ナナカマドの庭の淑女⑦
御年百歳には到底見えないリアダン女王陛下に、一行は跪いた。アルヴァとケネスは自分の剣を地面に置いて頭を垂れている。
「アルヴァ・エクエス、招集に応じ参上つかまつりました。正装を纏わぬご無礼をお許しください」
アルヴァが中性的な声でスラスラと言葉を紡ぐ。その隙間に聞こえる、遠ざかっていく木の葉を踏む音は、おそらくレベッカの足音だ。
「顔をお上げください」
リアダン女王陛下の声が静かに空気を揺らす。
「はっ」
短い返事とともに、アルヴァが顔を上げた。その斜め後ろでルカとケネスも顔を上げる。
リアダン女王陛下は麗しく柔らかな笑みを浮かべて立っている。その後ろに静かに控えているのは、レベッカと、いつの間にかそこにいた見知らぬ少女だった。
女王陛下は柔らかく弧を描いた唇を開いた。
「此度はシレクス村からこちらまで、遠い道をありがとうございます」
そこで一旦切って、彼女はほんの少しだけ表情を曇らせる。つられて、ルカも小さく眉を寄せ、小さく唾を飲み込んだ。
「まずは――何故貴女を呼んだのか、それを説明させていただきます」
木々を撫でて風が駆ける。彼女の若草色のエンパイアシルエットドレスが揺れる。
女王陛下は一層眉を潜めて、それから意を決したように口を開いた。
「――この国に、危機が迫っております」
静かだが、確信を持った声だった。
リアダン女王陛下の言葉に、ルカは、戦争でも起きるのか、と唇を噛んだ。
「ルクロク――あなた方がエルフの森、と呼ぶ場所に、神樹があることをご存知でしょうか」
エルフの森の神樹。
初めて聞いた言葉だった。ルカは声を出さずに、口の形だけで「神樹」と、その言葉をなぞる。
「存じ上げません」
アルヴァの声が女王に答えを返す。リアダン女王陛下はゆっくり頷いた。
「森の奥にあるからよほどのことがなければ、そうね、知らないわね……。神樹様は、その身に木蔦を纏う、大きな大きなオークの木なのです」
そこまで話して女王は、ふぅ、と息を吐いて、青い顔で笑みを浮かべた。
「……ごめんなさい、ここ最近、城に流れている魔力が体に合わないみたいで……ああ、どこまで話しましたか」
リアダン女王陛下は、椅子を持ってこようと動いた少女を片手で制して、言葉を続ける。
「……神樹様のことまでは話したわね」
彼女はそう言うと、ちらり、と背後のナナカマドの巨木を見上げた。
「エルフは守護樹と共に生まれるという話はご存知?」
それはルカでも聞いたことがあった。
エルフは文字通り、自身の道しるべとなる樹の芽吹きと共に生を得る。そして、エルフが死ぬときその守護樹も共に枯れるらしい。
らしい、と言うのも、人の倍を生きる彼らの死を看取ったことがある人間は、それこそ寓話の中にしかいないからだ。少なくともルカはその瞬間に立ち会ったことはない。
女王陛下の深いブラウンがルカを映す。それから、彼女は静かに頷いた。
「ああ、知っている方もいるのね。守護樹は、そのエルフを表すもの。私の守護樹のナナカマドが示すのは――」
彼女は静かに目を閉じた。
「――予言、先見……。私は夢を介して、ナナカマドの葉の重なりの奥に『先』を見るのです」
静かに開いたその瞳には憂いとほんの少しの恐怖が浮かぶ。
「普段なら、見える『先』は、心の奥の直感の声を映す……言わば、私が無意識に感じている虫の知らせを夢に見ているだけなのです。だから、外れることだってありました。ですが……」
唇から重い息を吐きだして、彼女は俯いた。
「今回は、違うのです。今回の夢は――神樹様がお見せになった物だったのです」
ルカは、思わず疑問を口にする。
「無礼を承知でお尋ねいたします。……なぜ、『今回の夢は神樹様が見せた物』とお感じになられたのですか」
リアダン女王はルカに咎めるような視線を送ることもなく、穏やかに頷いた。
「――わかるのです。私は、こちらに来るまで神樹の巫長として神樹様に仕えていました。時折感じたあの柔らかく神々しい魔力を、違えるはずがないのです」
どうか信じてください、とリアダン女王陛下が言葉を続ける。
「今からお伝えするのは、神樹様より受けた神託の言葉です」
そして彼女はアルヴァたちに一歩近づいて、歌うように言葉を紡ぎだした。
「――『祠を巡り、禁足地を開け』」
彼女の言葉を聞こうとしているかのように、森に静寂が満ちた。
一歩また一歩と彼女はこちらへ近づいてくる。
「――『微睡む灰燼竜を起こし、星蘭の楔を燃やせ』」
ついにアルヴァの目の前へ来た女王陛下は、ドレスが汚れるのも厭わず、アルヴァと目を合わせるように地に膝をついた。アルヴァもルカも、一言も発することができなかった。
今ここにいるのは、柔和な女王ではない。
神の言葉を紡ぐ、神樹の巫だ。
「――『末端を担う私の根が、危機を叫んでいる』」
彼女は、そっとアルヴァの右手を包む。
「……この夢見に、貴女がいました」
リアダン女王陛下は、その深い茶褐色の瞳にアルヴァを映して、囁くようにそう言った。
「見間違えるはずもない、我が友ハンナに似て、それよりも深い赤の髪。それから、エヴァン殿に似た、その意志の強そうな瞳――その、金の瞳」
そして彼女はアルヴァの手を握ったまま、懇願するように――神に祈るように、頭を垂れた。プラチナブロンドが地を撫でる。
「貴女の様に前途ある若者を巻き込むべきでない、と……私だってわかっております。でも、貴女でなければ……貴女でなければ、いけないようなのです」
ごめんなさい、力を貸してください――アングレニス王国を、どうか守ってください。
女王陛下の懇願に、アルヴァは左手でそっと彼女の手を包んだ。
そして、アルヴァの金の瞳は星を宿したように煌いた。
「私の力で守れると、女王陛下、貴女がそうおっしゃるなら――私は力の限り守って見せましょう」




