黒き死を照らす篝火②
隣でイグニアに跨る姉を見上げ、ルカはしばらく言葉を口に出来なかった。
「……プランはあるんですか」
ルカがやっとの思いで口に出せば、アルヴァはもはやボロボロの襟元から零れる神竜の鱗のネックレスを揺らしながら――笑った。綺麗に、笑った。
「うん。大丈夫だ」
「どんな」
アルヴァは煌く瞳のまま困ったように微笑む。
「……あとで教えるよ。とにかく今は、私が時間を稼ぐ。ルカ、お前たちは陛下をお救いして、ここから離れて――」
ルカは、この高潔なひとの弟を、もう十三年間やっている。
だから、彼女が何を思って、この後どうしようとしているのかなんて、それこそ手に取るようにわかる。
ルカが王を助け出したとして。ここから離れたとして。
アルヴァ・エクエスという人間は、人々が憩う都市の真ん中に存在する黒い騎士に背を向けられるだろうか。
答えは、わかり切っている。
「嫌です!」
ルカは大きく首を振る。姉を捕まえようと伸ばした手は、しかし、羽ばたきが起こした風に弾かれる。
「陛下は、向かい側の物陰に。……頼んだぞ」
赤が遠ざかっていく。ルカは痛む心臓と巡る様々な感情のやり場を失ってきつくきつく目を閉じ、それからカレンたちを振り返った。
「僕、陛下を探しに行きます」
「わ、わたしも行きます! だって、陛下は背が高くていらっしゃるんだから……! ルカ一人じゃ、お連れできないです!」
ルカはカレンを睨む勢いで見つめる。が、涙目ながらもカレンは退かなかった。
「一人で運ぶより、二人で運んだ方が良いですっ!」
「――わかりました。じゃあ、僕から絶対に離れないで。良いですね」
大きく頷くカレンを見てから、ルカはフィオナの方に目を向ける。
「フィオナさん、ロゼマレイン様。二人は、避難と――それから、外の騎士たちと、あとエントランスにいるケネスに風を使って現状の連絡をお願いします」
フィオナは悔しそうに唇を噛み締め、それから頷いた。北風の上位精霊が浮き上がって、フィオナを抱いて退いて行く。それを最後まで見届けずに、ルカはカレンの手を取って駆け出した。
上空では激しい唸り声と金属がぶつかる音と、炎の燃える音が響いている。どんどん苛烈になっていくそれを聞きながら、ルカは周囲を見まわしつつ走る。
アルヴァが言った、向かい側。伸び伸びと手を広げるオークの木のその影。国王は、横たわっていた。
素早く側に跪いたルカがそっと脈を確認する。彼自身の心臓が暴れまわっているから普段よりも確認に時間がかかったが、それでもルカの指は王の鼓動を微かに感じ取った。
軽く肩を叩いても反応はない。すぐすぐ意識が戻ることはないと判断し、ルカはカレンを振り返る。
「カレン、陛下を僕の背中に乗せるの手伝ってください」
涙塗れのまま、カレンがルウェイン陛下を何とか抱き起す。と言っても、上半身を起こさせるのがやっとだったようだ。ルカは王の前に移動する。どうにかして王を背中に、と二人で奮闘し、そして王を背負ったルカがやっとのことで立ち上がった頃には、周囲の空気が変わっていた。
まるで――そう、地中から何かが這いあがってくる前兆のように。
ルカは前に垂らしたルウェイン陛下の腕をしっかり掴みながらカレンを見た。
「嫌な予感がする、早く行きましょう」
うろたえるカレンに白衣を掴むように指示を出して、彼女の細い指が白くなるくらいに強く白衣の端を握ったのを確認し、ルカは走り出した。
ルウェイン国王はルカよりも随分と背が高い。そして、今は多少萎んでいるにしても筋肉質な体をしている。重い。重かった。ルカは心の中で彼の足を引きずっていることを謝った。でも、今はそこまで気を遣って彼を運ぶ余裕がない。
走って走って、やっと行きの半分を戻れた時だった。
汗だくで、喉の奥に鉄臭さを感じながら走っていたルカの肌を、寒気が駆け登る。
上で何かあったか、と走りながら見上げれば、赤と黒は先ほどと同じようにぶつかり合っている。変わったことと言えば、赤が劣勢に立たされ始めていることくらいだろう。
ではこの悪寒の原因は、と震える足を必死で動かしながら考えれば、ルカの脳裏に浮かぶのは、つい先ほども現れてジョルジュと機械兵を喰らった黒い悍ましい不定形である。
――頼む、出て来ないでくれ……!
そうやって祈るルカの前へ、空から叩きだされたらしいアルヴァとイグニアが降ってきて、派手に、しかししっかりと四本の足で着地した。アルヴァもイグニアも、ルカに気が付くこともなく空を睨んでいる。つんのめりそうになりながら視線を追えば、目に入るのは狩りをする翼竜のように翼を畳んで急降下してくる黒い騎士の姿。
避けて、と叫ぼうとしたルカだったが、言葉は喉の奥でとどまった。
アルヴァの前で、黒い騎士が急停止したのだ。赤紫の目は彼女を睨んでいたが、しかしフッとそれが弱くなる。と、黒い騎士が何やらぶつぶつと聞き取りにくい音を発した。アルヴァに向いたわけでもルカに向いたわけでもない――しかし、声の調子から伺うに、独り言ではないようだった。
黒い騎士の赤紫の瞳は、どうにもアルヴァの首元を見つめていて――
「――っぁあああッ!」
イグニアの背から大きく跳躍したアルヴァが剣を振るう。黒い騎士が空に逃げる。アルヴァの足が地面に着く前にイグニアが受け止めて、二人は黒を追って再び空へ漕ぎ出した。
たたらを踏んで止まった足は、背負う重荷に動くことを拒んでしまった。
そうやってルカが足を止めている間にも、アルヴァは黒い騎士を戦い続け、そして地中からは何かが忍び出てこようとしている。
ルカは歯を食いしばる。一歩踏み出しさえすれば、まだ歩ける。必死で筋肉を動かして、半ば倒れるようにして一歩、また一歩、と進んでいく。そのうち足音の感覚は短くなっていく。
咳き込みながら唾を飲みこんだルカは、今一番嗅ぎたくなかった匂いを感じ取ってしまった。
腐臭。生を冒涜するような匂いが微かに立ち昇り始めている。
「ルカ、この匂い……!」
「――はや、く……陛下を、安全な場所に……!」
二人は必死で歩いて、そして何とか、ルウェイン陛下をフィオナとロゼマレインがいる場所にまで連れ出すことに成功した。意識のない王をフィオナに預け、ルカは息を整える間もなく踵を返す。
――あとは姉上だ……!
死んだ空気は今や庭園の外、今ルカたちがいる謁見の間まで届いている。
焦りが、ルカの足を速くする。
重い幕に潜り込んで、崩れた扉を潜り抜け、そしてルカは絶句したのち、襲い来る悪臭に吐きそうになった。
もはや西日も沈みかけた薄赤紫の空を背景に、庭園の中央からにじみ出た『死』が上空に手を伸ばして、ひどく歪んだ声で啼いている。手の先にいるのは、アルヴァと黒い騎士である。
「――姉上っ!」
ルカの声に、アルヴァとイグニアが弾かれたように動いた。
力強い羽ばたきが空気を打って飛びあがる。それを追うように伸びた黒い触手は、別の部分から伸びた触手にからめとられ、不定形の中へと沈んでいく。それを見たらしいアルヴァが一瞬動きを止める――が、それは本当に、それこそ指を弾くのと同じくらい短い間だった。彼女はイグニアに腹を沿わせ、大きく旋回しながらルカの方へと降りてくる。
着地の風に煽られ尻もち着きそうになったルカを抱きかかえるようにして捕まえてくれたのは、イグニアから素早く飛び降りたアルヴァだった。彼女はイグニアに謁見の間の方へ行くよう指示を出しながら、振り返るように空を仰ぎ見ている。ルカも同じように空を見上げた。
今や耳を塞ぎたいほどの音量で響く悍ましい叫びと泡のはじける粘着質な音。
その真ん中で、先細りしながら伸び続ける不定形のその先にいるのは、黒い騎士である。まるで母親に縋る赤子のように、啼きながら、身もだえしながら、腐った細長い体を揺らしている。
黒い騎士は、下を見つめているようだった。が、しばらくすると、まるで隣にいる誰かの言葉に耳を傾けるような様子を見せて、そして大きく羽ばたき空を昇った。黒く目立つその姿は、薄闇色に染まり始めた雲の彼方に消えていった。
ルカは、ホッと息を吐きたい気持ちでいっぱいだったが――でも、まだ問題が残っている。
死のサーカス団は黒い騎士が遠のくにつれて、その悲鳴じみた鳴き声を酷い物にしていった。つんざくこの声は、恐らく、聖都周辺の村や街にまで届いているだろう。
「このまま放ってなんておけない」
アルヴァの低い呟きに、ルカは彼女を見る。その横顔は真剣だった。
対処方法も確立されていない化け物を相手取るなんて、とも思うが、でも、ルカも同じ気持ちだった。
「姉上。一旦、地下に追い戻しましょう」
「何かいい方法があるのか」
ルカは大きく頷いて、アルヴァの胸元に零れだしているネックレスを持ち上げる。
「イグニス様の鱗に、火を――」
その時だった。
地面が大きく揺れる。ルカもアルヴァも立ってられないほどだった。
見れば死のサーカス団の根元がどんどん太くなっていて、それがこの局所的な地震の原因だった。
ルカの脳裏を、今日何度目になるかわからない死が過る。
その間にも、『不定形の死』はルカたちの方へと膨らんでいて――唐突に、動きを止めた。
周囲が赤い。
夕焼けの時間をとっくに過ぎているであろう空が、真っ赤に輝いている。光源は、もちろん太陽などではない。
空を見上げたルカの濃琥珀の瞳に映るのは、この庭園を、イグナール城を覆う程に大きいであろう巨大な魔法陣の、一端。
赤く煌々と輝くそれは、まるで火神竜の目のような――
「テメェら、なんでここにいる。……テメェらの主は、ここにはいねぇだろう」
上空からもたらされる暖かい風に乗って、低い声が降ってくる。
その声と――それから、声の主が灯す炎におびえるように、不定形が縮んでいく。
ルカもアルヴァも、立ち上がることすら忘れて、天に君臨する紅を見つめた。
羽ばたく二対の翼。
王冠を頂くように伸びる、二対の角。
風に柔らかく揺れる、赤に金とに輝く鬣。そして、そこに跨る、黒髪をたなびかせる女性。
――火神竜イグニス。
――竜の聖女アングレカム。
この国の守り神たる二柱が、死のサーカス団を見つめている。
「――ごめんね。君たちのご主人様は、まだ……」
アングレカムが泣きそうに震える声で呟いて、その言葉尻をかき消すようにイグニスの炎が不定形を包み込む。
炎に閉じ込められた死のサーカス団は唸り、嘆き、もがいて、そして地面に溶けるようにして消え去った。
炎が消える。と同時に、先ほどまで死のサーカス団がいた場所に降り立ったイグニスは窮屈そうにしながら周囲を見まわして、それから右前足に火を灯したかと思えば、それを地面に勢いよく押し付けた。手に纏っていた火は地面に吸い込まれていって、その直後、四方から伸びてきた赤い光が庭園の真上でかち合った。
ルカは、不浄の一切が浄化された感覚とそれから上空に一瞬煌いた薄赤の膜を見て、この神竜が聖都全体に結界を張ったのだと理解した。
――もう安心だ。
ルカの中で緊張が切れる。彼は首をカクンと大きく動かして俯いて、安堵のため息を吐きだした。
「おい、お前ら。これで借りは一つ返したからな」
イグニスの声が近くなる。ルカは顔を上げた。眼前に迫るのは、神竜の牙の覗く顔である。
「……ひとつ……?」
もはや頭が回らないルカがぼんやりした声で尋ねれば、イグニスは大きく鼻を鳴らした。ルカの前髪が揺れる。
「あ? てめぇらへの借りが、たったの一度で返せるとでも思ってんのか?」
どういうこと? と首を傾げるルカの前に、イグニスから降りたアングレカムが歩み寄る。
「イグニスってばこんな言い方しかできないやつなんだ、許してね。今のセリフを翻訳するとね――」
「てめぇは黙ってろやアングレカム!」
アングレカムの笑みがニヤニヤ笑いに変わる。
「恩返しできない~って言って、魔力溜め切らずに転生したくせにぃ……」
「黙ってろ!」
イグニスは大きく咳払いして、ルカとアルヴァを見下ろしながらその身を光の球へと変えた。それに釣られるようにして、アングレカムの姿も変わる。
今や、へたり込むエクエス姉弟の前には赤と緑の光球が揃って浮いている。
「――俺もこいつも、あそこの……アングレカムが寝こけてた場所にいるからな」
「つまり、困ったことがあったらいつでも来てくれていいよ……って言いたいんだ、イグニスは」
赤い光球が緑の光球に体当たりする。緑の光球はそれを受け止めながら、笑うように輝いている。
「わたしも、イグニスと同じ気持ちだよ。君たちには感謝してもしきれない……あ、そう言えば、名前! まだ教えてもらってなかった!」
「申し遅れました。私は、アルヴァ。アルヴァ・エクエスと申します」
姉の声につられてルカは無意識に口を動かす。
「ルカ・エクエス、です……」
赤と緑が、ちかちか瞬いている。
「アルヴァちゃんに、ルカくん。うん、ちゃんと覚えた」
アングレカムの声に、足音が重なった。
振り向けば、そこにはレベッカやジュリア副団長、カレンとフィオナと、それから、ケネスが立っていた。呆然と光球を見つめて跪くレベッカとジュリア副団長の横を抜けてケネスが歩いてくる。
「それじゃあ、わたしたちは行くね。またちょっとだけ向こうに魔力を蓄えに行くけど、すぐに戻ってくるから」
じゃあね、というアングレカムの囁きと共に、二つの光球が薄れて消えた。
「さっきのは……」
レベッカの声にはフィオナが答えて説明をしているようだった。ルカはもう、それすらどうでもいいような気持ちになってばたりと仰向けに倒れて空を見上げた。すると、こちらに歩いて来ているケネスの腕に目がいった。
「ケネス、腕……赤い」
カタコトで言いながら指で指し示せば、ケネスは「ああ」と呟きながら赤紫色の瞳をルカへと向けた。
「ちょっとな、ヘマした。もう止まってるから気にすんな」
そう言いながら、ケネスはルカを引っ張り起こす。それから、躊躇したような一瞬の間をあけてから、座り込むアルヴァも引き起こした。
アルヴァはケネスを見ているが、ケネスは彼女を見ない。それがなんとも珍しくて、ルカは脳内麻薬が切れて怠くて仕方ない体を、無事なほうの扉に預けながら首を傾げた。
「ケネス」
「ん?」
アルヴァに呼びかけられてやっと、ケネスの目がアルヴァを見た。
「――……陛下は、ご無事か?」
「ああ、さっき騎士が医者を呼びに行った。大丈夫だと思う。女王陛下も大丈夫だろう。星花騎士団の騎士にフィオナが色々指示してたから」
「そうか」
ケネスの赤紫が再度ルカに向く。
「この後についてだが、聖都騎士団長が、女王陛下への報告は今回ばかりは後回しにして休めって」
言うだけ言って、ケネスはさっさと歩きだしてしまった。ルカは重たい体を叱咤して、殆どよろけるように歩き出す。そうしてから、姉を振り返った。
アルヴァはただ静かにケネスの背中を見つめていたが、ルカの視線に気が付くとニコと笑って歩き出した。
――なんだか、妙な雰囲気だ。ケネスが、あんなにボロボロな姉上を放っていくのも変だし、なんだろう、姉上の表情も……。
ルカの脳にはいろんな考えが浮かぶが、疲れにドブ漬けされた脳では何もまとまらない。
――だめだ。もう、あたまがまわらない。ねむい。
ルカはフラフラと歩いた。目的地などわからないまま歩いた彼が感じたのは、支えてくれるほんのり柔らかな花の香りと、硬い鱗と風と、自分を抱える温かな体温。そして、自分の匂いのする柔らかいもの。
確かなのはそれだけで、後はもう、眠りの彼方だった。




