指名手配取り下げの弊害⑤
人とほとんど変わらない形になったイグニアの口から、竜の咆哮が飛び出したことにはさすがのアルヴァも驚いたようだった。切れ長の目をまん丸く広げた姉の表情は、弟のルカからしても珍しい物だ。
しかしその顔も直ぐに普段通りに戻る。
「つまり、見た目だけってことか」
流石の順応性である。
フムフム頷いてイグニアの頬をムニムニしながら、アルヴァがフィオナに目を向ける。フィオナは眉を八の字にしながら首を縦にこっくりと振った。
フィオナがアルヴァに説明している内容は、全て結界の構造式に記されていたものだ。
改めて聞くこともないか、とルカは息を止めてへたり込んでいるカレンをついでのように引っ張り上げて立たせて、それから姉に頬を揉まれているイグニアの横にしゃがんだ。
金の目がツイっと動いてルカを映す。ルカの横に浮いていたフォンテーヌが、黄色い声を出す。
「可愛いわねぇ、エシュカ様そっくりだわぁ」
ぱっちりした目なんか特に、とフォンテーヌがイグニアに近寄って目元を撫でている。
「イグニア、痛いところとか変なところとか、ありませんか?」
ゆっくり尋ねると、イグニアは自分の体を見下ろしてからルカに目を戻し、イーッと口を横に広げた。
ギザギザと尖った歯が覗く。
ああ僕らの笑顔を真似してるつもりなんだな、とルカは微笑みを返して、それからイグニアの右手を持ち上げた。
前腕の中ほどまでを覆っている鱗の感触は、竜の姿の時の物と全く変わらない。鱗に覆われていない部分は、見る分には幼子独特の柔らかさが感じられるが、触れてみるとがっちりと固い。
今のイグニアの状態を説明するならば、見た目だけ人間に寄せているが質量も感触も竜そのまま、である。
収縮させて小さくなったイグニアだが、その見かけに騙されて抱き上げようものなら腰が死ぬ。
人の肌の柔らかさは、その下の竜の肉体を隠しきることができていない。
本来ならばコロコロ移り変わるだろう幼い顔に浮かぶ表情は、無に近い。目だけがキラキラ輝いて、感情を雄弁に伝えている。
つまるところ、ルカとフィオナがやっと施せたのは、不完全な変化である。
――外からの干渉じゃ、見た目くらいしか変えられないか。
ルカはそう思いながらも溜め息はつかなかった。これだけでもかなりすごいことには違いないのだ。
それでもアレをこうしてアッチを組み替えれば……とフィオナの結界構造式を頭の中でいじくりまわしているルカに、随分離れたところに立ち尽くすカレンが声をかけた。
「あ、あの……服を着させてあげては……」
その泣きそうな声に、はた、と改良途中の結界構造式を霧散させて、ルカはまじまじとイグニアを見た。
全裸。
全裸である。
幼気な女児が、全裸。
本人はよくわかっていないような目でルカを見ているが、これは。
ルカとアルヴァの目が合った。
「これはいろんな意味でまずいな」
「ええ、そうですね。こんなところを誰かに見られれば、僕ら牢屋に直行ですよ」
さてどうするか、と小さく首を傾げるエクエス姉弟に、呆れたようなため息を吐きながらケネスが近寄った。その手には濃い茶色のマントがある。
「お前ら、時々ポンコツだよな。ほら、どけどけ」
しっし、と手で払われた二人は、イグニアから少し身を離してケネスを見ていた。
「イグニア、ちょっと上向いてくれ」
言われた通りにするイグニアに手際よくマントを身に着けさせると、ケネスは、ポン、と彼女の頭を撫でた。
「とりあえずはこれでいいだろ」
「んー」
イグニアが鼻にかかった幼い声で鳴く。
この姿でこの声ならイグニアが竜だとそう簡単にはバレないだろう。ルカはそう思いながらアルヴァに目を向けた。
「姉上、イグニア用のマントを用意しないとですね。このダボダボマントじゃ目立ちますよ」
「うーん、そうなると街に入らないといけないな……」
若干渋るような様子を見せていたアルヴァだったが、ちらり、とイグニアを確認すると大きく頷いた。
「よし、じゃあシャンセルの街で買おうか」
******
白み始めた空の下、一行はシャンセルの街に向かって森を歩いていた。
静かな森の中、一行が腐葉土を踏む音だけが響いている。
イグニアは、最初の頃こそ戸惑いを見せながら歩いていたが、今はケネスのマントを引きずって楽しそうにアルヴァと手を繋いでいる。
見た目は可愛らしい幼子……だというのに――。
「君はいつまで僕の背中にへばりついているつもりですか?」
呆れを多分に含んだ声で、ルカは自分の後ろに隠れて歩くカレンに問いかけた。カレンは何も答えない、と言うよりイグニアの一挙手一投足を監視するのに忙しくてルカの声など聞こえていないようだった。
――なーにをそんなに怖がってるんだか。竜の姿でもないのに。
溜め息を吐こうと開きかけたルカの口に、フォンテーヌの小さな手が触れる。「しっ」と言った彼女は、眉根を寄せて目を閉じて、何度か深呼吸をするとパッと目を開けた。
「何かいるわ」
静かなフォンテーヌの声に一番に反応したのはアルヴァだった。
「魔獣か? それとも人?」
フォンテーヌの手から、彼女が感じているものが流れてくる。
ざわざわと神経を逆なでされているような気持ちの悪い感覚に、この感じは、とルカは眉を寄せる。
「うぅん……どっちでもない感じがする。何かしらこれ、鉄塊がそのまま動いているような……ねえ、そんな生き物っている?」
そう、ルカに流れ込むこの不快感は、精霊が鉄に触れているときに感じるものと同じ。
「いや、そんなのはこの辺には生息していないはずだが……」
フォンテーヌの焦燥に駆られた声がアルヴァの言葉を断ち切った。
「嘘、鉄砲水みたいな速さでこっちに動き始めたわ……!」
そのセリフの直後。
木々をなぎ倒す轟音が、ルカたちの後方で響き渡った。