手を持ち上げた。
「姫の恩人に対する非礼を許せ。心配で、気が立っていたのだ」
そう言ってアルヴァの右手に口づけると、女性は豪快にフードを脱いだ。
黒と茶褐色の外はねの短髪の下、整った顔に黒く煌く瞳がアルヴァの金の目を射抜いている。
アルヴァよりも幾分か大人びて見える彼女の頭の上で、丸みを帯びた犬耳がぴこりと動いた。
「礼と言っては何だが、何かしてほしいことはないか?」
女性は整った顔に色気を帯びた微笑みをのせてアルヴァを見つめている。
アルヴァは目を見開いて数度瞬きをした後、女性に目を合わせるようにしゃがんで微笑んだ。
「礼なんて。私たちは当たり前のことをしたまでだ」
どうか気にしないで、と言って肩を擦ってやってから、アルヴァは立ち上がった。
それから、彼女は子供たちがひょこりと顔を出している馬車に視線を向けてから、アルヴァを追うように立ち上がった女性に向き直った。
「――やはり一つ、頼んでもいいだろうか」
「ああ。なんでも申すといい」
「それでは……あの子供たちを、街の常駐騎士のところに送ってほしいんだ」
ああそんなこと、と女性は朗らかに笑んで手を振った。
「元よりそのつもりだ。あれらの住処は縄張りへ戻る道の村だ。匂いで気が付いてしまった以上、責任もって返す。何より、仔を捨て置いて帰るなどと、姫の前であまり非道なことはしたくないのでな」
車につなげて牽いて帰る、と笑った女性に、アルヴァは安堵した表情を浮かべていた。
そんな和やかな雰囲気についていけていないのがルカだった。
冷え切った緊張から、ほのぼの和やかなんて、落差が大きすぎる。呆然としているといってもいいルカだったが、それでも子供たちは無事に自分の家に帰れそうだということだけはわかって、安堵の息を吐いた。
犬耳の女性は、他にできることはないのか、と何度も何度も聞きながら、少女の手を引いて車に戻っていった。そのたびに、アルヴァは快活に笑んで「ああ」と返事をしていた。
しぶしぶ、と女性が炎狼に指示を出す。炎狼たちは従順なようすで動いて、そして車がゆっくり動き出したころには、ルカの頭の回転も戻ってきていた。
子供が無事、姉上も無事、みんな怪我無し。
ならまあいいか。
頭の回転が戻ったって、考えるのが面倒になることはある。ルカは、嵐のようにやってきて、そして静かに帰っていく彼らを見送った。
と、少女が窓から身を乗り出して、口に手を添えたのが見えた。
「――親切なお兄さん、お洋服、大切にするね!」
ばいばい! と手を振る少女に、ルカは小さく手を振り返しながら、少し感動していた。
素晴らしい子だ。初対面で僕を女と間違えないなんて。
ルカは少し腕の振り幅を大きくして、少女が見えなくなるまで見送った。