出会い②
不機嫌を露わに図書館を出たルカが鉢合わせたのは、彼が所属する研究室の室長だった。
ぷにぷにした体の六十も半ばに差し掛かった、老獪さとは無縁のこの教授。この人はルカにグラディシア学校への入学を薦めてくれた人であり、ルカの尊敬する人の一人だ。
「あれ、教授。どうしたんですか?」
ルカが微笑みながら尋ねると、随分ルカを探し回っていたのだろう、室長は額に浮かぶ汗を綺麗にたたまれたハンカチで拭いながら口を開いた。
「ここにいたんだね、研究室にいないから帰っちゃったかと思ったよぉ」
そのまま語る彼の話によると、彼がルカを探していたのは、他でもない、午前中に手伝った仕事――精霊魔術科の特待クラスの試験問題案の作成の件に関してだったようだ。本来ならばルカが行うことではなかったが、頼み込まれては仕方ない、とささっと作った案が学長に認められたのだと彼は嬉しそうだった。
君のおかげで学長に叱られずにすんだよぉ、と笑う室長に押し付けられたのは親指の大きさほどの長方形の薄い銀貨――小銀貨が三枚だった。彼は優しく微笑んでいる。
「もうすぐ暗くなるし、最近は獣も魔獣も活発だし、馬車で帰りなさい」
ここからルカの家があるシレクス村まで、歩けば一時間以上かかる距離だ。しかし、馬車を使えば二十分足らずで家に着けることだろう。
そうなると、馬車を手配しなければならない。
流石に学校には馬車屋はないので、馬車は学校を出て五分ほど歩いたところにある街道沿いのシャンセルという街で手配することになる。そこからルカの家があるシレクス村まで、小銀貨三枚もあれば十分おつりがくる。
とはいえ、この時間に帰るのなんて慣れっこだ。わざわざ馬車を使って帰ることもない。そもそも、お小遣いが欲しくて手伝ったわけではない。
そう説明しながらルカは慌てて小銀貨を押し返そうとしたのだが、彼のぷにぷにした手は全く退かない。
「いいからいいから……ああ! もうすぐ会議があるんだった! じゃあねぇ、ちゃんと馬車で帰りなさいねぇ」
そう言って、彼はルカに小銀貨を押し付けてえっちらおっちらと大講堂の方へ走って行ってしまった。受け取るほかなくなったルカは、彼に聞こえるように礼を言って好意に甘えることにした。こうなっては仕方ない、とルカは久々に馬車で村へと帰るべく学校の正門へと向かって再び歩きだす。
正門をくぐり林道を抜け、シャンセルへ着いた頃には、空はもう完全に赤く染まっていた。
大通りに面した飯屋から、腹の虫を刺激する匂いが漂っている。
とりあえず馴染みの薬草店で薬草を何種類か買ってから帰ろうかな、とルカが薬草店へ足を向けた、ときのことだった。
「なっ……どういうことです!」
きんきんと甲高い、若干ヒステリックとも言える声が通りに響いた。
ぎょっとした顔の通行人たちが足を止めて周囲を見回している。ルカも例に違わず足を止める。
見回せば、すぐに声の主は見つかった。
その声の主はルカが思わず、うわぁ、とこぼしてしまう程に目立つ格好で立っていたのだ。
ルカの目に映るのは、ルカと同じくらいの背丈の女性の後ろ姿。
赤い夕陽のなかにあっても金に輝く混じりけのない美しい髪は、流れるように滑らかに、あらわになっている背中にかかっている。
白い肌を隠すのは申し訳程度の面積の鎧で、見える限りでは、肩も、腕も、背中も、わき腹も素肌をさらしていて、唯一太ももを隠している草摺に彫り込まれた『祈る乙女と星型の蘭』の紋章が、アングレニス王国女王直属騎士団である、星花騎士団の一員であることをかろうじて示していた。
それにしても、とルカは首を傾げる。
いつから星花騎士団の鎧はあのように華美で、どう見ても戦闘には向かない露出の多い物に変わったのだろう。ブーツなんか、かかとに高いヒールがついていて、歩きにくそうなことこの上なかった。
身内に騎士がいるルカとしては、違和感しか覚えない格好だ。
まあ、こんな田舎の騎士と聖都イグナールに住まう騎士様じゃ流行りも違うのかも。
そうやって納得するルカの前で、騒ぎは続く。
「わっかんねぇ嬢ちゃんだな、だから俺たちの仕事はこれで終わりなんだって」
興奮した子猫のように肩で息をする少女をなだめているのは、がっしりとした体格の傭兵らしき男二人だった。
困ったように面倒くさそうに、ぐっと眉を寄せている男たち二人は豪奢でも何でもない、素朴で、しかし戦闘向きな皮鎧を着ていた。胸のあたりに焼き付けられたそろいの紋章から、同じパーティーのメンバーなのだろうことが推測される。
そこに道具屋から出てきた小柄な男が加わった。
「アニキ、買ってきやした」
「ん、ご苦労。年頃の娘が肌をさらして歩くのは感心しないぜ。俺たちが紳士的な傭兵であることに感謝しろよ、まったく……」
小柄な男から受け取ったマントで、大柄な男が少女の体を適当に包んでぶつくさ言っている。首元の留め具を留めてやって、男はため息をつきながら続けた。
「……でな、嬢ちゃん。もう一度言うけどな、俺たち、シャンセルまでって言うから引き受けたんだよ。ここなら一度、来たことがあったからな」
小さな子供にするようにゆっくりと言われた言葉が、少女は気に食わないらしい。
見れば、少女はその、剣を持つには華奢すぎる手で握りこぶしを作っていて、今にも叫び出しそうだった。
それを見てか、大柄な男は面倒そうに鼻の頭を掻いてから、肩をすくめた。
「そもそもな、俺たち出身はアルべリア地方だから、正反対のグラディシア地方の地理には疎いんだよ。その……シ、シ……なんだったか、ええと――」
「シレクス村ですっ!」
少女の苛立ちに満ちた声に、この騒ぎの行く末を見守っていたルカはぱちくりと瞬きをした。
シレクス村。
自分が今から帰ろうとしている場所の名前を出されて黙っているほど、ルカは薄情ではない。騒ぎの中心へ一歩近づいて、ルカはおずおずと少女に声をかけた。
「あの……」
横からいきなり声をかけたら驚かれるかな、と思いながら出した声は、思いのほか小さくなってしまったようで、ルカの小さな声は少女と傭兵たちの言い争い――傭兵たちは少女をなだめているだけだったが――の声にかき消されてしまった。彼は小さく唾を飲んで、もう一度口を開く。
「あのっ! シレクス村なら今から帰るところなので案内しましょうか?」
少女が金の髪をふわりと舞わせて振り返った。
胸部鎧と腰鎧をつないでいる細い鎖が、ちゃり、と美しく歌う。
ああ、綺麗な女の子だ、とルカは思った。
なにより、その、夕陽の中でも深い青にキラキラと輝いているたれ気味の大きな潤んだ目の美しいこと。
ルカはその瞳に、しばし目を奪われる。
少女も大きな目を更に大きく見開いて、ルカを見つめていた。
二人はお互いに見つめあって、動かない。
傭兵たちは「あとは頼むぜ」と言う疲れた声を残して、去っていく。
しかしルカはあいまいに返事をするだけで、少女の美しい青から目をそらせずいた。
そのままどのくらい経っただろうか。
流石に往来に立ち尽くして見つめあうのもおかしいし、と瞬きをして、ルカは小首を傾げながら口を開いた。
「あの……?」
はっとした様子で少女がわざとらしく咳払いをして、彼から顔を逸らしてクイッと顎をあげた。
「……シレクス村へ、案内を頼みます」
つんと澄ました表情で、取り繕ったような口調と声。
高飛車にも見えるその態度に内心苦笑いを溢しつつ、上手に表情を取り繕って、ルカは改めて少女の装備を確認した。近くで見てもやっぱり高いヒールのついたブーツだ。
ルカは少女をまっすぐ見て、柔らかく微笑んだ。
「はい、おまかせください」
馬車を頼んできます、と少女に断ってルカは馬車屋へ足を向けた。