シャンセルからフェロウズ西街へ⑤
初めに動いた男の拳には煌めく物が握られていた。
握られていたのがナイフだったとルカが認識できたのは、アルヴァが男の手からそれを叩き落とした時だった。
手首を押さえて呻く男の腹に、アルヴァの拳がめり込む。その丁寧な力加減の一撃で、男の意識は簡単に刈り取られた。呻く暇も与えられずに、男の目がぐるりと白くなる。
倒れる男を軽く受け止めてから地に落として、アルヴァは迫り来る次の男に目を向けていた。
油断ない立ち姿のアルヴァに臆した男が狙ったのは、アルヴァの隣に立つケネスだった。
なるほど、人質でも取るつもりか。
ルカは、男のその賢明で――滑稽な策に、唇で弧を描きながら、アルヴァたちに気を取られる男たちの間をすり抜けて、少女の元へと駆けた。
ちらり、と確認すれば、ケネスに飛びかかっていた男は、殴り飛ばされて目を白黒させていた。
そりゃ驚くよ、とルカは少女の前にしゃがみこんで水の結界を立ち上げながらケネスを見る。彼は吹っ飛んだ男にトドメを刺すべくとそちらに走り出していた。途中で鬱陶しくなったのか、彼はスカートをたくし上げて筋肉の付いた足を晒し始めたが、それを咎める人はいない。
そりゃ驚くよなぁ、とルカはもう一度心の中で呟いた。
――ちょっと背の高い病弱そうな令嬢を捕まえて人質にしようと思ったのに、いきなりぶん殴られて吹っ飛んだら、ルカだって混乱する。
アルヴァと比べるまでもなく加減の下手な彼の相手になってしまった男に、ルカは心の中で合掌しながら淀み無く結界を練り上げた。
ルカが空気を持ち上げるように右手をあげるのと同時に、水の壁が形成される。犬耳の少女は、ぽかんと口を開けて、ルカのリングブレスレットに鎮座しているアクアマリンを見つめていた。その淡い青の光が、少女の大きな黒い目を照らしている。
ルカと犬耳の少女が水の半球に包まれたことに気が付いた人攫いたちが騒ぎ始めたようだった。
水の壁越しに聞こえる声が慌ただしい。中には壁に飛び込もうとしている男もいたが、ルカの練り上げた結界は、凪いでいるようにみえて、その実、触れた手が弾かれるくらいの速さで渦巻いている。男たちが苛立ちの声をあげる。
『うるさいわねぇ、静かになさいな』
フォンテーヌの声が頭に響く。同時に、空に浮かんだ逆巻く水が、蛇のようにうねって男たちに落ちていった。
水の大蛇はそのまま男たちを包んで持ち上げて乱雑に振り回すと、ぽいっと吐き出して掻き消えた。
結界の周りが静かになる。怯えていた犬耳の少女も、幾分か落ち着きを取り戻したようだった。
今、ルカが着ているようなフワフワワンピースはこういう愛らしい顔立ちの『女の子』が着るべきだ、と思いながら、ルカはそれをおくびにも出さずに微笑みを浮かべて口を開く。
「大丈夫?」
優しい声を意識しながら問いかけると、少女はピクリと犬耳――普通の犬の耳より大きくて若干丸みがかっている――を動かして、こくん、と頷いた。
黒と黄褐色の斑の長髪がサラリと揺れる。
意思疎通がとれるなら、とルカは小さく頷いて、それからもう一度問いかけた。
「どこから来たのか、わかるかな」
少女は逡巡するように小さく口を開閉して、それから意を決したような顔で「森から」と言った。それから、あっちの森、と街道の向こう側、ルカたちが向かっている方向を指さす。
「森か……向こうって言うと、動く炎原の縄張りの向こうかな」
ぽつ、と溢したルカの言葉に、少女は戸惑いながら、小さく頷いた。
「そう。炎狼の縄張りの向こうから来たの」
可憐な声で教えてくれた少女に、ルカはお礼を言ってから結界の外を眺めた。
揺らぐ水の向こう側では、大きな男が、赤髪の人間の蹴りを顎のあたりに食らっているところだった。
ぐらっと傾いだ影が地面に倒れる振動が、こちらまで伝わってきた。赤髪が周囲を見回して、それから、水の結界の方へ向き直って両腕で大きく丸を作った。
ふう、と息を吐いたルカが、すっと手を払うと水の結界は跡形もなく消え去った。
結界の上に待機して、男たちに水の精霊魔法の洗礼を浴びせていたらしいフォンテーヌが、大きく伸びをしながらルカの隣に下りてきた。彼女のために水のクッションを作ってやってから、ルカはアクアマリンを台座から取り外した。
「ルカ、ありがと」
フォンテーヌの機嫌のいい声に、いえいえ、と返しながら、ルカは姉の方に視線をやって、それからぎょっと目を見開いた。
彼女は兜を身に着けずに、気絶した男たちを片っ端から縛り上げていた。
「ちょっと! 兜は!」
ルカが慌てて大声を出すと、隣の犬耳少女がびくっと跳ねた。
「あー……一発もらってしまってなぁ、当たり所が悪くて、留め具が壊れて吹っ飛んでしまって。今、フィオナとカレンが探してくれてるが」
見つかっても使えるかどうか、とアルヴァは渋い顔でそう言った。安易に「ま、大丈夫だろう!」とでも彼女が口にした瞬間、ルカは姉を怒鳴りつけてやろうと思っていたのだが、そうではなかったので用意していた言葉をため息に変えて吐き出した。
最後の大男をギチリと縛り上げたアルヴァは、額の汗を拭って立ち上がった。
「馬車の中の子供たちは怪我もなさそうだったよ」
その言葉に、ルカの隣の少女が深い深い安堵の息を吐く。
ちらりと少女を確認して、口に小さく笑みを浮かべたルカだったが、彼女の服が泥にまみれていることに気が付いて、スッと眉を寄せた。
こんな小さな少女を、あの人攫いどもは寄ってたかって追いかけまわしたのだろうか、と胸糞の悪い想像をしてしまったルカは、眉を寄せたまま、近くに転がっていた衣類用のバッグを拾い上げた。
「ん? どうしたルカ」
「ちょっと着替えてきます」
「普段着にか?」
姉の言葉には答えずに、ルカは馬車の影で手早く服を変えて、フワフワワンピースを丁寧にたたむと、白衣を小脇に抱えて少女のもとに駆け寄った。
小首をかしげる少女に、ルカは微笑みながらワンピースを差し出した。
「これ、良かったら、どうぞ。その服、泥だらけだから……」
少女は自分の姿を見下ろして、それからルカを上目に見つめながらおずおずとそれを受け取って馬車の影に駆け込んでいった。
「でもルカ、それだと……」
襟ぐりの広い黒い長そでティーシャツ姿のルカを見て、アルヴァが表情を曇らせる。
「大丈夫ですって」
心配そうなアルヴァにそう言って、ルカはきょろきょろとあたりを見回した。整えられた街道の外、高い草の中から、しょんぼりしたカレンが出てきたのを見つけて、彼は口元に手を添えて彼女を呼んだ。
「カレン! ちょっと来てください!」
呼ばれるままに、子犬のように駆けてきたカレンは、自分を呼んだルカの前を通り過ぎ、まずアルヴァに向き直った。
「ごめんなさい、兜、見つかりませんでした」
気にしなくていいよ、とアルヴァの手が彼女の頭を優しく撫でる。頬を染めたカレンは、唇が緩みそうなのをこらえているのか、唇を軽く噛んでもにょもにょしていた。
「ねぇ、呼んだの僕なんですけど」
ルカの冷静な声に、はっとカレンが彼の方を見て――がっかりと眉を八の字にした。
「ワンピース、脱いじゃったんですか……」
「ええ。誠に、まっことに残念ですが、僕はもうアレを着ることはありません。のっぴきならない事情がありましたので、ええ」
目に見えてがっくり肩を落とすカレンにそう言い放ってから、ルカは本題を思い出して咳ばらいをしながら白衣を彼女に差し出した。
「――ですので、君のマントと僕の白衣を、しばらく交換して欲しいんです。ほら、白衣って街では割と目立つでしょう? 機械兵の襲撃の時も僕は白衣でしたし、もし彼らが画像もやり取りできるとすれば、これと僕の髪色とかを目印に来ると思うんですよね」
そこでいったん切って、ルカは続ける。
「君は金髪だし、多分、君が羽織ったらこれ、白衣には見えないと思うんですよ」
「――あれ、わたし、失礼なこと言われてません?」
こてん、と首を傾げたカレンを無視する。
「まあ、そういうわけなんで、交換してもらえません?」
カレンは白衣を見て、んむぅ、と唸っていたが、やがて首元のバングル型の留め具を外した。ふわり、とマントを肩から外すと、彼女はルカから白衣を受け取って、代わりにマントを差し出した。
ばさっとマントを羽織ると花の香りがルカの鼻をくすぐる。
ルカは一瞬動きを止めた。
――あ、良い匂いだ。過度に甘くない、柔らかい花の香り。これ、なんの花の匂いだったかな。
「……なんかいい匂いします」
自分の思考を読まれたのか、とぎくっとしたルカだったが、それを顔にはまったく出さずにカレンを見やった。
白衣を羽織ったカレンのサファイアの瞳が、ルカを見ている。
ごまかすように留め具を調節していたルカは、薬草の匂いでしょう、とどうでも良さそうに答えて顔を逸らした。
そんな二人を眺めるアルヴァの目が柔らかく細められていたことに、二人とも気が付くことは無かった。