10. 炎をくだす、北の森の支配者①
ルカは、マントの留め具の調節をやめて、ふと顔をあげた。
馬車の方からやってきた背の高い人がルカを見て「あっ!」と言う顔をして駆けてきた。
濃紺のロングスカートをぐちゃぐちゃにたくし上げて、その人は、しなやかな筋肉のついた足で大股にルカに近付いてきていた。
「ルカ! この、裏切ったなお前!」
「何のことですか? あ、ケネス。君ほっぺに血が付いてますよ」
大丈夫ですか? とすっとぼけて返すと、ケネスは「返り血だ」と乱暴にそれを拭って、そしてルカの胸に指を突きつけた。
「お前、服、あげただろ。犬耳の女の子に」
「ああ、まあ。だって仕方ないでしょう、泥だらけで突っ立たせておけっていうんですか、君は」
わかりやすく眉を潜めて、芝居がかった声で言えば、ケネスは鼻に皺を寄せながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「そうは言わないけどな、お前、ずるいだろ。何だっけ? 死なばもろとも、じゃなかったのか?」
「まあ、落ち着けってケネス」
アルヴァが彼を宥めて肩を擦る。ついでに、とばかりに腰を曲げたアルヴァは、彼の膝のあたりで引っかかっていたスカートを綺麗に伸ばして足を隠してやった。
「こういうのは、お前が着ればいいのに」
へそを曲げた顔でケネスがアルヴァを見る。アルヴァは困ったようにクスクス笑って、ぽんぽんとケネスの背を叩いた。
「私は似合わないよ、こういうの」
今度着てみてくれよ、ああわかったから機嫌を直してくれ、と言う二人のじゃれあいを暖かい目で見つめていたルカの――カレンに借りた――マントの端を、誰かがクイッと引っ張った。
そちらを見ると、ほんの少し顔をあげて、犬耳の少女がルカを見上げていた。
「あの……ありがとう、お洋服貸してくれて」
少女の可愛い声が、小さく空気を揺らす。ルカは、にっこり笑みを浮かべて、小首を傾げた。おろしている茶色の髪がふわりと揺れた。
「ああ、良いんですよ気にしなくて。君の方が似合うから、どうぞそのまま着ていてね」
「……うん、わかった」
とろりと笑う少女にルカも似たような笑みを返す。
近くで二人を見ていたカレンが、すすっとルカたちの方へ寄ってきた。彼女は犬耳の少女の前に立ち、ほんの少し膝を曲げて少女と目を合わせると、小さく口を開いた。
「貴女、お名前は?」
犬耳少女はささっとルカの後ろに隠れてしまう。ショックを受けた顔をするカレンに、ルカは縛り上げられて気を失っている男たちに目を向けてから声をかけた。
「あの人たち、半分以上金髪でしょう。だから、金髪が怖くなっちゃったんでしょう」
ね、と後ろに声をかけると、少女は小さく小さく頷いた。
それじゃあ、と名案を思いついたような顔でカレンが白衣の中にもぐって、それから襟ぐりからすぽっと顔を出した。
いや、確かに髪は隠れてますけど、とルカは呆れたようにため息を吐く。
未だ警戒している少女を小さく振り返って、ルカは苦笑を混ぜて言った。
「ほら、大丈夫だよ。見てくださいよ、あんな馬鹿なことする人が悪だくみなんてできません」
ちょっと! と言う非難めいた声は無視して、ルカが少女を促すように頭を撫でた、その時だった。
ルカたちの横でケネスとじゃれていたアルヴァが、ぱっと前方に目を向けた。
後ろから、フィオナの「まってください!」と言う声が聞こえてきて、その数秒後にはほとんど四つん這いで駆けてきたイグニアが、小さく口を開いて臨戦態勢でアルヴァの横に並んだ。
気配には疎いルカでも、何かがこちらに向かっているのが見えていた。
大きな、あれは馬車だろうか。土煙をあげて、こちらにやってくる。
土煙にまぎれて赤い物がちらついている。
あれは――炎だった。
「何だあれ」
小さな呟きを溢し、アルヴァは腰の物に手を添えていた。それを見た少女が目を見開いたのに気が付いたのは、唯一何が起きているのかわからない、と言う顔できょろきょろしていたカレンだった。
「どうしましたか?」
その声に、弾けるように動いた少女は、耳をぺたんと伏せて、アルヴァの前に立った。その頼りない、幼さの残る柔らかな手が、アルヴァの柄に添えた手に触れる。前を睨んでいたアルヴァが、軽く目を見開いて少女を見下ろした。
ぱちり、と目が合った瞬間、少女はわかりやすく動揺して、一瞬呆けたようにアルヴァを見つめてから、はっとして唇を噛んだ。赤みの残る頬のまま、少女は耳を伏せて、ふるふると首を横に振って眉尻をぐっと下げている。懇願の表情に、アルヴァは迫りくる馬車と少女を見比べて、そしてゆっくりと柄から手を放した。
「あ、あの……あの……」
少女は、アルヴァに触れていた手をもぞもぞさせながら、ちらちらと剣と地面を交互に見ている。アルヴァは彼女の意図を酌んだようで、躊躇なく剣帯から剣を外して地面に置いた。逆側に佩いていたケネスの剣を下ろすことも忘れない。
そうこうしているうちに、一行の前に、馬車――と言うよりは、炎狼が牽いているので狼車の方が正しいかもしれない――が停まった。
犬耳少女は、ルカたちを庇うように彼らの前に立って、不安そうに耳を伏せていた。
乱暴な勢いで、扉が開く。
降りてきたのは、フードで顔を隠した人だった。