火神竜イグニスの空ろの祠⑦
ぽかん、と口を開けた黒髪を睨みながら、アルヴァは剣を跳ね飛ばす。剣はくるくると回りながら空を舞い、やがて男の後方に落ちた。
それを目で追うこともなく、アルヴァは体勢を整えて男を見据え、剣を構える。
闇に溶けるような黒髪い短髪に、薄茶の目。年の頃は、三十代に差し掛かったくらいの、ガタイの良い男だった。
服の上からもわかるその筋肉のつき方は、戦士のそれだった。
「は……? 何、お前、どこから……?」
男はまるで呆けているかのように呟きながら、目には冷静さを宿していた。彼の手がゆっくりと腰元へと移動するのを見逃すアルヴァではない。
繰り出した前蹴りで腹を蹴る。その勢いのままに踏み込んで、バランスを崩した男の側頭部に柄頭を叩き込むように腕を振る。
これが当たって意識を失えば上々、というアルヴァの思いも虚しく、男は崩れた体勢を苦ともせずに身軽に後ろに跳んだ。
アルヴァの腕は空振って空を切る。
距離の開いた両者の間を、ぬるい風が抜けていく。
男が戯けた様子でポケットから手を出して、不器用に手を叩き始めた。
「はー、すばらしい反応速度。このクソ暗い中、よぉく見てらっしゃることで」
アルヴァは何も答えずに、切っ先を男に向けたまま、男を注視する。
「炎の結界も消えねぇ、竜騎士も捕まえられねぇ……俺もアニエスも失敗、成果なし。最悪の展開だよ」
これ見よがしにため息を吐いた黒髪の男はゆるゆると腕をあげる。アルヴァは柄を握りなおした。
こぶしを握ったまま両手をあげて、まるで降参するように手を開いてひらひら振った男は、にんまり笑う。手から何かがこぼれたが、兜からの視界の悪さが災いして、アルヴァは気付くことができなかった。
「でも、あれだな。丁度良かったよ。そこの人、しつこくてさぁ。……なんとか距離取れないかなーって思ってたんだよ、なっ!
男がその声とともに、後方へ駆け出した。
剣を取りに行ったか、と舌を打ったアルヴァはそれを追って足を踏み出して――がくん、と視界がぶれた。
「っぐぅ……っ!?」
まるで、踏み出した先の地面がごっそり消えたような感覚と、耳に響く奇妙な音。
いぃぃぃぃぃぃぃん、と金属を震わせた後の残響のような音が、アルヴァの脳を掻きまわしている。
天地がわからない。
何が起こった、と状況を把握しようとする彼女を次に襲ったのは、地面にぶつかる衝撃だった。
受け身も取れずに、ばたり、と倒れたアルヴァは、襲い来る吐き気を耐えながら、何とか腕を突っ張って上体を起こした。
それだけでも脳を揺さぶられているように視界が揺れる。
――火竜たちの平衡感覚を崩していたのはこの音か。
アルヴァは息を荒くしながら、徐々に遠ざかっていく黒髪の男の背を睨んだ。男が遠ざかっているのに音は小さくならない。このままではここから動くこともままならない、とアルヴァは悔しそうに草を握り締めながら、それでも這うように男を追った。
這いずるアルヴァをあざ笑うように、男は闇に消えていく。
くそ、と毒づく代わりに唸って、アルヴァは体を何とか首を曲げて後ろを見た。
地面に伏しているエヴァンは、彼女と同じくこの音に呻いているようだった。
――相手を逃がしたのは痛いが、それよりも父上だ。
彼の怪我がどの程度なのかわからないが、それでも早く医者に見せなければならないのは変わらない。
それにはまず立たなければならない、とアルヴァは吐き気を無視して何とか顔をあげた。
立つためには、この音をなんとかしなければ。しかし音源を探すが草しか見当たらない。
――この音、まるで四方八方から聞こえているような気がしてくる。
そんな風に思いながらも、アルヴァは必死で視線を左右に走らせた。
音源は見つからず、吐き気は収まらず、おまけに雨まで降ってきた。
――……ん? 雨?
アルヴァの頭に疑問が浮かんだ。夜空に雲など垂れこめていただろうか、と吐き気を耐えながらアルヴァは考える。
ぽつ、と手の甲に雫が当たった瞬間、火の魔力濃度が異常に濃いと雨って降りにくいんですよ、と今よりだいぶ幼い弟の声が耳に蘇った。その声は言葉を続ける。
『もし、そういう時に雨を降らせたかったら、精霊魔術できっかけを作ってあげないと』
あ、と思った時には、アルヴァとエヴァンを囲むように、半径五メートルほどの水の壁が立ち上がり始めていた。壁は緩やかに丸みを帯びながら、ぐんぐん伸びている。
あの気持ち悪い音が一層大きくなった気がして、アルヴァは眉を寄せて唇を噛む。吐き気は喉元までせりあがるが、しかし吐き気だけだ。ただひたすらに気持ちが悪いだけで、モノは出ない。
水の壁は、半球の形になって動きを止めた。
壁を隔てた向こう側、ゆらゆら揺れる風景に、駆け寄る火竜が数頭見える。その先頭の火竜に乗っていた人物は、危なげなく火竜から飛び降りると、半球に向かって駆けてきた。
彼は半球の前に仁王立ちして肩を上下させながら、隣の精霊に何事か指示を出した。ふわふわと水球に近付く精霊――フォンテーヌは、呆れたような笑みを浮かべている。彼女はその表情のまま、水の壁に溶けた。
壁の内側から上半身を生やしたフォンテーヌは、綺麗な顔をしかめて地面を睨み、それから一点を指さした。その方向へ、まるで弾丸のように水が飛んで、そして気持ちの悪い音は鳴りやんだ。
水の壁が霧に姿を変えて消えていく。ルカの隣に戻ったフォンテーヌが、いたずらっぽい顔で小さな手を小さな小さなその耳に当てているのが見える。
次に何が起こるか、彼女もアルヴァもわかってる。
ルカが草を踏みながら近づいてくる。
吐き気が消えて、何とかアルヴァが体を起こした、次の瞬間。
「何も言わずに飛び出しやがって、こンのド阿呆!」
アルヴァの真ん前で足を止めたルカは、目を吊り上げて彼女の頭めがけて拳骨を落とした。