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第一章エピローグ――解けた封印、盗まれた物

 目を覚ました時、ルカは自室のベッドの上にいた。

 霞む視界と、頭に響く鈍痛。まるで、没頭していた研究がひと段落ついて、白衣のままで泥のように眠った時のような状態だった。だからこそルカは――


「……――全部、夢?」


 寝ぼけた頭で、そう断じた。


「――そっか、夢か……」


 祠巡りも、戦いも、血生臭さも――、それから、出会いも。全部、夢。ルカの心にほんの少しの寂しさが灯る。


 もそもそと布団から這い出て、窓を見る。カーテンの隙間から見える外は、薄暗かった。恐らくまだ早朝の時間帯だろう。ルカは、だったらもうひと眠り、と結ったままだった髪を解いて、手に残った感触がいつもの安っぽい髪ゴムではないことに気が付いた。手の中をゆっくりと見下ろせば、そこにあったのは砂埃で汚れても美しいままの青いリボンだ。金の髪がルカの脳裏を過る。

 ルカが「夢じゃなかった」と呟いた直後、扉がノックされた。


「はい」

「ああ、起きてたか」


 扉から顔を出したのは、濡れた髪を拭いているアルヴァだった。


「これ」


 そんな彼女が差し出しているのは、高級そうな紙を使った封筒だった。あしらわれた封蝋は両陛下の物とは違い、これと言った紋がない。強いて言えば、鋭い爪を押し付けたような形だった。

 姉を見れば、彼女はルカに読むようにと目で示している。

 ルカは素直に手紙に目を落とし、それから真剣な顔でアルヴァを見上げた。


「アングレカム様からじゃないですか。しかも『伝えなきゃならないことがある』って……」

「なんというか、胸騒ぎがする。火竜に乗せてもらってすぐに城に向かおうと思うんだ。準備、できそうか?」


 ルカは大きく頷いて、手早く準備を終えて部屋を飛び出した。


 ******


 ルカとアルヴァとケネスは、火竜の背に乗って城を目指した。

 イグナール城の飛行訓練場でルカたちを迎えてくれたのは、レベッカと、フィオナと、それからカレンだった。


「まずは、両陛下へあいさつに行かなければな」


 レベッカの言葉にアルヴァが頷く。謁見の間まで、先頭を歩くのはアルヴァとイグニアとレベッカ。ルカは彼女たちの背中を見ながら、カレンと共に一番後ろを歩いた。

 ルカはチラリとカレンを見る。と、カレンもルカを見ていたので視線がぶつかった。ルカはそのまま綺麗な青を見ながら口を開いた。


「カレン、体の調子は? 怪我とか、大丈夫でした?」


 言いながら、視線を体へと向ける。祠巡りの際に来ていたのと同じような服装から伸びる手足には目に見える傷は無いようだった。


「わたしは大丈夫です。ルカは?」

「若干頭が痛いですが、それだけですね」


 良かった、とホッとしたような顔で前を向くカレンに、ルカは緩く握った拳を差し出す。カレンは不思議そうに彼の拳を見つめているだけだった。だからルカは、彼女の手を受け皿にして拳の中の物を自由にするのをやめて、くるりと拳をひっくり返してそっと開いて見せた。

 ルカはそれが風に飛んでしまわないように端を指で挟みながら、カレンに差し出す。


「これ、ありがとうございました。――ああ、ちゃんと洗いましたよ」

「えっ、似合ってたのに」


 まさか返されるとは、とでも言いたそうな声色だった。

 ルカは、まさかそんな言葉を返されるとは、と思いながらポカンと口を開いた。

 

「えっ?」

「ルカ、青が似合いますよ。だから、その、嫌じゃなかったら貰ってください」

「……男に向かってリボンが似合うなんて、カレン。きみ、変わってますよ」


 でもまぁくれるのなら、とルカはリボンをポケットに戻す。そうしたらカレンがとても嬉しそうに笑うものだから、ルカはなんだか暖かいような、くすぐったいような、変な気分になった。


 謁見の間への道中、王室魔導士の黒い制服を見かけることは無かった。それをレベッカに尋ねれば、彼女曰く、あの時イグナール城に残っていた生身の王室魔導士はケネスが伸した一団だけで、その一団も、城から離れた収容所でその全員の死亡が確認されたそうだ。ルカの脳裏に、沼地で対峙した男の凄絶な笑顔が浮かぶが、ケネスが伸した一段の死因はどうにも爆死ではないようだった。ルカは不謹慎を理解しながらも安堵を覚えた。


 ぽつぽつと話しながら歩けば謁見の間へはすぐだった。

 大きな扉の前でレベッカが足を止める。


「さあ、ここからは君たちだけで」


 その言葉につられるように、カレンがレベッカの方へとそそくさと歩き出す――が、彼女はレベッカにそっと背中を押されてルカの隣へ戻ってきた。


「カレン。君も行くんだよ」


 恐らくカレンは、この謁見が自分には関係のない物だと思っていたのだろう。だが実際はカレンも両陛下の御前に進み出なければいけない。その事実を理解したらしいカレンはルカの隣で真っ青になって石のように固くなってしまった。ルカはしかたないからカレンの手首を握って引っ張ってやりながら、謁見の間の扉をくぐった。


 謁見の間、その奥。王室魔導士の反乱のあったあの時には空だった椅子に、両陛下は静かに座っていた。


 ルカたちは前に進み出て、その御前に跪く。


「……よく、来てくれた」


 掠れた低い、しかし優しい声だ。柔らかさの中に芯のあるこの声こそ、アングレニス王国国王、ルウェイン陛下の物である。ルカは跪きながら、さらに深く頭を下げる。


「顔を上げてくれ」


 声に導かれるように頭をあげれば、ルウェイン陛下はルカたちの前に立っていた。隣に立つリアダン王妃に支えられながら彼は一人一人の前に膝をついて確かめるように肩を叩き、そしてその大きな体で一人一人を丁寧に抱きしめた。もちろんルカも抱きしめられた。萎んだ筋肉は早々には戻らないだろうが、でも、謁見の間の向こうに広がる庭園で背負った時よりも随分暖かくて、ルカは安堵に涙を流してしまいそうになった。


 陛下は全員を抱きしめ――もちろんイグニアも――終えると、ふらりとよろめいて、リアダン王妃に支えられて椅子へと戻った。


「すまないな、情けないところを見せてしまった」


 よろめいたことを言っているのだろうルウェイン陛下は脚を擦っている。擦られることで浮き出た脚の形は、ずっと寝たきりにさせられていたであろうというのが察せるほどに細い。


 椅子に深く腰掛けて息を吐いた陛下は、ルカたちを静かに見つめてから深く深く頭を下げた。

 それに慌てたのは、アルヴァだった。


「へ、陛下っ! おやめください!」


 王は頭を垂れたまま、口を開く。


「君たちには、感謝してもしきれない。この国を、民を、そして我々を。君たちは、その若い手ですくってくれた」


 ありがとう、と噛み締めるような言葉だった。王はそれっきり口を閉ざして動きを止める。

 一拍おいて、言葉を放ったのはアルヴァだった。


「――私たちは、成すべきを成したまでです。陛下、どうか」


 静かな声に、ルウェイン陛下は小さく肩を揺らしながら顔を上げる。その顔には懐かしむような柔らかい笑みが乗っていた。


「君は本当に、エヴァンに似ている。彼もかつて、そう言った」


 陛下が一息ついたところで、今度はリアダン王妃が口を開いた。


「皆様、本当にありがとうございました。私の願った全てを、あなた方は叶えてくださいました」


 王妃はプラチナブロンドを揺らして一礼して、それからルウェイン陛下を見た。


「此度の君たちの働きに応え、私たちから褒章を贈らせていただきたいのだが……受け取ってくれるだろうか?」


 謁見の間に静寂が満ちる。流石のアルヴァもすぐには言葉を返せなかったらしい。彼女は一瞬背中を震わせてからスッと背を伸ばし、深々と頭を下げた。ルカたちもそれに倣って頭を下げる。


「――ありがたき幸せにございます……!」


 ルウェイン陛下は微笑んだようだった。雰囲気が更に柔らかくなる。と、周囲で空気が動いた。ルカは何事かと頭を下げたまま周囲に目を走らせる。その直後、彼の目の前に封筒が差し出された。封蝋に刻まれているのは、ルウェイン陛下の紋章である。


「本当は、今すぐにでも授与したいのだが……すまない、事後処理に追われていてな。だから、授与式はこれから一週間ほど後になってしまう」


 招待状だけ先に渡しておくよ、とルウェイン陛下が笑う。と、陛下が咳き込んだ。体調が芳しくないのだろう。しばらく咳き込んで、そして陛下は「すまないな」と眉を下げる。


「さて、本当ならばもっと労いたいところではあるのだが……君たちを待っているお方がいる」


 王が「案内を」と言うと、進み出たのは聖都騎士団長だった。彼はルカたちの側に立ち、こちらへ、と促すように歩き出す。ルカたちは両陛下へと深く礼をして、それから謁見の間をあとにした。

 

 ******


 一行が案内されたのはルカたちも入ったことのある、イグニスの間だった。聖都騎士団長が緊張した面持ちで扉をノックすれば、「入れ」と低い返事があった。

 騎士団長がそっと扉を開き、ルカたちはイグニスの間に足を踏み入れる。後ろで扉が閉まった音に振り返れば、そこに騎士団長の姿は無かった。


「座れ」


 声の主は、まるでここの主人であるかのような堂々とした態度で足を組みながら、その全き赤の目でルカたちを見ている。その横には――黒髪の硬い表情の女性が、実体をもって座っている。

 ルカとアルヴァは顔を見合わせて、それから素直にソファの対面に腰かけた。


「アングレカム様」


 アルヴァはそう言いながらポケットから手紙を出してローテーブルに置いた。


「私たちに伝えたいこと、とはなんでしょうか?」


 アングレカムは隣に座るイグニスと顔を見合わせて、それから小さく口を開く。


「言いづらいことなんだけど……」


 ぐっと言葉を飲み込んで、それからアングレカムは緑の眼でルカたちをまっすぐ見つめた。


「――ごめんなさい、()()が盗み出されたみたいなの」

「アレ、とは」


 アルヴァの言葉にアングレカムは大きく頷いた。


「君たちは覚えてるかな……あの尖塔、ええと、わたしの体があった場所で――」


 禁足地でのことか、とルカはアングレカムの言葉の続きを待つ。


「あそこで、わたしが死んだときの話をちょこっとだけしたんだけど……」

「僕たちが知らない戦争で亡くなった、とおっしゃってましたね、確か」


 ルカの言葉に聖女が頷く。そこからの言葉を継いだのは、イグニスだった。


「簡単な話が――封じていたモノが、盗み出されたんだよ」


 イグニスの言葉が、ルカの脳を刺激する。


 今や花咲く禁足地の花畑の時が、まだ止まっていた頃。雷神竜レビンと初めて出会った時。

 その時に、雷神竜レビンと地神竜エザフォスが語った、神話の裏側のその一端。


 ――神々の戦争。

 ――たった一柱を押さえるために、多数の神が犠牲となった戦争。

 ――文献に残らなかった戦争。否、神竜たちが、文献に()()()()()()()戦争。


 ――人に名を知らせず、存在を忘却の彼方へと落として殺すために呪縛した、一柱の神。


 ――アングレニス王国が大地の下に孕む、封じられた神。


 ルカの額に冷や汗が流れる。


「そ、れは……イグニス様、この国の下に封じられたという……僕たちには名すら知らされていない神の事ですか」


 ルカの震えた声に、イグニスは小さく肩を動かし、それから大きく溜め息を吐いた。


「……そうだ」

「どうしてそんなものが、盗まれて……」


 どうやって、と唾を飲みこむルカの前でイグニスが低く唸った。


「どんなものでも、封じるには依り代がいる。奴の場合は、石だった」


 イグニスの語るところによれば、その神は巨大な石の中に封じられ、そしてそれを闇神竜ライラがその身の闇の力を全て使って、寝かしつけるようにして常闇の中に閉じ込めていたのだそうだ。そしてその石は、禁足地の向かい側、遺跡の奥深くに安置されていたという。遺跡は、人が、いや、生物全ての侵入を拒むように瘴気と毒と濃い負の魔力で満たされていて、だからこそ、アングレニス王国とマキナヴァイス帝国の遺跡の共同発掘は中止となったのだ。

 

 禁足地と遺跡とは、結界で守られていた。意志を持った者が立ち入れば、神竜の魔力によって凍り、雷に大地の槍に貫かれ、燃えて、溺れて死に至る。だからこそ、神竜たちは油断してしまったのだという。

 イグニスとアングレカムが魔力を蓄えこちらの世界に戻った時、彼らは胸騒ぎがしたのだという。

 その胸騒ぎに従って遺跡深くを確認しに行けば――そこは、もぬけの殻だったのだ。

 もはや遺跡の中にはあるのは、上位者()しか立ち入れないほどの負の魔力と、ねばつく闇と、只人の命を害する瘴気のみだった。


「――俺たちの失態だ、これは」


 悪い、とイグニスが歯ぎしりしながら頭を下げている。


「じゃ、じゃあ……その神様は、いま、自由になってるってことですか……」


 カレンが震えた声で問えば、イグニスは首を横に振った。


「まだ、完全に自由にはなってないはずだ。完全に自由になってれば、ライラは殺されてる。でも、アイツはまだ生きてる。俺もアイツも、――お前ら人間が神竜と呼ぶ存在は、同じ奴に創られた。だから同種の死はわかる」


 アイツは生きてる。


 噛み締めるような言葉だった。隣に座ったアングレカムが、イグニスを慰めるように寄り添っている。

 しばらく押し黙っていたイグニスが、赤の目でアルヴァを見た。


「この話はお前らと、それからこの国の王族だけに知らせる。お前らが生きている間に解決するような話ではねぇだろう、……でも、俺たちが犯した失態を知る人間は、いた方が良い」


 イグニスは大きく大きく溜め息を吐いて、そして「人に広めるなよ」と吐き捨ててソファの背もたれに頭を預けた。


「はい、言いません。私たちの心の中だけにとどめると誓います」

「そうかよ」

「私たちは非力な人間ではありますが……力になれることがあれば、いつでもお伝えください」

「……そうかよ」


 一瞬の間を置いて、イグニスは頭を起こしアルヴァの胸元を指さした。


「だったらそれ。お前か、お前の弟が持ってろよ」


 それ、というのは? と首を傾げるルカの前で、アルヴァは首元から神竜の鱗のネックレスを取り出した。


「それぞれの竜の長に、返そうと思っていたんですが……」

「いいから持ってろ。最高の触媒になる。何かあった時のために、絶対に持ってろよ」


 はあ、と曖昧に返事をしたアルヴァに、イグニスは「約束を違えたらぶっ殺すからな」と念押し――という名の脅し――をして、そして立ち上がった。


「じゃあな」


 部屋を出て行くイグニスの背中を追いかけるのは、アングレカムだ。彼女は柔らかく笑いながら口を開いた。


「多分、授与式でまた会えると思うんだ。その時、ゆっくりお話が出来るといいな」


 廊下から「アングレカム」と低い声が響いてくる。それを聞いたアングレカムは、ルカたちに手を振って、イグニスの間から出て行った。


 足音が遠ざかって聞こえなくなった頃、ルカはやっと大きく大きく息を吐いて目元を揉みしだくことができた。


「……なんか、かなりまずいことに巻き込まれてませんか……」


 アングレニス王国の地中深くで封じられていたはずの神は、もはや盗み出されてしまった。


 誰に? ――生物の立ち入ることのできない魔窟と化した遺跡に侵入できたのは、一体誰なのか。

 どうして? ――そんな危険な場所にある物を、どうして盗み出したのか。

 

 謎が脳を巡っているが、しかし、ずっとここで考え込むわけにもいかない。ルカは鋭く息を吐いて立ち上がる。


「とりあえず、姉上。買い物でもして、帰りましょう」

「買い物?」

「とんでもない事実に打ちのめされて考え込んでたって、良いことなんかないでしょう」


 鱗のネックレス弄んでいたアルヴァだったが、彼女は大きく頷き立ち上がる。


「そうだな。とりあえず腹ごしらえに行こうか。フィオナ、カレン、君たちはこのあと何か用事があったりするか?」


 フィオナは申し訳なさそうに首を振る。


「私は、リアダン様に旅の子細をお伝えしようと思っているのです」

「そうか……カレンは?」

「ないです!」


 溌剌とした子犬のような返事にルカは笑ってしまった。


「じゃあ、一緒に昼食でもどうだ? 火竜亭という店のスープが美味しいんだ」


 なあケネス、とアルヴァがケネスを振り返る。刹那の沈黙の後、ケネスはぎこちなく微笑んだ。


「ああ、あそこは美味い。みんなで食ってこいよ、俺、先に帰る」


 足早にイグニスの間をあとにしようとするケネスの服を、イグニアが咥えて引き止める――が、彼はイグニアを静かに見つめて、そして見つめられたイグニアはキュウキュウと鼻を鳴らしながら彼の服から口を離した。


 イグニスの間に、微妙な空気が満ちる。

 それを砕いたのはアルヴァだった。


「うーん、残念だな。……とりあえず、じゃあ、三人で食べに行こうか」


 ニコ、と微笑むアルヴァはどことなく寂しそうで、でもルカはそれを指摘しなかった。アルヴァとケネスの喧嘩、というよりケネスの不機嫌に首を突っ込んで、良い方向に転がったためしがないからだ。


 アルヴァを先頭にイグニスの間を出て、フィオナはリアダン王妃のもとへと向かって歩き出す。方向的に、恐らくはナナカマドの庭に向かっているのだろう、と推測しながらルカは彼女を見送った。


 そのあと、エクエス姉弟とカレンが謁見の間の前の廊下に差し掛かった時の事だった。

 大きな扉が閉まる音に、三人と一匹はそちらを見る。

 

 大きな扉の前には、人が一人いた。

 扉の両脇に立つ騎士にぺこぺこと頭を下げるのは、シルバーブロンドの男性だった。きっちりとした黒い制服を身に纏っている。王室魔導士の制服によく似ていたが、それよりも洗練されているように見えた。


「誰だろう」


 ルカの呟きにカレンが小首を傾げる。

 と、その時、男はこちらに気が付いたようだった。男はすこし早足でルカたちの方に向かってきている。そして目を瞬かせるアルヴァの前に立つと、銀髪メガネの三十代くらいに見える男は乱れた息を整えるようすを見せてから口を開いた。


「君はもしかして、アルヴァ・エクエスさん……でしょうか?」


 気の弱そうな声だった。


「そうですが……」


 アルヴァが答えると、男は崩れ落ちるような勢いで頭を下げて、「申し訳ございませんでした」と繊細そうな声を更に震わせてそう言った。


「すみません、話が見えないのですが」

「ああ、申し遅れました。わたくし、マキナヴァイス帝国の中将、アンリと申します。この度は、我々の軍部の一部が暴走してしまい、ご迷惑をおかけいたしました」


 アンリと名乗った銀髪の男は、顔面中に汗を流しながら、胃の痛そうな顔で言葉を続ける。


「お恥ずかしながら、現在のマキナヴァイス帝国は軍部を制御出来ておらず……その結果、このようにアングレニス王国の方々にご迷惑をおかけしてしまいました。ああ、首謀者であるウィル・バークレーはこちらの法で厳しく罰し、二度と国外へは出られぬ形にしてあります。どうか、どうか……彼のしでかしたことが、マキナヴァイス帝国の本意ではない、という事だけは、理解していただけると――あ、あいたたたた……」


 胃が、と呻くアンリの背中をアルヴァが擦っている。


「大丈夫ですか? 医者を呼びましょうか」

「お気遣い、痛み入ります。ですが、これ以上のご迷惑をおかけすることもできません。……ああ、本当に嘆かわしい。ウィル・バークレーはどうしてこんなにも心優しい女性を……ああ、失敬。皆さまのお時間を取ってしまいました。お許しください」


 アンリという男は、どこまでも腰が低かった。顔も、これぞ優男、というつくりを胃痛で崩していて、どう見たって敵意なんか持っていないように見えた。ルカは、マキナヴィス人にも色々いるんだな、と考えながらバッグを漁り、調合してあった胃薬を彼に差し出した。


「これ、良かったら。胃薬です」


 アンリの銀色の目が薬を見下ろしている。数秒開けてから、彼は薬を受け取ってニッコリ微笑んだ。


「これは、ありがとうございます。使わせていただきます……っと、申し訳ありません」


 アンリは薬を握り締めながら、腕にある銀の物――恐らく小型の時計だろう。それを見つめて申し訳なさそうに笑った。


「もう、行かなければ。この度は本当にご迷惑をおかけしました。繰り返しになりますが、マキナヴァイス帝国には敵意はございません。次の秋の三国交流会でお会いできること、また、アングレニス王国とマキナヴァイス帝国の親交を深められることを、心より祈っております」


 それでは、と言ってアンリは廊下を歩きだす。ルカたちはその背中を見送った。アンリは律義にも途中で振り返って大きく会釈をして、そして見えなくなった。


「なんか、変な感じです。早く行きましょう」


 カレンが呟く。どことなくソワソワして見える彼女を覗き込んで、ルカは「ははーん」とニンマリ笑った。


「そんなにお腹が減ってるんですか?」

「なっ――ち、ちが……」


 ぐきゅるるる~、と廊下に腹の虫の鳴く音が響いてカレンの顔が赤くなる。

 アンリが消えた方を見つめていたアルヴァも、この音には振り向かざるをえなかったらしい。彼女の口は笑みを湛えていた。


「ぐ、ぐぅぅぅ。ち、違うんですよ、わたしは別に、そんな」

「ふふ、私の腹の虫もつられて鳴きそうだ。早く火竜亭にいこうか」


 アルヴァとイグニアが歩き出す。アルヴァの背中をしばらく見ていたカレンが、恨みがましそうな目でルカを見る。


「……ぅぅぅうう!」

「唸られても何もわかりませんよ、ほら、早く行きましょう」


 転ばないでくださいね。転ばないです! ――と。いつだかと同じようなやり取りをしながら、ルカは姉の背中を追いかけ、城の外にでる。


 空には視界一杯の青が広がっていて、城下には人の活気が満ちていて――でも確かに、十数時間前のこの場所には、死の危機が迫っていたのだ。ルカたちが祠を巡って禁足地に踏み入り、アングレカムとイグニスを戒めていた楔を燃やすきっかけを作っていなければ、もしかしたら、この国は今存在していなかったのかもしれない。


 空の青を吸いこむように、深呼吸をする。新鮮な空気がルカの肺を満たす。


 ルカは自分たちがこの平和を守る一端を担えたことを誇らしく思いながら、こちらを振り向く姉の方へと駆け出した。

 ――第一章 解けた封印、盗まれた物 了。


【お知らせ】

 第二章をいつ更新できるかわからないため、本作は第一章分で完結とさせていただきました。


 プロット自体は物語の最後まで作ってありますので、続きを書けるようになったらまた新しく連載を始めさせていただきます。読んでくださっていた方、急なご連絡になってしまいまして本当に申し訳ありません。


 またいつか、お会い出来たら嬉しいです。

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