火神竜イグニスの空ろの祠⑤
溶岩に挟まれた道を、縦に並んで一行は歩く。
先ほどまで溶岩に覆われていた湖底は、本来なら靴底も足も焼き焦がす熱を帯びているはずだが、先頭を歩くエシュカが熱を調整してくれているのだろう。どちらも無事だった。
やがて見えてきた対岸のその奥の壁に、まるで誰かがやけくそで蹴り開けたような窪みがある。
「あれが祠です。火神竜イグニス様のためにある――今は空ろの祠です」
今はここには、イグニス様の魔力塊しかありません。
溶岩湖を抜けて、エシュカが振り返ってそう言った。
火神竜イグニス。
アングレニス王国で信仰されている『竜と竜の聖女』の竜である。
ずっとずっと昔、神話の時代に、すべての炎の主として存在していたといわれる神竜で、この神竜の影響を色濃く受けたのが、火竜である。
神竜は九柱いて、そのうち、火神竜イグニスを含む五柱の影響を受けて、五つの属性竜が生まれたとされている。
その火神竜の、空ろの祠。アルヴァはじっと祠を眺める。空ろ、と言うことはここに神竜はいない、と言うことだろう。
アルヴァはゆっくり足を踏み出した。
これが祠、と思わず呟いてしまうくらいには、今や目の前にある窪みは、遠目に見たとおりの乱雑な作りだった。
苛立ちをぶつけるようにして造られた、と言われたら、アルヴァは納得する。ああそうだろうな、と深く深く頷くだろう。
その窪みの真ん中に、大きな赤い宝石のようなものが鎮座している。まるで赤い水晶のようにとがったそれは、何とも言えない威圧を放っていた。
目の前で威圧を放つそれは、火神竜の魔力触れられるまでに凝固してできた塊だ。魔力を感じるのに長けていないアルヴァでも、肌が泡立つのを感じる。
いつの間に真後ろまで来ていたのか、ルカは興味深そうに目を細めてアルヴァの背中からひょこりと顔を出した。
「これがイグニス様の……ああ、火の魔力が段違いに濃いな。エシュカ様、もしかしてマグニフィカト山が常に噴火寸前なのって」
エシュカが微笑みを浮かべて頷く。
「ええ。イグニス様のお力が色濃く残っているからですよ」
それを普段は火竜の魔力が覆ってるわけか、と独り言ちて、ルカはふむふむ頷いている。
エシュカの金の目がアルヴァに向いた。
「いいですか、お前たち」
母親のような口調のエシュカに、アルヴァたち四人とイグニアは背筋を伸ばした。
「今から、この魔力塊に――イグニス様の魔力塊に、力を籠めます。本当ならば、神竜様でなければこれは動きませんが――」
エシュカはそっと魔力塊の前に跪いた。アルヴァもルカも、それに続くように跪く。
「ここは、ここだけは、火竜が触れれば動くようになっているのです。前の長から話は聞いていましたが、まさか私が起動することになろうとは……」
深いため息を吐くと、エシュカは心配そうな表情でアルヴァたちを振り返って、それから前を向いて祈るように手を組んだ。
しばらく俯いていたエシュカは、顔をあげるとそっと魔力塊に手を触れる。
刹那、魔力塊が大きく輝き始めた。
地が揺れる。
火山が唸る。
身を屈めていなければとっくに転んでいただろう揺れが収まると、魔力塊は、その中にぼんやりと柔らかい光を灯して、まるで何事もなかったかのように静かにそこに座っていた。
異変は何一つない。アルヴァたちの後ろの溶岩湖はぱっくり割れたままだし、火山が噴火した様子もない。
しかし、確実に何かが違った。
アルヴァの勘はそう言っているのだが、何がどう違うのかは説明ができない。
隣のルカはどんな顔をしているだろうか、とアルヴァがそちらを見ると、彼は大きな猫目を更に大きくして、周囲を見回していた。
その瞳が徐々にキラキラと輝き始める。
一体何が起こったのか、ルカはわかっているようだった。ルカにわかるということは精霊魔術関連か、と思っていると、ルカの目がアルヴァを映した。
何が起きたのか、と目で尋ねると、ルカは興奮を抑えるように、震える唇を小さく開いて囁いた。
「今、結界が一段階組まれたんです」
「結界」
「ええ。広がり方から言って、おそらくは国土全域をカバーするサイズの結界ですね」
すごいことですよこれは、と早口で言い切ったルカは、まじまじと魔力塊を見つめながら、それににじり寄り始めた。しまいには構造解析させてくれ、とエシュカにねだり始めたので、アルヴァは立ち上がってルカを祠から引き離した。
それをエシュカが引き止める。
彼女曰く、全員魔力塊に触れておいたほうがいいだろう、とのことで、アルヴァはそれにそっと手を触れた。なんだかとてもありがたい気分になりながら、彼女は先ほどよりも体の芯が温まったことに気が付いた。
エシュカに目を向けると、彼女は困った仔竜を見つめる目で笑いながら、そっと口を開いた。
「お前たち姉弟は無茶をしますからね。イグニス様の魔力を、ほんの少しでも纏っていてくれたほうが、私は安心できるのよ」
篝火の導きあらんことを。
エシュカの柔らかい祈りの声に、アルヴァは笑みを返した。
全員――もちろんイグニアも鼻先で触れた――が火神竜の魔力の残滓を纏ったことを確認したエシュカは、戻りましょうか、と笑みながら再び溶岩湖の道を歩き始めた。
行きと同じように一列で帰ってきた一行の後ろで溶岩湖が元に戻る。
アルヴァが、今は溶岩から立ち上る熱気で歪んで見えない向こう岸を眺めていたところで、外から火竜が転がり込んできた。
「エシュカ様! エヴァンがいました! 異邦人たちと戦っています!」
エヴァン、と言う言葉に、アルヴァとルカは息をのむ。
「怪我をしていて、みんなで助けに入ろうとしたのですが妙な音がして近寄れなくて――っあ!」
アルヴァ、と火竜は驚いたように声をあげる。ため息を押し殺して何か言おうとしたエシュカが口を開く前に、アルヴァは駆けだした。
当然のようについてくるルカとケネスを追い越したのはイグニアだった。
アルヴァは相棒に飛び乗って、それから、春の冷えた外気へと飛び出した。