火神竜イグニスの空ろの祠⑥
先程まで暑い場所にいた身には、春の外気は刺すように冷たかった。空の上で風を切っているから尚更冷たく感じるのかもしれない。
暑さ寒さなど今はどうでもいい、とアルヴァはイグニアの背中の上で器用に兜をかぶると、そっとイグニアの首元に手を置いた。そして周囲を見回す。
すっかり夜の帳の落ちた空は暗い。星の光も心許なく見えてきて、アルヴァは小さく頭を振った。
地上に至っては、村と山とを裂く炎の結界くらいしか光源が見当たらない。
アルヴァは先程の火竜の言葉を思い返す。
――エヴァンがいました! 異邦人たちと戦っています!
――怪我をしていて、みんなで助けに入ろうとしたのですが妙な音がして近寄れなくて――。
無意識に眉が寄る。
報告に戻った火竜以外はまだ父の側にいるだろう、とあてをつけて、アルヴァは空に火竜の集まりがないか目を凝らした。
炎の結界の遥か上を飛び越えて、シレクス村の真上に差し掛かったあたりで、アルヴァは村の向こうにちらつく影を見つけた。
星々を時折隠すそれは、シレクス村から少し離れた草原の上を旋回しているようだった。時折草原に降りようとするものがあるが、ある程度近づくとふらりとよろけて再び空へと帰っていく。
「あそこだな。イグニア、頼む」
そう言いながら上体を伏せたアルヴァに、イグニアは一声吠えると群れる火竜の方へと羽ばたいた。
空を飛び交う火竜の、焦燥を含む声が近づく。
「駄目だ、あれ以上行くと墜ちる! どうする、火球打つか?」
「無理だよう、エヴァンに当たっちゃうよう」
「じゃあどうすんのさ! あの子、怪我してんのに!」
「あたし、もう一回降りてみる!」
下に目を凝らせば、ちかちか、と火花が弾けているのが見えた。風に混じって空まで届く金属のぶつかり合う小さな音に、父が何者かと剣戟を繰り広げているのだと、アルヴァにはすぐにわかった。
エヴァンの強さは身を持って知っている。――それでも片一方が押され始めたのを見ながら、優勢なのが自分の父だと断言することはできなかった。
加えて言えば、エヴァンは怪我を負っているという。
ここで一騎打ちの結末を見届けるわけには行かなかった。
「――私が行く!」
アルヴァがそう呼ばわると、火竜たちは周囲を見回したあと、彼女に視線を定めた。その瞳に驚きが灯る前に、イグニアが急降下を開始した。
イグニアに体を沿わせるようにしながら、アルヴァは風切り音に負けないように叫んだ。
「イグニア、妙な音がし始めたら教えてくれ!」
こくりとイグニアの頭が縦に揺れた。
二人はぐんぐん降下する。
地面まであと三十メートル程のところで、イグニアが呻いた。
ぐらり、と一瞬バランスを崩したイグニアだったが、なんとか体勢を立て直して、小さくアルヴァを振り返った。
アルヴァは耳をそばだてる。
風の音に混じって妙に高い音がしていた。
金属が擦れる音とも違う、鳥の鳴き声とも違う。
体の内側から背中を撫でられているような気持ちの悪い音だった。
アルヴァは不快感を覚える程度だったが、恐らく竜にとっては平衡感覚を崩される音なのだろう。イグニアはふらりふらりとよろけている。
「あと少し、我慢できるか?」
吠えてからイグニアが歯を食いしばる。天地がわからなくなりそうなのをギリギリ耐えているようだった。
地面まであと二十五メートル、二十メートル……。
アルヴァは、心なしか音が大きくなっているような感覚を覚えた。
イグニアのふらつきが大きくなる。そう降りないうちに、限界を告げるようにイグニアが鳴いた。
アルヴァは、先程まで跨っていたイグニアの背中に乗ると、素早くしゃがみ込んで脚に力を入れた。
「イグニア、みんなのところまで昇れ!」
アルヴァは声と同時にイグニアの背を蹴って空へと躍りだした。ちらりと横目で確認すれば、イグニアはふらつきながらもなんとか羽ばたいていて、墜落しそうな様子は見られない。
ひとまずそれにホッとしながら、アルヴァはどんどん近づく地面を睨む。
タイミングを見計らって、全身に衝撃を散らすように着地すると、アルヴァは素早く立ち上がって、大きく響く金属音に向かって駆け出した。
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「しつっけぇなぁ! どけよ!」
俺が用があるのはあんたじゃねぇ、と怒鳴り散らす声がする。
「退く、ものか……!」
「あーあー、応答を、聞こえるかスクラップども。……あーやべぇよ、ノイズ一つ返ってこねぇ。どうしてくれんだ、よっ!」
がきん、と金属の弾ける音と重たくて柔らかい物を蹴り飛ばしたような音。それと共に、何かが地面に突き刺さる音が草原の空気を揺らした。
ふぅー、と荒く息を吐いた黒髪の男の顔はこちらに背を向けていて、見えない。
その向こう、草原に倒れた男の顔は、少しは夜目の利くアルヴァには薄っすらとだが見ることができた。
思わず唇を噛み締める。
――エヴァンだ。
彼は腹を押さえて地に伏して、しかし闘志の消えない瞳で男を睨んでいる。
あ゛ー、と濁ったため息を吐いて、男がぷらぷらと剣を揺らした。
「なぁ、お前んとこの『野薔薇の君』――うちの部隊追ってたあンの女、連絡機器もろとも部隊をぶっ潰してくれたみたいだな? ええ、おい」
男は駆け寄るアルヴァに気づかない。余程頭にきているらしい様子だった。
「なぁ、部隊と機器とで、いくらになると思ってんだ。なぁ、俺の給料吹っ飛ぶんだ、よ!」
男の足がエヴァンの腹をえぐる。近付いてわかったことだが、エヴァンは鎧を身に着けていなかった。
ほぼ丸腰と言っていい相手を、男は何度も何度も蹴る。そのたびに、呻きと、ごぼ、と水気を含んだ咳の音が響く。
やがて男は、息を荒げて柄を両手で、逆手に握って剣を振り上げた。
「金が来ねぇからぁ、こんな時代遅れ使うしかねぇこっちの身にもなれよ! 引き金一つで終わるところを、あークソクソ!」
全ての苛立ちを込めるように振り下ろされる凶刃。
エヴァンは、しかし目を閉じることなく男を睨んでいる。
男は気味の悪い物でも見るように顔を歪めた。
その嫌悪は男の腕を一瞬、ほんの一瞬だけ止める。
その、刹那。
ほんの一瞬。指を弾くよりも短いその一瞬。
それで十分だった。
金属が悲鳴を上げる。
エヴァンが、は、と短く息を漏らす。
「……ああ……?」
男は理解が追いつかないのか、無感情な声を漏らしながら、アルヴァを見下ろしている。
あの一瞬。
指を弾くよりも短いあの一瞬で、何とか二人の間に体を捻じ込んだアルヴァは、愛剣の腹で凶刃の切っ先を跳ね上げるように逸らし、受け止めていた。
男の手から力が抜けているのがわかる。
――それをみすみす逃すアルヴァではない。
彼女は強く息を吐きだしながら、男の剣を弾き飛ばした。